蘭学の終焉、福沢諭吉の青年時代
21世紀のサロン、激動の東アジアを準備する : サロンの若者たち、九州を抱く
出島 · パク・イェウン · 中央大学
はじめに
東アジアの近世は激動の時期でした。鎖国を固守した朝鮮と、自発的に近代化に乗り出した日本は、正反対の道を歩んできました。日本の近代化の成功、その背景には出島、そして時代を先取りした思想家、福沢諭吉がいました。2023年2月、サロン15期、17期、そして19期までの三世代が共に参加した九州視察初日の最後の日程として、出島を訪問しました。近代的な建物に囲まれた出島は、ひっそりと近世の姿を留めていました。長崎に築かれた扇形の小さな人工島、出島(でじま)は、200年以上にわたる幕府の鎖国期間中、西洋との貿易が唯一許されていた場所です。キリスト教の布教を前面に出したポルトガルが追放され、1641年にオランダ東インド会社(VOC)の商館が出島に移されました。東洋と西洋の出会いが、出島で幕を開けたのです。
<図1> 出島の鳥瞰図(1669年)(出典:the Memory)
小さな橋が唯一の出入り口だった出島には、許された少数の日本人だけが出入りでき、オランダVOCの商館員は年に一度、将軍に拝謁するための外出のみが許されていました。このように厳格だった鎖国政策の下で、近代化の端緒となったのは、まさに蘭学(らんがく)の隆盛です。蘭学とは、オランダ語の書籍を通じて入ってきたヨーロッパの実用的な科学、医学などの学問や技術、文化を総称するものです。3. 蘭学の終焉、福沢諭吉の青年時代
鎖国初期の1720年まで、日本国内での洋書の輸入とオランダ語学習は公式に禁止されていました。しかし、出島を通じてワインや望遠鏡、地球儀のような西洋の先端的な文物が入ってくるのを止めることはできませんでした。1774年、蘭方医の杉田玄白(すぎたげんぱく、1733-1817)と前野良沢(まえのりょうたく、1723-1803)による『解体新書(かいたいしんしょ)』の出版は、蘭学隆盛の始まりとしてよく知られています。
それから一世紀が過ぎた1875年、福沢諭吉(ふくざわゆきち、1835-1901)は著書『文明論之概略』の中で、「西洋文明は我が国体を固め、さらに我が皇統に光を添えることのできる唯一無二のものであるのに、これを受け入れるにあたってなぜためらいがあろうか。断じて西洋文明を受け入れるべきである。」と述べ、西洋文明の重要性を説きました。
ここで福沢が言う「西洋文明」とは、オランダ語を通じて欧米の学問や技術を研究する蘭学ではありませんでした。彼は英語を通じて欧米の歴史や文化、その思想の本質を見抜く「英学(えいがく)」を唱えました。19世紀の日本の道を先駆けたのです。彼の文明論は、日本の古い封建的な伝統を揺るがし、近代化を成功に導きました。福沢が世を去って120年以上が経ちましたが、今日に至るまで彼の肖像画は1万円札の中に生き続け、後世に記憶されています。本視察報告書は、福沢諭吉の生涯と思想の変化を通じて、19世紀前半にかけて行われた蘭学から英学への転換とその意味を探求しようとするものです。
世界秩序の変動と蘭学の衰退
東アジアの近世が激動の時期であったなら、その震源地は断じて欧米列強でした。17世紀初頭、オランダは強力な資本力と海軍力を持つ東インド会社を前面に押し出し、ポルトガルを圧倒するスーパーパワーへと躍り上がりました。これは1639年に幕府がポルトガルからオランダに交易相手を転換したことの対外的な背景でもあります。18世紀の国際情勢はさらに複雑でした。文明の標準を設定し、世界秩序を主導するための欧米列強の熾烈な争いが繰り広げられていたからです(ハ・ヨンソン 2019)。
オランダは一世紀にわたり海上貿易を独占し、莫大な富を築きましたが、その権勢は長くは続きませんでした。18世紀に相次いだイギリスとの戦争で覇権が衰退し始め、太陽王ルイ14世率いるフランスとの戦争を機に、世界最強国家の地位を失うに至りました。
