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日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614 出島

複合的な視点から再構成する東アジアの過去と未来:サロンの若者たちが九州を抱く

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EAI サラバン訪ね歩き
発行日
2026年5月14日
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ユ・ジヒョン · 延世大学校

はじめに

日本のキリスト教史は、16世紀半ばから20世紀初頭まで、正確には1549年から2022年の今日まで、実に470年を超える長い歳月をかけている。しかし、470年という長い歳月にもかかわらず、今日の日本のキリスト教人口は全体の1%に満たない200万人未満である。500年近い歴史にもかかわらず、キリスト教信仰は大きく成長することなく、疎外された信仰として残っている。今日のキリスト教信仰に対する日本大衆の無関心の背後には、260年に及ぶキリスト教弾圧の歴史が存在する。17世紀の徳川幕府の下で、キリスト教信仰は1614年から1873年までの約260年間、日本全域で徹底的に禁止され、日本に根付く機会を失ったのである。2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島

1549年にポルトガル宣教師団を通じて日本に初めて流入したキリスト教信仰は、1614年に日本の将軍であった徳川家康がキリスト教禁止令を発表したことから、日本全域で徹底的に禁止される。それまで日本に居住し宣教活動を行っていた外国人宣教師には強制追放令が下され、追放令に従わず隠れて生活し摘発された場合は過酷な刑罰が科せられた。教会やキリスト教学校など、キリスト教団体に関連する全ての施設は中央権力によって破壊され、日本国内の全てのキリスト教信者は改宗を強要された。それにもかかわらず、自らの信念を貫き将軍の命令に服従しないキリスト教信者は、例外なく過酷な刑罰に処せられた。このように家康は、16世紀半ばから日本全域に急速に広まっていたキリスト教信仰を根絶しようとした。本稿では詳細には触れていないが、家康の息子である徳川秀忠は、キリスト教禁止令にとどまらず、西洋諸国との交易を遮断する政策を打ち出した。1549年に日本に流入し、順調な道を歩み急速に成長していたキリスト教信仰が、65年後の1614年から日本全域で徹底的に禁止された背景には何があるのだろうか。1614年にキリスト教信仰に対する全面禁止令が下されるまで、1549年から展開されてきた日本のキリスト教史を振り返り、その弾圧史の背景を探る。

既存の先行研究は、日本の長きにわたるキリスト教弾圧史の背景について、様々な異なる見解を示している。一つの見解は、東洋と西洋の文化の違いを弾圧史の根本原因とみなし、西洋から伝わったキリスト教信仰は最初から東洋の国である日本には馴染まない宗教であったと主張する。確かに、日本の文化は多数の神を同時に崇拝する神道思想を基盤としているため、絶対者のみを崇拝する一神教のキリスト教信仰を受け入れることに困難があるのは事実である。しかしながら、それでもなお、上記の意見には容易に同意しがたい点が多い。第一に、今日、私たちは比較的容易に韓国を含む東洋の多くの国でキリスト教信仰がすでに大きく成長している、あるいは成長している様子を見ることができる。第二に、当時日本で活動していた外国人宣教師が残した記録によれば、神の言葉を真剣に学び、熟考した日本人のキリスト教信者の数が少なくなかったこともわかる。つまり、東西文化の衝突を全く無関係な要素と見ることはできないが、約3世紀にわたる日本のキリスト教弾圧史を説明するには十分ではないのである。

別の見解は、日本の国家主義をキリスト教弾圧史の根本原因として挙げ、戦争が絶えなかった戦国時代において、日本の政治家にとって最も重要な政治的課題は日本の統一であり、キリスト教のような外来宗教は日本の統一を妨げる要素と認識され弾圧されたというものである。日本の統一が当時の最も重要な政治的課題であったという点では、多くの人が同意するが、キリスト教団体に対する中央権力の認識については意見が分かれている。ある者は、キリスト教団体が統一の妨げになったというよりは、統一のために2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 中央権力の確立が必要だった時期に、格好の標的となる外来勢力として政治的道具として利用されたと主張する。一方で、これとは相反する意見として、ある者は、日本の政界が統一のために意図的にキリスト教団体を共通の敵としたというよりは、キリスト教信仰の急速な成長速度、政界関係者を標的とした布教活動、そしてその背後にある強固な西洋諸国の存在が、日本の権力中央をしてキリスト教団体を脅威的な勢力と認識せざるを得ない状況を作り出したと主張する。東西文化の衝突とは異なり、当時の日本社会の現実を反映したこれらの見解は、もっともな主張と言える。しかし、これらの主張もまた、事件の背景を正確に描き出すには十分ではない理由は、日本の国内状況のみを大きく描いているからである。日本のキリスト教弾圧史は、もちろん日本社会の中で発生した事件ではあるが、その事件の少なくない部分が日本国外の外来国家や外来の人々と関連しているため、日本の国内状況のみを考慮しては、事件の全体的な背景よりも部分的な背景しか描けないと言える。つまり、日本国内外の状況を共に考慮しなければ、日本キリスト教弾圧史の背景を比較的正確に描き出すことはできないのである。

キリスト教信仰が1549年に日本に初めて伝来し、1614年に全面的に禁止されるまでの65年間、世界政治は激動の過程を経た。世界秩序の再編成と活発な航海活動により、多くの国々が結びつき、東洋と西洋の出会いが実現するなど、歴史的に非常に多彩な時期であったと言える。先に言及したように、日本のキリスト教の歴史は、日本と西洋の関係を考慮せずに全体的な文脈を描き出すことはできないため、日本国内で起こった弾圧の歴史であっても、日本の国内状況だけでなく、内外の状況を共に考慮する必要がある。このような理由から、既存の研究とは異なり、日本の国内状況のみに焦点を当てた狭い視点から弾圧史の背景を考察するのではなく、内外の状況を同時に考慮して、事件をより広い視点から照らし出そうとする。さらに、この事件をいずれか特定の集団の視点からのみ解釈する誤りを犯さないために、弾圧史の被害者と加害者の異なる立場や考え方の違いを考慮し、この事件を複合的に捉えようとする。

