明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い
激動の東アジアで中心を探す:サロンの若者たち、九州を抱く
グラバー園・キム・デヨン・高麗大学校
I. はじめに
スコットランド出身の商人、トーマス・ブレーク・グラバーは、マディソン商会の社員として上海で勤務した後、日本に移った人物です。1863年に長崎港が見渡せる南山手地区に大邸宅を建てて住むほど出世し、外国人としては初めて勲二等旭日重光章を受章するなど、日本政府から産業化と近代化に貢献した功績を認められ、1911年に東京で生涯を終えました。日本で最も優れた木造洋風建築が現存するグラバーの邸宅は、現在長崎市によってグラバー園及び記念館として整備・運営されています。19世紀の日本は鎖国政策で孤立を保っていましたが、ペリーの黒船来航後、長崎を開港し、幕府は外国と修好通商条約を締結して開国を決断します。外国商人は長崎に居留地を形成して貿易を続け、グラバーも茶を中心とした商売を始めました。当時の日本国内では天皇は実権がなく、徳川家の将軍が実権を握っていましたが、全国は「藩」に分かれており、各地方で大名が君臨していました。特に長州、薩摩のような西南の諸藩は、かつて豊臣秀吉に従ったものの下関戦争で敗れた後、辺境で勢力を蓄えていましたが、海外との密貿易を企てていました。彼らは将軍が貿易を独占し税を徴収することに大きな不満を抱いており、日本各地では幕府が外国と修交したことに不満を抱き、天皇を擁立し西洋夷狄を追い払おうという「尊王攘夷」のスローガンが広まり、対立の火種は大きくなっていきました。
このような状況下で、西欧列強と薩摩、長州は1862年にそれぞれ衝突します。1862年9月には、横浜近郊でイギリス商人と薩摩藩主の行列が衝突する生麦事件が発生し、長州の攘夷戦争後、欧米各国は報復攻撃に出ます。1863年7月2日、イギリス艦隊はアームストロング砲を装備した7隻の艦船を動員して鹿児島を攻撃し、甚大な人的・物的被害を与え、翌年8月5日にはイギリス、フランス、オランダ、アメリカなど4カ国連合艦隊が長州の海岸に現れ、長州の地上砲台と要塞を砲撃します。これは長州と薩摩が西欧軍事力の現実を直接経験させ、対外政策と軍事政策の推進において変化をもたらします。このような時代の流れに注目したグラバーは、武器貿易に3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園乗り出し、銃砲を売り始め、薩摩側の人物と接触し、1864年には産業近代化、外国人専門家の雇用、西欧知識の習得のための海外留学生派遣を勧める提案書を送るに至ります。1863年、グラバーは伊藤博文、井上馨ら長州藩の若い志士5名のイギリス密航を助け、1865年には五代友厚をはじめとする薩摩藩青年15名のイギリス行きも手配しました。彼らは西洋の近代文明を学び帰国し、日本の近代化に重要な役割を果たすことになります。
1865年、長州藩は西洋式の改革政策を断行し、新式兵器の調達を試みたが、対立していた幕府は外国と長州藩の密貿易を禁止させたことで、四国からの共同書簡を受け取ることになった。幕府の長州征伐を目前に、絶体絶命の危機に立たされた桂小五郎(木戸孝允)は、密貿易禁止に対する対策をグラバーに尋ねることになる。これに対し、薩摩の名義を借りて代わりに船舶と小銃を購入する案が登場し、後に1866年の薩長同盟へと繋がっていく。そして戊辰戦争が勃発し、旧秩序は崩壊して明治維新が成し遂げられ、日本は帝国主義列強として東アジアの覇権を握るための足がかりを築いた。