世界秩序の変動は、自然と日本国内の物象と心象の変化をもたらしました。しかし、18世紀のオランダの衰退が直ちにデジマと蘭学の衰退につながったわけではありませんでした。日本の開港は、オランダが国際舞台の主役の座から退いた後も一世紀以上を経て、1859年になってようやく実現しました。また、開港後には日本社会内で西洋の文物を排斥しようとする攘夷主義が盛んになりました。
一方、幕府は長らく鎖国政策を維持していましたが、国際情勢を詳細に把握していました。出島に入港するオランダの全ての船舶に、最近の海外動向に関する報告書である「オランダ風説書(おらんだふうせつしょ)」の提出を求めていたからです。これにより、幕府は早くからオランダの衰退を知っていましたが、19世紀中盤まで鎖国を固守しました。その強硬さは当時の外交史料からも見出すことができました。
1844年、オランダ国王ウィレム2世は将軍に直接手紙を送りました。日本はイギリスが清国を開国させようと行ったアヘン戦争を教訓とし、自発的に開国することが平和を守る方法であるという忠告が込められた手紙でした。しかし、将軍は非常に断固として開国を拒否しました(Fuyuko, M 2011)。1852年、オランダ国王の手紙が再び長崎港に届きました。今度はアメリカが日本の港を開国させる計画を持っていることを知らせるものでした。アメリカのペリー艦隊が日本に到着する1年前でしたが、幕府は動揺しませんでした。
<図2> ウィレム2世の手紙(1844年)
(出典:the Memory)
<図3> 徳川斉昭の返書(1845年)
(出典:the Memory) 3. 蘭学の終焉、福沢諭吉の青年時代
しかし、堅固だった幕府の意思とは無関係に、ペリーの来航を機に日本の鎖国政策は幕を下ろしました。では、蘭学の衰退はどのようにして可能になったのでしょうか?福沢諭吉がその答えを持っています。
福沢諭吉の青年時代と蘭学
18~19世紀の日本における学問の流れは、漢学、伝統的な儒学から蘭学へ、そして再び英学へと、変遷を繰り返した福沢の青年時代とよく似ています。福沢の足跡をたどりながら、19世紀の蘭学の衰退と英学への転換を見ていきましょう。
下級武士の息子として生まれた福沢は、藩の慣習に従い14歳で漢学を学びました。同年代より遅い始まりでしたが、学才に恵まれた福沢はすぐに漢学者の初級レベルに達しました。彼が育った中津藩は、士族間の門閥制度が非常に厳格でした。公的な問題だけでなく、子供たちの遊びに至るまで、上下貴賤を区別し、互いに使う言葉遣いが異なっていたほどでした。幼い福沢は、自然と門閥制度に反感を抱き、封建思想に染まった故郷を離れることを決意しました。1853年、ペリー艦隊来航の余波で福沢の兄が蘭学の勉強を勧め、ついに福沢は蘭学を口実に長崎へ向かうことができました。そうして故郷を脱出した福沢は、枕を敷いて寝たことがないほど、昼夜を問わず蘭学に精進しました。単なる脱出の口実に過ぎなかった勉強に、次第に興味を持つようになったのです。福沢は、蘭方医として名声を博した緒方洪庵(おがたこうあん、1810-1863)の適塾で5年余りの書生生活を終え、25歳になった1858年に蘭学を教えるに至りました。
<図4> 適塾の全景
福沢が蘭学者の道を歩み始めた頃、幕府政権は新たな局面を迎えていました。単に交易を要求しに来たそれまでの西洋船舶とは異なり、重武装した艦隊が日本の沿岸に出現したのです。1853年、アメリカのペリーは軍艦4隻を率いて現れ、日米和親条約の締結、開港、通商を要求しました。アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を携えていたペリーは、日本が要求を拒否した場合、武力行使も辞さないと脅しました(Perry M.C 1856)。当時すでにアヘン戦争の知らせを知っていた幕府は、戦争だけは避けなければならないという前提の下、アメリカの要求を受け入れざるを得ませんでした。こうして1854年、日米和親条約が締結されました。それにとどまらず、1858年には追加開港、領事裁判権、協定関税率の承認などを主な内容とする修好通商条約が西洋5カ国と締結されました。これにより、幕府は長崎、横浜、函館の3港を開港し、外国人の居住が許されました。