最後に、日本の内外の状況と共に、弾圧史の被害者と加害者の両者の立場を考慮した結果として、1549年に日本に初めて流入し順調な道を歩んだキリスト教信仰が、1614年から日本全域で徹底的に禁止された理由には、ポルトガルの衰退と徳川幕府の中央権力確立のための国家統制が、核心的な背景であったと主張する。

日本とキリスト教信仰の出会いとその展開

世界秩序の変動と東西の出会い 2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 日本とキリスト教信仰の出会いに関連して、16世紀初頭の世界秩序の変動は大きな意味を持つ。もしポルトガルがグローバルパワーとして確立し、植民地開拓のための活発な海洋探査を行わなかったならば、ポルトガルのイエズス会宣教師たちが遠いヨーロッパから当時のアジアの辺境国であった日本へ渡ることはなかったであろうし、それゆえ宣教師たちが日本へ渡らなかったならば、16世紀半ばにキリスト教信仰の福音が日本に伝えられることもなかったであろう。

こうして、日本のキリスト教の歴史は、事実16世紀初頭の世界秩序の変動から始まる。16世紀初頭、ポルトガルはグローバルパワーとして世界の中心に躍り出て、このような世界秩序の変動に従い、1515年に既存の世界秩序はポルトガルを中心に新たに編成される。その後、ポルトガルは活発な海洋探検を重ね、植民地開拓に没頭し、グローバルパワーとしてのポルトガルの影響力は東西を問わず世界各地に広がり、アフリカ、アメリカ、そしてアジアにまで及んだ(Modelski 1978, 219)。日本とキリスト教信仰の出会いも、このような東西の出会いの中で実現されたのである。15世紀初頭からポルトガル人は活発な海洋探検活動を展開していたが、その中で1543年に一人のポルトガル商人の船が日本南端の種子島に上陸したことをきっかけに、初めて島国日本を発見することになったのである。その後、両国間の本格的な交易が始まり、両国間の交易が次第に活発になるにつれて、日本は自然に多様なヨーロッパの文明や文化を受け入れるようになり、キリスト教信仰もこのような過程の一環として日本に流入したのである。

ポルトガルの影響下で歓迎されるキリスト教信仰

日本のキリスト教史は、1549年8月15日、スペイン出身のポルトガル宣教師フランシスコ・ザビエルが、マレーシアのマラッカで出会った日本人ヤジロウ(Anjiro)と、神父トルレス(Father Torres)、修道士フェルナンデス(Brother Fernandez)と共に、布教活動を目的として日本の鹿児島に上陸したことから本格的に始まる(Cieslik 1954, 1-2)。

21世紀の今日、日本のキリスト教の現状から見ると、キリスト教信仰は最初から日本大衆から冷遇されたように思われるかもしれないが、実際には当時のグローバルパワーであったポルトガルの影響力の下、日本大衆はもちろん、政界関係者からも大きく歓迎された。ザビエルが日本で布教活動をしていた時期に、ポルトガル、インド、ローマなどの各地のイエズス会宣教地に送った手紙や、イエズス会団体が発表した様々な記録を見ると、16世紀半ばにキリスト教信仰が日本から大変な歓迎を受けた事実を容易に確認できる。ザビエルの手紙によれば、権力者たちはしばしば宣教師を自宅に招いて福音について詳しく尋ねたり、宣教師のための経済的支援を惜しまなかったという(Campbell, 1921)。2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島

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図1. フランシスコ・ザビエル(出典:神戸市立博物館)

当時、キリスト教信仰が外来宗教であったにもかかわらず、流入してすぐに日本で大きく歓迎された理由は、ポルトガルが貿易を通じて当時の日本の経済、政治、社会に及ぼしていた甚大な影響力と深く関連していると言える。日本の商人はポルトガルとの貿易を通じて経済的利益を得ており、権力のために絶えず争わなければならなかった封建領主である大名は、日本にはない西洋の先進的な強力な火器を輸入して使用することができた(Boxer 1951, 28)。そのため、経済的利益を通じて生計を立てる商人にとっても、戦争で必ず勝利しなければ自身の命はもちろん、自身の領土と家門を守ることができた大名にとっても、ポルトガルとの貿易は重要であったに違いない。

さらに、日本の商人や大名にとってポルトガルとの貿易がより一層重要視されざるを得なかった理由は、当時日本にはポルトガルに代わる貿易相手が存在しなかっただけでなく、存在し得なかったからである。当時ポルトガルはグローバルパワーとしてアジアとヨーロッパ間の貿易を主導するだけでなく、アジア諸国間の貿易も独占していた。つまり、日本にとってポルトガルを通さずに外国の物品を輸入することはほぼ不可能であったのだ。このように、貿易に関してポルトガルに大きく依存していた日本にとって、ポルトガル出身のイエズス会宣教師団を無下に扱うという選択肢は、最初から全くなかったと言えるだろう。

そのため、大名たちはポルトガル商人だけでなく、ポルトガル出身のイエズス会宣教師たちとも良好な関係を築くために多くの努力を傾けた。よく知らない外来宗教の布教活動を、特別な確認なしに容易に許可するだけでなく、布教活動を支援することにも積極的な姿勢を見せた。外国人宣教師が快適に滞在できる宿所や、聖書学習のための教会を提供したり、必要であれば金銭的な支援も惜しまなかった。もちろん、全ての С大名が、単に計算的な心だけで2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 イエズス会宣教師団を歓迎したと断定することはできないが、ポルトガルとの継続的な貿易が彼らに対する歓迎の最大の理由であったと言える。