グラバーは長州に武器を販売するようになったのでしょうか。これについてSidney DeVere Brownは3つの解釈を提示しています。第一に、政治的ロマン主義に駆られたグラバーが、自身を政治的冒険家と認識し、徳川幕府の最大の敵手と自称したように、木戸孝允や伊藤博文のような若い長州志士に共感したというものです。この当時、若いイギリス通訳(アーネスト・サトウ、アルジャーノン・B・ミットフォード)も長崎内外を巡り、天皇を支持しており、彼らの影響を受けた可能性があります。第二に、幕府を支持したフランスに対し、スコットランド人としてフランス帝国主義に対抗し、イギリス帝国主義の先兵として行動したというものです。Gordon Danielsが指摘したように、イギリスは改革派のナショナリズムに対しては、穏やかな変化をもたらすという条件の下でのみ支持を表明し、ハリー・パークス公使の1865年の中立路線からこれをうかがい知ることができますが、グラバーはこの路線を超えて長州を積極的に支持する姿を見ることができます。第三に、機会主義と実用主義の路線で利益を追求する商人であるため、金さえ払えば何でもする活動の一環という解釈です。グラバーは長州、そして幕府にも武器を売る側面を見せており、戦争準備のために武器と商船を購入しようとした長州と接触し、1865年10月15日に木戸と会うことになります。
II. 木戸とグラバーの若い日々(~1865年)
グラバーは1859年、上海から21歳でマディソン商会の店員として長崎に到着します。外国人居留地が区画され、当初は中国のアヘン貿易で最大の収益を上げたジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings Limited)でキャリアをスタートさせたのです。メンターであるマッケンジーでさえ、中国の漢口で違法貿易に従事していたところをジャーディンによって日本に派遣されていたことを確認できます。このように、中国から日本へ貿易活動を移したことは非常に一般的だったと言えます。後にグラバーが幕府に武器を販売する側面を見せ、巨商として浮上する姿を観察すると、青は藍より出でて藍より青し、と言えます。1859年7月4日に開港した長崎は、人口4万人の小都市で、250~300人ほどの外国人が居住していました。江戸から遠く離れていたため、幕府の政治的権威が及ばず、長崎は西洋への窓の役割を果たしました。明治維新以前、緩やかに統制されていた長崎を最も活用したのはグラバーで、綿織物をイギリスから輸入し、茶や米を各藩から中国へ輸出する日々を送っていました。そんな中、1862年に自身の名前を冠した会社を設立し、グラバー商会が活動を開始します。同年9月には、前述のように、生麦事件が発生し、イギリス人チャールズ・リチャードソンが殺害され、イギリスの注目が薩摩に集まり、19世紀の日英関係を彩ります。これにより、イギリス政府は幕府の将軍と薩摩藩に、責任者の処刑と10万ドルの賠償金を要求し、この時期、グラバーは24歳という若さでイギリスと対立していた薩摩との交易を開始します。
チャールズ・リチャードソンの死から1年後の1863年7月、賠償金と謝罪、そして責任者の処罰を得られなかったイギリスは海軍を投入し、薩摩藩の中心地である日本南部の鹿児島に砲撃を加えます。都市の避難命令により人的被害は少なかったものの、紙と木材でできた都市は燃え上がり、薩摩藩は近代化の威力を感じて開化を志します。当時グラバーは1863年に薩摩、そして薩摩と競争関係にあった他の藩、さらには幕府の将軍にも銃砲を販売しました。特に1864年から1867年の間、グラバーの貿易は頂点を迎え、日本国内の様々な政治勢力と密接な関係を維持し、幕府勢力と武家勢力との争いに必要な軍艦や銃、銀などの金塊を供給しました。1864年9月頃、日本で故郷アバディーン(Aberdeen)で建造された「薩摩」号を皮切りに船舶販売を開始したグラバーは、4月には薩摩藩からミニエー銃3,000丁の購入依頼を受け、その後グラバー商会を通じて長崎に入荷した小銃は約17万1,934丁に達すると言われています。1860年から1867年までの武器取引により、25歳で薩摩藩の主要なブローカーとなり、後に薩摩と長州の薩長同盟の主要なブローカーの役割も担うことになります。