福沢が初めて英学の必要性を痛感したのは1859年、まさに開港されたばかりの横浜で起こりました。そこで福沢は、外国人との会話が通じなかっただけでなく、店の看板や街の張り紙を読むことができませんでした。何を見ても知っている文字はなく、英語なのかフランス語なのか全く分からないことに落胆した当時の心境を、福沢は自伝の中で次のように回想しています。
「これではいけない。これまで何年も必死にオランダ語の書物を読む勉強をしてきたが、それが今では全く役に立たない。本当に無駄な勉強をしたものだ。」
蘭学に入門してから6年後、福沢は蘭学の限界を直接目の当たりにし、今や英語の勉強をしなければならないという事実に直面しました。日本が開国し始めているため、これまでオランダ語がヨーロッパを代表する言語であったこととは無関係に、今後は英語が間違いなく必要になるだろうと見抜いたのです。福沢は、蘭学を完全に放棄して英学に切り替えるには、最初からまた苦労しなければならないという考えに苦悩することも束の間、並々ならぬ努力の末、英蘭辞典を入手し、何よりも英語が最優先であるという覚悟で、ひたすら英文学習に力を注ぎました。それが彼が英学者として踏み出した第一歩でした。
二度の西洋体験
その頃、幕府は条約のフォローアップのため、公式に西洋へ使節団を派遣し始めました。1860年、最初の公式使節団は日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカへ向かいました。福沢は艦長随行員という資格で同行しました。6ヶ月にも満たない短い旅でしたが、福沢に新しい文明に目を開かせるには十分な時間でした。絨毯や馬車など、サンフランシスコで初めて目にした物や技術に驚きましたが、本当に新しく、彼が理解しにくかったのは、政治、経済、社会に関する事柄でした。
「今ワシントンの子孫たちはどうしているかと尋ねた。するとワシントンの子孫には娘がいるだろう。今どうしているかは知らないが、良い家に嫁いだという噂がある、と冷淡に答えるだけで、大したことではないかのように扱うのだ。実に不思議なことだった。
もちろん私もアメリカが共和国であり、大統領は4年ごとに交代するという事実をよく知っていたが、ワシントンの子孫なら偉大な人物だろうと思っていた。…(中略)…そのような反応をするので、本当に不思議だと感じたことが今でも記憶に残っている。科学文明に関しては少しも気後れしなかったが、社会生活に関しては全く掴むことができなかった。」
<図5> ワシントンでの遣米使節団(1860年)
ウェブスター辞典を一冊買ってアメリカから帰国した福沢は、以前のように講義を続けました。変わったのは、生徒たちにもはや蘭書を教えず、ひたすら英書だけを教えた点です。福沢は英蘭辞典に頼って英書を学びながら教え、勉強を続けました。そんな中、外国語の実力を認められ、幕府の外務省に雇用され、イギリス公使とアメリカ公使が幕府に送る外交文書を翻訳する仕事に就きました。仕事は英語力向上にも役立ちましたが、何よりも自由に幕府の外交文書を閲覧する機会を得たことで、福沢は国際社会の情報を獲得することができました(イム・ジョンウォン 2011)。続いて福沢は、1861年に派遣された遣欧使節団に、幕府の雇用された正式な通訳官として参加しました。
最初の欧米旅行で福沢が封建的な日本社会とは異なるアメリカの文物や風俗に驚いたとすれば、彼は二度目の欧米経験であるヨーロッパ旅行を通じて、その違いの根源を理解しようとしました。すなわち、近代資本主義文明を、その文明を作り出した精神から理解しなければならないという問題意識を抱いたのです。書物から得られる内容であれば、日本でも原書を読み辞書を引いて調べることができるため、福沢はそうした学問的知識以外に、外国人にとってはあまりにも基礎的な知識で辞書にも載っていないようなことを、ヨーロッパ滞在中に理解しようと努めました。