大名たちが宣教師たちをそれほどまでに歓迎した理由には、ポルトガルがグローバルパワーとして日本に及ぼした甚大な影響力もあったが、もう一つの理由として、両国間の交易において宣教師たちが果たした重要な役割があった。交易のためにはポルトガル語と日本語を同時に話せる人材が必要であり、それには宣教師たちより適した人材はいなかった。日本での成功的な布教活動のために、日本の文化や言語を熱心に学んだ外国人宣教師たちは、ポルトガル商人や日本商人との間で通訳および仲介の役割を担うことができる唯一の人材であったのだ。このような理由から、イエズス会宣教師団は、大名たちの歓待と保護の下、日本で大きな制約なく福音を伝え、戦争が乱舞する中でも長期間にわたり布教活動を続けることができたのである。

日本の封建社会とキリスト教信仰の急速な拡散

当時の日本社会は封建社会であり、封建領主である大名が改宗した場合、制度的に彼の家族、家臣などを含め、少なくとも300人以上の人々が共に改宗するという社会形態を呈していた。事実、ザビエルが日本を新たな宣教地として選んだ理由も、このような日本の封建的な社会制度と深く関連していると言える。他国で宣教活動を行っていた際に、日本の封建社会制度について伝え聞いたザビエルは、日本の天皇を改宗させれば、その下の封建領主や知識人たちもキリスト教信者になるだろうと考え、アジアの島国である日本をもう一つのキリスト教国にできるという希望を抱いて日本へ渡った。彼は日本に到着した後、各地を巡り、封建領主である大名の許可を得て布教活動を行った。同時に、一日も早く天皇がいる今日の京都、すなわち都を訪問し、彼に福音を伝えようとした。そこでザビエルはついに日本の天皇に会い、福音について話す機会を得るが、その喜びも束の間、日本における天皇は単なる象徴的な地位に過ぎないことを悟り、大きな虚脱感に陥った。しかし、彼はすぐに計画を修正し、日本で実質的な権力と影響力を持つ封建領主である大名を布教活動の主要な対象と定め、日本で布教活動を続けた。2年余りの布教活動を終えて日本を去る際、彼は次の宣教師たちに、日本での成功的な宣教活動のためには、大名たちと良好な関係を築き維持することが最も重要だと言い残して去ったという(Cieslik, 1594)。2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島

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図2. 宣教師たちの布教活動(出典:Japanese History and Culture)

その後、イエズス会宣教師団は、大名を布教活動の主な対象とし、彼らを改宗させることに多くの努力を傾けた。前述したように、当時ポルトガルは貿易に関して日本に相当な影響力を持っていた。それに加えて、ポルトガル出身のイエズス会宣教師たちは貿易において重要な役割を担っていたため、宣教師たちが大名から布教活動の自由を許されることは、それほど難しいことではなかった。そのため、キリスト教信仰は西洋の異教でありながらも、流入して以来、全面的禁止令を受けるまで、ポルトガルの影響力と日本の封建的な社会制度の力によって、比較的短期間で日本社会で急速に成長することができたのである。日本国内のキリスト教信者数は、1582年には15万人、1609年には22万人に達するなど、キリスト教信仰は急速に成長していったという(Elison, 1988)。イエズス会宣教師団の日本文化受容

前述したように、いくつかの既存研究は、キリスト教信仰が日本で成長できなかった理由について、東西文化の衝突を根本的な原因として提示している。しかし、16世紀後半の日本のキリスト教史を見ると、日本の文化とキリスト教信仰が単に衝突したというよりは、互いのものを吸収し、自らに馴染んだ文化を相手に強調するのではなく、妥協点を見つけ、共に歩もうと努力した事実がわかる。例えば、16世紀初頭、イエズス会宣教師団が日本に到着し布教活動を続けていた当時、宣教師たちは献金制度を実施していなかったという。本来、宣教活動のために新しい場所へ出発する際には、献金制度に関して事前に計画を立てることが一般的だが、日本での布教活動の計画において、ザビエルは献金に関する計画を立てず、徴収もしなかったという。しかし、当時の日本大衆の間では、宗教団体であれば資金を集めて地域社会の困窮者を助けるべきだという考えが支配的であり、イエズス会宣教師団は、このような日本キリスト教信者の意見を取り入れ、献金を徴収し、それを地域社会の困窮者支援に活用したという。このような例を通じて、イエズス会宣教師団は、布教活動において、彼らだけの2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 方法だけを固執して日本人に一方的に強要するのではなく、日本人の文化を適切に受け入れる柔軟な姿勢を持っていたことがわかる。

さらに、クリスチャン宣教師たちは、日本文化や歴史を学ぶことにも非常に積極的な姿勢を見せた。1579年に日本に到着したイタリア出身のイエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alexander Valignano)は、キリスト教信仰が日本に定着するためには、必ず日本人の習慣や考え方を理解しなければならないと力説した。彼は、日本社会を対象とした福音の伝播と日本大衆との円滑なコミュニケーションのために、宣教師たちは必ず日本の文化や歴史を理解し、彼らの言語を習得しなければならないと考えた。教育のために書籍の必要性を痛感したヴァリニャーノは、1590年にリスボンからマカオを経由して日本に印刷機を持ち込み、その後、日本では様々な説教集や言語教育のための書籍が出版され始めた。当初の予想よりも印刷機はさらに有用に使われ、西洋宣教師の日本語学習のための書籍だけでなく、日本人のラテン語、ポルトガル語教育のための言語教育書籍も共に発行された(Midzunoe 2005, 2)。キリスト教宣教師団は、日本について学び、日本大衆に西洋の文化を強要するのではなく、逆に彼らの文化をまず理解し受け入れようとし、このような宣教師団の努力が、結局は日本人が西洋の学問や言語を学ぶことにつながったことがわかる。仏教団体との対立