蒸気機関の原理や印刷術のような原書に書かれている内容はさておき、病院の維持費は誰がどのように払うのか、銀行でお金の出納はどのように管理されているのか、そして国ごとに異なる徴兵制は、3. 蘭学の終焉、福沢諭吉の青年時代どのような趣旨で設けられたのか、といった資本主義社会の問題に関心を持ったのです。
<図6> ヨーロッパ旅行中の福沢諭吉(1862年)(出典:keio.ac.jp)
滞在初期、福沢はロンドンやパリなどで政治的な事案について様々な話を聞いても、その背景が分からず、まともに理解することができませんでした。しかし、彼はプロイセンの議会を直接傍聴し、議会政治の形態、民主主義の理念と原理などを人々に繰り返し尋ねました。それによって少しずつ内幕を理解するようになり、複雑な事情も10日かけてようやく納得することができました。福沢はこれをヨーロッパ巡遊の成果として挙げ、その成果は『西洋事情(せいようじじょう)』に詳細に記されています。
早くから封建的な身分制度に疑問を抱いていた福沢にとって、二度の欧米体験は、ヨーロッパとアメリカの文明をモデルとした近代文明の規範を自ら確立していく過程でした。
攘夷論の盛行
しかし、ヨーロッパから帰国して直面した国内の事情は、福沢が経験してきた欧米の世界とは正反対でした。孝明天皇(こうめいてんのう、1831-1866)が1858年に西洋5カ国と締結した通商条約の批准を拒否したことが知らされ、全国的に広がっていた尊王攘夷運動が頂点に達していたからです。西洋人を蛮夷とみなし、日本の地から追い出すべきだと主張する攘夷論者たちは、開国や西洋文明の導入を主張する人々を無差別に襲撃しました。あちこちで洋学者が難に遭ったという知らせが届き、福沢も安心できませんでした。彼は本心を隠し、社会を批判する言葉を口にせず、最大限身構えを慎み、ひたすら著作と翻訳に没頭して歳月を過ごしました。
攘夷論の雰囲気が高まるにつれて、洋学への福沢の志は確固たるものとなり、深まっていきました。これは福沢が1865年に著した「唐人往来(とうじんおうらい)」に如実に表れています。当時の世界観と文明を結びつけた福沢は、唐人、すなわち西洋人から学ぶ必要があると主張しました。さらに、大陸別、国家別の段階論を提示し、日本人たちがより広い世界を見るべきだと説きました。彼はヨーロッパとアメリカ合衆国を「上国」とし、アフリカとオーストラリア地域を下国に分類しましたが、アジアは中間等級で、改革を成し遂げられず慢心する国家として説明しました。また、「日本一国のみを指して、自ら神国だなどと騒ぎ、世との交流を避けて独り引きこもり、西洋人を追放するということは、あまりにも道理に合わないことではないか」と述べ、日本国内に蔓延していた攘夷論を批判しました。
多くの人々が攘夷主義を叫んでいた当時の社会の雰囲気の中で、洋学を学ぶ少数の学者たちは「和魂洋才(わこんようさい)」を語っていました。日本の伝統的な精神を維持したまま、西洋の技術を受け入れるべきだというのです。しかし、福沢の考えは異なりました。彼は西洋の近代文明を、日本が進むべき目標と見なしました。さらに、その文明の根幹をなす精神と核心的価値を受け入れるべきだと主張しました。これが福沢が蘭学から英学への転換を選択した理由です。
彼は、西洋列強と日本の差が、単なる実用的な技術ではなく、その文明の基盤に起因することを見抜いたのです。
<図7> 1万円札に描かれている福沢の姿
蘭学から英学への転換
福沢が日本の近世を代表する啓蒙家、教育者、近代化を導いた父として評価される理由は、彼が19世紀の日本が進むべき道を示してくれたからです。福沢は、和魂洋才を主張した多数の洋学者とも、封建的な伝統から脱却しようとした明治維新期の思想家とも異なりました。彼は、表層的な技術進歩や政権交代ではなく、日本の独立を目的としたからです。福沢は、独立のための19世紀日本の道として「文明」を提示し、西洋の近代資本主義文明をその目的地と設定しました。彼の初期の著作を順にたどりながら、思想の変化を追っていきましょう。
福沢の代表的な著作三部作の第一弾である『西洋事情(1866年)』は、先の二度の欧米体験を基に書かれた西洋の3. 蘭学の終焉、福沢諭吉の青年時代文物紹介書です。病院、学校、電信など、西洋社会の制度や社会像、理念などに関する一般的な説明と共に、アメリカ、オランダ、イギリス、ロシア、フランスといった西洋主要国の歴史や軍事制度、財政出納などを紹介しています。しかし何よりも、福沢がこの書物を通じて強調したのは「政治風俗」でした。
初編序論で彼は、「西洋の諸学問は日ごとに開かれ、月ごとに明るくなり、我々に大きな利益をもたらすが、ただ海外の学問や技芸のみを追求し、各国がどのような政治風俗であるかを詳しく知らなければ、たとえその学問や技芸を得たとしても、その国の根本を見抜いていないことになり、実用に役立つどころか、かえって害をもたらす可能性がある」と述べ、文明の利器を享受することよりも、文明の根本である各国の政治を知ることが重要であることを説きました。
図8 『西洋事情』初編の表紙(1866年)また彼は、『西洋事情』を通じて外国のおおよその形勢と実情を理解することにより、彼らを敵と見るべきか、味方と見るべきかを分別することを目的としていることを明らかにしました。近代国家としての日本の道を自ら見つけようとしたのです。本書で福沢は、国際社会におけるオランダの地位について、17世紀初頭に貿易が盛んになったが、連年の戦争で名誉を失ったと述べ、客観的な分析を展開する一方、当時のイングランドが繁栄する理由として、安定した政治体制と寛大な国律に注目しました。何よりも日本に存在しなかった概念である「liberty」と「right」をそれぞれ「自由」と「通義」と翻訳し、「All men are created equal」という文句を含むアメリカ独立宣言書の全文を翻訳して掲載しました。福沢は、西洋の政治と文化はどのようなものかという観点から出発し、近代社会を根本的に把握しようとしたのです。
福沢自身は自著について「西洋の新しい文物を輸入すると同時に、国の古い悪弊を除去する目的で、いわば文明の一部分を少しずつ切り取って販売した」と述べています。しかし、彼の著作が単に西洋文物を輸入・販売する仲介業者のような役割に留まったわけではありません。当時の日本の封建的な門閥制度を乗り越え、文明社会を目指そうとする彼の意志と切なる願いが込められているからです(ソン・ヒヨプ 2020)。
しかし、近代文明の標準としてイギリス、フランス、アメリカ、ロシアのうち、どのモデルに従うべきかという悩みは、依然として彼に残っていました(ハ・ヨンソン 2019)。このような彼の悩みは、1867年に3度目の欧米体験を経て具体化されました。
福沢が洋学の中でも英学に確信を持つようになったのは、彼の著作活動に見ることができます。福沢は1869年に『英国議事院談』を出版しました。彼の著作の中で、特定の国の政治体制を詳細に紹介した単独の著作物はイギリスが唯一です。彼は本書で、イギリス議会が君主制、貴族制、庶民制の三つの政治体制が混合され調和を成していることを肯定的に評価し、これは他国の政治体制と比較してより整然としていると述べています。彼はイギリスが議院内閣制という卓越した政治体制を持っているために太平の世を享受していると分析するなど、イギリスの議院内閣制に対する選好を明らかにしました。
『西洋事情』初編が出版された後も、日本は依然として攘夷論が渦巻いていましたが、1867年に福沢は再びアメリカへ向かいました。過激な攘夷論者たちによって戦争の危険が潜んでいましたが、福沢はアメリカで武器を購入する代わりに、経済書をはじめ、万国史、イギリス史、地理、法律などに関する原書を大量に購入して帰国しました。
幕府の攘夷主義を批判する一方で、福沢は「どうにかして洋学を盛んにして、必ず日本を西洋のような文明富強国にしたい」という野心を抱いていました。攘夷論の渦の中で、自身が設立した洋学塾、慶應義塾の学生たちを励ます際に語った言葉には、西洋世界に対する彼の博学な理解と文明への意志が込められています。