キリスト教信仰は日本に流入して以来、ポルトガルの保護の下、順調な道を歩んできたように見えるが、その道には依然として乗り越えなければならない山が存在した。中でも、本来日本国内で最も支配的な宗教として定着していた仏教団体が、キリスト教団体の最大の障害であったと言える。仏教団体は、日本全域にキリスト教信仰が広がり始めると、その地位が揺らぎ始めた。キリスト教の福音を受け入れた人々は、仏教の教義を偽りの教義だと批判し、その結果、長年培われてきた仏教の名声には亀裂が生じ始めた。さらに、封建社会の制度により、多くの仏教信者が一度にキリスト教信仰に改宗したため、いくつかの都市では寺院に集められた施し金の額も急激に減少し始めた。その結果、寺院で生計を立てていた僧侶たちの生活は急速に苦しくなり、僧侶たちは自分たちの威信を落とし、生計さえ脅かす西洋の異教に対して不満を持つのは避けられなかったのである。

キリスト教団体と仏教団体の間で起こった直接的な対立は、イエズス会宣教師団がザビエルの手紙を復元して発表した資料からも顕著に現れている。資料によると、ザビエルが鹿児島で布教活動を続けていた頃、仏教僧侶たちは人々に噂を流して宣教師団に対して反感を抱くように煽り、さらに大名たちを絶えず唆して、これ以上のキリスト教の拡大を禁じる法令を下すように誘導した。その結果、鹿児島にはすぐにキリスト教布教活動を2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 制限する法令が発表され、それ以上の布教活動が不可能になったため、ザビエルはヤジロウに鹿児島を任せ、神父トルレス、修道士フェルナンデス、そして数名の日本人と共に平戸へ旅立った。1549年9月、ザビエルと初めて対面した際、大名は明らかに急いで都へ向かおうとするザビエルを引き止め、半年後に風が良くなり安全な航海が可能になったら出発するように促したが、法令発表後は彼の出発を許可し、平戸へ旅立てるように船を用意してくれた(Cieslik 1954, 3)。大名たちは概してポルトガルとの円滑な貿易のために、イエズス会宣教師たちをむやみに扱えず歓迎したが、その中でも一部の大名は仏教団体の説得に屈し、キリスト教団体の布教活動を制限することもあったのだ。

日本で2年半余りの宣教活動を続けながら、絶えずヨーロッパへ手紙を送っていたザビエルは、仏教団体をキリスト教団体の最大の敵と描写し(Coleridge, 1872)、日本に残る宣教師たちに、これから日本へ渡って宣教活動を続ける宣教師たちに仏教に注意するよう警告した。思想の違いから決して共に歩むことのできなかった二つの宗教は、互いを最大の敵と見なしていたのである。

日本キリスト教の弾圧史

豊臣秀吉のキリスト教布教活動は、織田信長が生きていた頃までは、彼の確固たる支援の下、順調な道を歩んでいた。イエズス会宣教師団は教会や学校を建てて福音を宣べ伝え、さらには日本の使節団を組織して共にヨーロッパを訪問するなど、ヨーロッパのイエズス会と日本の間の関係を強固にする出会いの場を作ったりもした。しかし、信長が死に、豊臣秀吉がその座を継ぐと、キリスト教の困難が本格的に始まったのである。信長の後、日本最高の権力者の座に就いた秀吉は、最初からキリスト教勢力に対して反感を抱いていたわけではなかった。秀吉が政権を握っていた当時も、ポルトガルとの貿易は依然として重要であったため、ポルトガルとの継続的な貿易や、宣教師たちからの貿易に必要な支援を受けるために、秀吉を含む大名たちはポルトガル宣教師たちと良好な関係を維持しようと努めた。そうして順調な道を歩み続けることができるかのように思われたキリスト教信仰も、1587年に秀吉がキリスト教勢力の拡大を制限する布告と神父追放令を相次いで発表したことで、キリスト教信仰の困難が始まったのである。

秀吉は1587年7月23日、神父追放令を発表する一日前に、反キリスト教布告を先に公表した。全11条からなる反キリスト教布告は、要するに、今後キリスト教信仰に関連する改宗の問題は中央権力が統制し、キリスト教信者は日本社会全体に害をなす悪の集団であるというメッセージを伝えている。具体的には、封建領主が家臣にキリスト教信者に改宗するよう2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 強制することを禁じ、小作農などの下層民には改宗の自由を許可するが、封建領主の階級には改宗前に必ず中央権力から許可を得なければならないことを明記している。同時に、以前日本社会で問題を起こした仏教界の一宗派である一向宗に言及し、キリスト教信者は彼らよりもさらに悪質な集団であることを強く示唆している。このような反キリスト教布告に続いて発表された神父追放令では、冒頭から日本は神の国であることを強調し、神社仏閣を破壊し、神の国を汚すキリスト教勢力は20日以内に神国(日本)から去るよう命じている(Elison 1988, 115-118)。

結果的に、二つの布告は十分に実施されなかったが、布告の後、キリスト教団体は以前には経験したことのない大きな困難に直面した。秀吉は、大村純忠がイエズス会に譲渡した長崎の地を没収して自身の所有地とし、さらに近畿の教会や修道院を破壊したりもした。しかし、イベリア半島貿易商人との交易は依然として重要であったため、布告の施行を一時中断し、キリスト教宣教師の助けを受けることが頻繁にあった。そのため、反キリスト教布告の施行は中断されるように見えたが、1596年のサン・フェリペ号事件により、26人のキリスト教信者が当時のクリスチャンの都市として知られていた長崎の地で残酷に処刑される事件が追加的に発生した(Hur 2007, 34)。