「大昔、ナポレオンが戦争を起こした時、侵略されたオランダは本国はもちろん、インド地域まで全て占領され、国旗を掲げる場所がなくなってしまいましたが、世界にただ一つだけ残った場所がありました。それが日本の長崎の出島です。
出島は古くからオランダ人の居留地であり、ヨーロッパ戦争の影響も日本には及ばず、出島の国旗は常に高く空にひるがえっていました。そのため、オランダ王国は一度も滅亡したことがないと言い、今でもオランダ人たちは誇りにしています。
そう考えると、慶應義塾は日本の洋学のために、オランダの出島と同様に、この世のあらゆる騒動や災難にもかかわらず、洋学の命脈を固く守ってきました。慶應義塾は一日たりとも閉校したことはありません。この塾が健在する限り、大日本は世界の中の文明国と言えます。誇りを持て。」
図9 慶應大学内の福沢の胸像 3. 蘭学の終焉、福沢諭吉の青年時代
刀を捨てて西洋を学ぶ、福沢の「文明論」
『西洋事情』と共に代表的な三部作とされる『学問のすすめ(1872年)』と『文明論之概略(1875年)』には、福沢の文明史観が非常に集約的に提示されています。それ以前の著作が主に翻訳を通じて西欧の近代社会とその文明を紹介することに重点を置いていたのに対し、『学問のすすめ』と『文明論之概略』は、福沢が独自の文体で自身の考えを明確に民衆に伝えようとした本格的な啓蒙書です(イム・ジョンウォン 2011)。
福沢は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言った。」という文章で『学問のすすめ』初編を始めています。続いて、先天的に差別がない人間間に、貴賤や貧富の差が生じるのは、ひたすら学問の有無によると説明し、民衆を学問へと導きました。封建時代の虚学ではなく、実用、活用の学問であることを強調する福沢は、西洋の文明社会が資本主義を通じて繁栄することに注目しました。経済学が新しい学問として発展するにつれて、国家の独立と社会の発展に金銭が重要な原動力となるという事実を把握したのです。
『文明論之概略』全般にわたり、福沢は「日本の当面の課題であり目的は国の独立であり、文明はその達成のための手段」であることを強調します。また、日本の文明が西欧に比べて遅れている理由を、封建時代の価値体系と風俗のためだと分析しました。福沢は西欧文明の核心が「個人の自由」にあることを見抜いたのです。これが福沢諭吉が時代を先駆けた思想家として今なお記憶される理由です。西欧諸国、とりわけイギリスが台頭する理由をその文明に見出し、文明の核心精神を受け入れて前進しようとしたからです。
図10 三田演説館内部と福沢の写真
(出典: keio.ac.jp)
西欧文明の核心である自由の気風は、多社討論の中でのみ存在すると考えた福沢は、西欧の文明精神を学ぶために、彼らのspeech文化、大衆演説を日本に初めて導入しました。これにより民衆を啓蒙し、討論の形式を借りて反対者の意見を収集し、また認めることができるという考えを広めようとしたのです。1874年、福沢は慶應義塾内に「三田演説館」を建立して一般に公開するなど、民衆啓蒙に先立ちました。3. 蘭学の終焉、福沢諭吉の青年時代 結び 日本の近代を代表する人物として1万円札に描かれている福沢は、19世紀日本の道を先に歩んだ啓蒙家であり教育者であり、誰よりも優れた思想家でした。より早く近代国家体制に入った西欧列強間の力の角逐の中で、福沢は国を守るために外には「自主独立」を、内には「民衆個人の自由」を叫びました。
日本の近代化は、17世紀から19世紀にかけて西欧への唯一の窓口であった出島から始まり、英学への転換と文明論を主唱した福沢諭吉に至って完成されたのです。
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https://www.netherlandsandyou.nl/your-country-and-
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*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。