1596年、サン・フェリペ号と呼ばれるスペインの船舶が、今日の高知県である土佐に漂着したことにより、当時の権力者であった豊臣秀吉は、キリスト教宣教師たちが中央権力の許可なく日本に渡り、宣教活動を行っている事実を知ることになった。激怒した

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図3. 長崎の殉教(出典:Saint Benedict Center) 秀吉は、この機会に自身の命令に背いた場合にどのような刑罰に処せられるのか、見せしめをしっかりと示すために、京都で24人のキリスト教信者を逮捕し、キリスト教徒の都市である長崎へ連行して公開処刑することを決定した。そのため、24人のキリスト教信者は、京都から長崎まで実に1000kmもの距離を1ヶ月かけて歩いた。途中で二人のキリスト教信者が殉教に自ら参加し、26人となり、1597年2月5日、この26人のキリスト教信者は多くの人々が見守る中で公開処刑された。

長崎の殉教を通じて、秀吉は日本全域のキリスト教信者に恐怖と恐れを植え付け、キリスト教勢力の拡大を2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 抑えようとしたが、彼の意図とは異なり、長崎の殉教とその後の数回の殉教事件は、かえって残ったキリスト教信者の信仰をさらに強固にした。そして間もなく、中央権力は政策の方向性を変え、キリスト教信者を処刑するよりも、彼らを非常に残酷で極端な方法で拷問し、自ら信仰を放棄するように誘導した(Website of Churches, 2014)。秀吉政権下で発表された反キリスト教布告は、結局十分に実施されなかったが、キリスト教信仰に対する中央権力からの最初の警告音のようなものであった。

徳川家康

秀吉政権下でキリスト教信仰の困難を告げる警告音が鳴り響いたとすれば、徳川政権の時代は、その困難の歴史が本格的に始まり、展開された時期と言える。秀吉の後、日本の最高権力者となった徳川家康は、実は反キリスト教でも親仏教でもなく、最初からキリスト教信者を弾圧したわけではなかった。彼もまた、先に政権を握った信長、秀吉と同様に、ポルトガルとの継続的な交易のために外国人宣教師たちを歓迎した。京都、大阪、長崎など、日本の各地にイエズス会宣教師たちの布教活動を許可し、さらには金銭的に困難を抱えている宣教師たちには財政的な支援を提供することさえした。しかし、それも束の間、1600年代初頭にオランダ、イギリスなどの新しい貿易パートナーが登場すると、キリスト教団体に向けた家康の穏健な態度は180度変わることになる。ポルトガルに代わる新しい貿易パートナーを得たことで、これは家康をして、もはやポルトガルとの貿易なしでも外国製品を輸入できるだろうという考えと共に、クリスチャン宣教師たちを歓迎しなければならない理由も失わせてしまったのである。つまり、日本の権力中央でキリスト教団体を思いのままに操れる環境が整えられたのである(Hur 2007, 37)。

徳川政権下でのキリスト教団体への過酷な弾圧は、二つの反キリスト教布告が発表されると共に本格的に始まった。まず1612年に、キリスト教団体に向けた比較的短い警告文が発表されたが、これはキリスト教信仰を禁止し、法令に違反した場合は相応の処罰を受けるだろうというメッセージを伝えている(Morries 2018, 300)。そして2年後の1614年には、先に発表された比較的短い警告文に比べて長い「破邪顕正文(Hai Kirishitan bun)」を発表したが、直前の警告文とは異なり、キリスト教団体を強く批判している。禁止令を破る信者に対しては例外なく過酷な刑罰を下すという、キリスト教団体に対する強い排斥の内容を含んでいる(Morries 2018, 301-306)。それ以降も多くの反キリスト教関連布告が発表され、家康の息子である秀忠が政権を握ってからは、西洋との貿易を禁じる布告も発表された。

映画監督マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)の監督の下で制作され、2016年に上映された映画『沈黙』(Silence)は、17世紀の徳川幕府下で苦しんだポルトガル出身の外国人宣教師たちの物語を描いている。2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 『沈黙』は、日本の作家遠藤周作(Shusaku Endo)が書いた小説を原作としているが、イエズス会宣教師団からも認められるほど、映画の多くの内容が実際に起こった出来事を描いていると評価されている(Jesuits, 2021)。1614年、外国人宣教師たちに向けた大規模な追放令と、日本全域でのキリスト教信仰禁止令が下され、これは日本の歴史上、かつてないほど徹底的に行われた。中央権力は村々を巡り、キリスト教信者を捜索した。村人たちは列に並び、聖母マリアやキリストが描かれた石や木の板を踏んで、自分がキリスト教信者ではないことを証明しなければならなかった。

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図4. 反キリスト教布告(出典:Jesuits)

単純な行為に過ぎないと思われるかもしれないが、このような行為は、自分の信仰を捨てることと同義であったため、命令を拒否する信者がいた。彼らは処刑されたり、過酷な拷問に処せられたりした。外国人宣教師たちは、日本全域に追放令が下されたにもかかわらず、宣教活動を続けるために、中央権力の監視を避け、隠れて生活しながら地下で集会を開いた。しかし、外国人宣教師を探し出した者には金銭的報酬が与えられ、匿まった者には過酷な刑罰が与えられたため、隠れて生きることも決して容易ではなかった。隠れて摘発された場合、逆さに吊るされ、頭は穴に埋められたまま、額にできた傷口から一滴ずつ流れ落ちる血が止まるまで苦しみ抜いて死ぬという、過酷な刑に処せられた(Silence, 2016)。

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図5. 聖母マリアが刻まれた木の板(出典:Jesuits) 2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島

後に徳川幕府は、自分がキリスト教信者ではないことを仏教寺院が発行する証明書を通じて証明するようにすることもあった(Hur 2007, 14)。このような政策により、生き残ったクリスチャンたちは仏教徒に偽装して地下で信仰を守り抜く生活を送った。彼らは隠れて生きるクリスチャンとして「隠れキリシタン」と名付けられ、長い間、自分たちの信仰を隠し続けていたが、19世紀に入り日本の鎖国政策が終わると姿を現した。まさに徳川幕府下、17世紀はクリスチャン虐殺の時代であった。

1549年から徐々に増加していた外国人宣教師の数は、1614年を境に大幅に減少し始めた。1586年から日本で活動するクリスチャン外国人宣教師の数は、1614年まで毎年100人以上の数を記録した。しかし、1614年の布告以降、キリスト教信者に対する過酷な弾圧が続き、1614年には118人と集計された宣教師の数が、翌年の1615年には58人に激減した(Schütte 1968, 379-380)。宣教師の数が布告以降、前年の半分以下に減少した当時の現実は、徳川幕府がいかに過酷なキリスト教弾圧政策を実行したかを如実に示していると言える。

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図6. キリスト教信者に下された拷問(出典:Jesuits)

キリスト教弾圧史の大内外的な背景

基本的に神道と仏教思想が根深く浸透している日本という土地に、外来宗教であるキリスト教信仰が最初から順調な道を歩み、急速に成長することができた理由は、当時貿易に関してポルトガルが日本に甚大な影響力を持っていたからである。仏教が初めて流入した時も、新しい宗教の登場で混乱していた日本社会が、遠い西洋の地からやってきた外来宗教団体に対して大きな反感を示すどころか、最初から歓迎し、見慣れない宗教の布教活動まで許可した理由は、ポルトガルとの貿易のためであった。しかし、ポルトガルが次第に力を失い、オランダ、イギリスのようにポルトガルに代わる新しい貿易パートナーが登場するようになると、キリスト教団体に対する日本の態度は急変することになった。また別の世界秩序の変化により、日本はもはや交易問題に関してポルトガルに大きく依存する必要がなくなり、ポルトガルとの関係が以前ほど重要でなくなった以上、キリスト教団体を特別に歓迎する理由も自然となくなってしまったのである。

このように、ポルトガルの衰退とオランダ、イギリスの成長という、国の外の変化した状況が、日本の政界にキリスト教団体を以前とは異なり、思いのままに統制し抑圧できる自由を与えたとすれば、日本キリスト教弾圧史の国内的背景は、それよりもはるかに複雑であると言える。キリスト教思想に対する反感、キリスト教関連の政治勢力から感じる政治的脅威、そして中央権力の確立と強化など、様々な要素や状況が複合的に展開し、これらが結局、キリスト教団体に向けた過酷な弾圧という結果をもたらしたのである。

まず、日本社会内に存在したキリスト教団体に対する反感について話したい。日本のキリスト教史は大きく二つの部分に分けられる。最初の時期は成長の時期であり、キリスト教信仰が日本に初めて流入した1549年から、反キリスト教布告が日本全域で実施される直前の1614年初頭までの期間を指す。そして第二の時期は、迫害と隠遁の時期であり、徳川幕府の下で反キリスト教布告が本格的に実施された1614年から、キリスト教迫害が終結した1873年までの期間を指す(Morries 2018, 92)。このように、日本のキリスト教史は大きく成長の時期と、迫害と隠遁の時期に分けられるため、キリスト教信仰が大きく成長した時期に、日本社会内にキリスト教信仰に対する反感が存在したと予想するのは容易ではない。表面的に見ると、キリスト教団体は当初歓迎され、後に弾圧されたため、キリスト教信仰に対する日本社会の反感も、最初は存在せず、時間が経ってから生じたと誤解しやすい。しかし、事実、どの外来宗教も、最初は一般的に歓迎されるよりも冷遇され、好意よりも反感を買うように、キリスト教信仰もこのことから自由ではなかった。もちろん、クリスチャン宣教師団が最初から日本大衆や政界から大きく歓迎され、比較的自由に布教活動を続けたのは事実だが、これは主にポルトガルとの円滑な貿易のためであったため、心から湧き出る真の歓迎であったとは言い難い点が多い。究極的には、貿易を通じて得られる利益のために、状況に合わせて一時的に本心を隠しただけであり、キリスト教団体に対してひたすら良い感情だけを抱き、反感は全く持っていなかったと断定することはできないのである。1600年代に入り、オランダ、イギリスのようにポルトガルに代わる貿易パートナーが登場すると、急速にキリスト教団体に背を向けた徳川幕府の態度の変化も、2. 日本キリスト教弾圧史の背景:1549-1614_出島 単に現れなかった反感が、状況が変わると表面に現れたものと解釈できる。

キリスト教団体に対する日本の権力者の反感には、いくつかの理由が複合的に絡み合っていると考えられる。第一の理由は、日本にすでに根付いていた神道・仏教思想と相反するキリスト教の一神教思想と深く関連している。キリスト教信仰が日本に初めて伝来した当時、イエズス会の宣教師団は思想の違いから仏教団体と多くの対立を生み出した。本来、キリスト教信仰は一神教思想であり、他の神を崇拝する偶像崇拝を禁じ、ただ絶対者である神のみを崇拝することを強調する。しかし、それとは対照的に、すでに日本社会に深く根付いていた神道・仏教思想は、800万を超える多数の神々を同時に崇拝するだけでなく、人間は死んで神として生まれ変わることもできるという輪廻思想を基盤としているため、キリスト教信仰とは水と油の関係にならざるを得なかったのである。こうして両者は思想的に共存できない関係に置かれ、キリスト教信仰が16世紀中頃から日本の各地に広まるにつれて、仏教団体はキリスト教信者が増えた分だけ仏教信者を失うことになったのである。これに対し、仏教僧侶たちは、静かだった日本に未知の異教が現れ、仏教団体の宗教的・社会的地位を脅かすという考えから、自然とキリスト教団体に対する不満と敵意を抱くようになったのである。もしこのようなキリスト教団体と仏教団体との間の対立が、単に二つの異なる宗教間の対立で終わっていたならば、おそらく日本のキリスト教弾圧史は少し異なる方向へ進んだかもしれない。しかし、二つの宗教間の対立は政界にまで及び、結局キリスト教団体に対する日本の政界の反感をさらに煽ることになった。

本来、日本の政界はキリスト教信仰が日本に伝来するずっと以前から仏教団体と親密な関係を築いてきた。基本的に、寺院に賽銭を捧げることで罪を洗い流せるという社会風土が蔓延していた時期であったため、誰でも寺院に賽銭を持ち寄り、仏教僧侶たちと親しく交わることを肯定的に捉えていた。さらにその中でも、大名は最も多くの賽銭を捧げていた社会階層であったため、仏教僧侶たちとより近く、深い関係を築いていた(Cieslik, 1954)。このように親しく交わり、ましてや自身の業障消滅を助けてくれる僧侶たちが訪ねてきてキリスト教団体について否定的な話をすれば、大名たちは当然、僧侶たちの言葉を信じ、キリスト教団体に対して反感を抱かざるを得なかった。宣教師たちが残した書簡にも、いくつかの大名が仏教僧侶たちの唆しに乗り、キリスト教宣教師たちの布教活動を制限したという記録を見ることができるように、仏教との摩擦はキリスト教団体をして日本の政界から憎悪と反感を招かせることになった。

それだけでなく、キリスト教と神道・仏教との間の対立が政界にまで及んだもう一つの理由は、1500年代における神道・仏教思想の政治的有用性と深く関連していると言える。古代から神道・仏教思想は、常に日本の権力者たちの政治的道具として、支配層の権力に神の正当性を付与し、神の前で誓った忠誠に基づき、支配層と被支配層の関係を強固にするために利用されてきた。すなわち、権力者は神道と仏教を、支配層の権力を強化し、潜在的な下克上の発生を未然に防ぐために使用したのである(Kudora, 1996)。1500年代に入り、豊臣秀吉、徳川家康が反キリスト教布告に「日本の神の国」と明記し、神道と仏教を擁護したことも、こうした古代の政治的慣習を踏襲したものと見ることができる。特に不安定だった社会状況の中で、権力確立のために宗教が政治的道具として有用に用いられる時期において、神道・仏教思想と摩擦を起こし、大衆にそれらの欠点を際立たせるキリスト教団体は、権力者から反感を買わざるを得なかったのである。

このように、権力者はキリスト教信仰と団体を否定的に見ていた一方で、同時に他の側面では、これらを日本全体の共通の敵とすることで、権力を強化するのに非常に有用に利用した。豊臣秀吉の場合、1587年に発表した反キリスト教公文で、キリスト教団体を、以前社会的な問題を起こした仏教の一宗派である一向宗と比較し、キリスト教信者を一向宗よりも悪しき集団と表現し、その翌日に発表した伴天連追放令では、キリスト教団体を日本の古い伝統を破壊し、社会秩序を乱す悪の集団と描写した(Elison 1988, 115-118)。徳川家康もまた、キリスト教団体に関して、豊臣秀吉と非常に似た方向の政策を推し進めた。1614年に家康政権下で発表された「バテレン追放令」は、キリスト教宣教師たちを、日本に有害な教義を広め、真実の宗教を偽りとし、国の公権力を欲する悪の集団と批判した(Morris 2018, 301-306)。言い換えれば、秀吉も家康も共通して、キリスト教団体を日本の敵、日本社会の悪として、巧妙に自身の権力強化に利用したのである。自らを悪から神国を守る守護者として位置づけ、自身の権力を正当化し、同時にキリスト教信者たちを意図的に公の場で過酷に処罰することで、自身の権力を誇示し、中央権力の地位を確固たるものにしようとしたのである。

日本におけるキリスト教弾圧の別の背景は、中央権力がキリスト教団体を政治的脅威と認識したことである。宣教団体が実際に政治的目的を持っていたかどうかについては意見が分かれ、何よりも確実な証拠が欠如しているため、軽々しく判断を下すことはできない問題である。しかし、政治的目的の有無を置いておいても、この時代のキリスト教団体が示した行動は中央権力から誤解を招く余地が十分にあったと考えられる。第一に、宣教団体は時間が経つにつれてより広い地域で宣教活動を続けるだけでなく、宣教団体の名の下に一部の土地を所有することもあった。1580年、オムラ・スミタダがイエズス会に長崎の土地を譲渡したことで、キリスト教団体は初めて日本にキリスト教の都市を築くこととなった。第二に、宣教団体は宗教団体でありながら、戦争に備える軍事的な姿勢を見せた。城壁を高くし、要塞化し、武器を事前に備えていた。最後に、宣教師たちは政治家を布教活動の主要な対象とし、彼らを改宗させるために特に多くの努力を注いだ(Morris 2018, 107)。常に敬虔で善良な行いをすると思われる宣教団体が、まるで参戦の準備をする者たちのように高い城壁を築き、武器を準備することは、一般的に人々が期待する宗教団体の姿とはかけ離れているため、このような宗教団体の軍事的な側面を捉えた者たちは、明らかに宣教団体が宣教以外の目的を持っていると考えることができる。しかし、当時の戦争が絶えなかった日本社会の状況を正しく理解すれば、この程度の宣教団体の行動は、実際には政治的目標を達成するよりも、時代の状況を考慮した宣教活動の一部であると解釈することも無理ではないだろう。

織田信長の政権から豊臣秀吉、徳川家康が次々と政権を握った戦国時代は、中央権力が確立されていないまさに内戦と反乱の時代であった。1467年から1477年までの約10年間続いた応仁の乱以降、中央権力は崩壊し、120人以上の大名がそれぞれ一部の国家領土を支配し、互いにより多くの権力と広い領土を得るために絶えず争っていた時期であった(Morris 2018, 101)。したがって、この時代の日本社会は、戦争のない平和な日々を数えるほど暴力に満ちた時代を過ごし、宣教師たちも頻繁な内乱のために宣教活動を中断し、戦争を避けて他の都市に移動せざるを得ない状況にしばしば直面していた。暴力が横行する混乱した時期に、イエズス会も何の準備もせずに大名の助けだけを期待することはできなかったであろう。さらに、望めばいくらでも母国にある教団から助けを受けて戦争に備えることができたため、宣教団体は自らできる限り戦争に備えていたと考えられる。実際、土地を宣教団体の名義で所有することになったのも、明らかに武力ではなく譲渡によって得たものであり、内乱が絶え間なく起こっていた時期に直接戦争に備えたのも、大名の保護にのみ依存せず、自ら安定した宣教活動を保障しようと実践したものである。また、政治家を布教活動の主要な対象とした宣教的戦略は、実際には初代宣教師ザビエルの時から始まったものであった。当時、戦争が絶えず行われていた封建社会において、暴力から安全で法的に許可された布教活動を持続するためには、宣教師にとって大名の助けは不可欠であった。さらに、封建社会の特性上、一人の大名を改宗させれば、その下に300人以上の人々が共に改宗したため、宣教団体が成功するために大名を布教活動の主要な対象としたことは、実際に宣教地の当時の社会現実を反映した当然の宣教戦略であったと言える。

キリスト教団体が政治的脅威と認識されたもう一つの背景には、徳川政権下でキリスト教信者であったと確認された大名たちが引き起こした政治的スキャンダルが関連している。1614年に日本全土に下されたキリスト教禁止令の引き金となったこの事件は、1608年にマカオで起こった武力衝突事件から始まった。キリスト教大名有馬晴信の船員とポルトガル商人との間に武力衝突がマカオで起こり、その結果、60名の日本人が命を落とした。翌年1609年、マカオ武力衝突事件に関与したポルトガル出身のマカオ総督アンドレ・ペソアは、船員たちと共に長崎に停泊した。この時、晴信はマカオ事件を記憶し、復讐劇を繰り広げ、晴信が勝利したことで、ペソアとその船員たちは皆殺しにされた。晴信と同じ側で共に戦ったもう一人のキリスト教大名、岡本大八は、晴信が戦争を勝利に導いた後、家康から報酬を得たいという晴信の意図を察し、晴信に代わって家康の側近であり自身の指揮官である本多正純を説得し、以前有馬家が失った土地を取り戻せるよう協力すると言った。間もなく大八は晴信に、家康がまもなく土地を下賜するという偽りの知らせを伝え、これに喜んだ晴信は、大八に手厚い賄賂を渡した。そして1612年、待ちきれなくなった晴信は直接正純を訪ね、土地の話を持ち出したことで、大八の嘘が露見した。二人のキリスト教大名のスキャンダルに怒った家康は、彼らに対する調査を実施し、調査の結果、大名たちの間にキリスト教信仰が広く浸透しており、自身の家臣の間にもキリスト教信者が多く、彼らの間には信仰によって形成された繋がりが存在することを発見した。特に、秀吉が死去し、その息子秀頼が大坂城で依然として勢力を維持し、徳川政権の権力掌握を脅かしていた当時、秀頼を支持する大名たちの間でも親キリスト教的な傾向が強かったため、キリスト教信仰に対する家康の反感はこれを機にさらに強まったと見ることができる(Hur 2007, 35-40)。

結局、キリスト教団体が弾圧されることになった国内的背景には、徳川政権の権力確立のための強圧的な統治が核心的であったと言える。大名はもちろん、宗教勢力や小作農勢力まで含め、社会を混乱させていた時期に、徳川家は先の織田信長、豊臣秀吉に倣い、権力を確立する方法として武力による威嚇と強圧的な統制という方法を選択したのである。このような時代の状況下で、西洋から渡来したキリスト教宣教師団と日本国内のキリスト教信者たちは、先に説明した様々な要素と状況が複合的に絡み合い、統制的で強圧的な徳川政権の弾圧の対象となったのである。

おわりに

日本キリスト教弾圧史は、日本国内外の変化が絡み合って展開された歴史と言える。対外的にはポルトガルの興亡、国内的には複雑に絡み合った複合的な背景の中でも、権力を確立し、国家全体を徹底的に統制しようとした徳川政権の強圧的な統治が、日本キリスト教弾圧史の最も核心的な背景であったと言える。

この歴史は、表面的には単に権力を守ろうとする者たちと、それに反して信仰と信念を守ろうとする者たちの長い戦いのように見えるが、また別の複合的な観点からは、歴史とは単純に見えるものだけで判断できるものではなく、内外の様々な観察可能な要素と観察不可能な要素と状況が複合的に絡み合って展開された結果であることを示している。

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*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。

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