木戸孝允、桂小五郎とも呼ばれる木戸孝允は、明治維新の三傑の一人で、天皇を奉じ外国を撃退するという目標で若い日々を送っていました。1864年6月5日夜、京都の池田屋で尊王攘夷派志士20余名が密議を企てている最中に京都治安部隊の新選組が急襲し、彼らを一網打尽にする、いわゆる「池田屋事件」が発生します。尊王攘夷の指導者である木戸孝允もこの会合に参加するために事前に到着していましたが、参加者が見えず、隣の対馬藩邸で茶を飲みながら時間を過ごしたおかげで命拾いしました。このため「逃亡の名人」とも呼ばれる木戸は、逃亡生活を送っていましたが、高杉晋作が藩政を再び掌握した後になってようやく長州に帰還します。この事件に激怒した長州の尊王攘夷派は、千数百名の兵を率いて領主の無念の罪を天皇に訴えるという名分を掲げて京都へ出動します。京都政局の主導権を取り戻すために兵を率いて京都へ討ち入ったものの、薩摩、会津、越前、桑名連合軍に敗れ、皇居前で銃撃戦まで繰り広げられたこの事件は禁門の変と呼ばれます。これにより長州は朝敵と烙印を押され、最悪の危機に陥ります。
さらに悪いことに、8月には下関沿岸に列強4カ国連合艦隊17隻が停泊し、大砲288門、兵力約5千名の大部隊が8月5日に砲撃を開始し、長州藩の砲台を沈黙させた後、約2千名の兵士が上陸して砲台を占領し、長州の騎兵隊と「下関戦争」を繰り広げました。これは1863年5月10日に長州の尊王攘夷派指導者久坂玄瑞が軍艦2隻を動員して下関海峡で暴風雨を避けて避難中だったアメリカ商船を奇襲的に砲撃し、その後もフランス、オランダの軍艦に砲撃するという攘夷武力行動に対する報復攻撃でした。4日間の戦闘で長州藩は15名の戦死者を出し完敗し、関門海峡を通過する外国船舶の安全保障と、飲料水および燃料の提供、そして300万ドルの賠償金を支払うという条件で下関戦争は終結しました。ここでほとんどの艦船が破壊され、長州は実質的な海軍力を失います。この講和会議で長州側の通訳として活躍したのは、イギリス留学中急遽帰国した伊藤博文です。伊藤は1863年にグラバーの助けでイギリスで学んだ「長州ファイブ」の一人でした。
長州藩は本来、外敵排斥を唱えていましたが、敗北を契機に「尊王攘夷」から「尊王倒幕」へ、鎖国から開国へと転換します。1864~1865年を期に、長州は薩摩と同様に、開港を通じた貿易の推進、軍事力の強化、そして幕府との対立的な姿勢という共通の立場を持つようになります。1865年、長州藩では高杉晋作が構想した「打破政策」が推進され、4月26日には「桂小五郎」の名で木戸は復帰し、藩主の側近として民政と軍政を総括します。保守勢力と連合して幕府に対抗する政策を取りながら、山口に製鉄所を建設し、製砲、製鉄、造船などを民間に払い下げる計画を立てるなど、産業政策も並行して行います。陸軍の西洋式改革も推進し、藩財政には余裕がありませんでしたが、それでも内戦的な危機状況において幕府の海軍力に3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園対抗するには無理があったため、艦船購入と海軍増強を図ることになります。
下関敗戦の経験を通じて長州藩は優れた武器の必要性を痛感していましたが、幕府が掌握している開港場で武器を購入することはできず、密貿易に目を向けます。しかし、西欧列国も日本の合法政府として承認された幕府が行使する正当な権利である「未開港での貿易禁止」に対して道義的な支持を表明し、イギリス政府も幕府が要求した覚書の作成に参加します。ウィンチェスター領事(代理公使)は、「長崎にある一、二のイギリス商社が下関で積極的に貿易に従事していることを知ったので、イギリス国民に不法貿易をしないよう警告する公示を発表するのが望ましいと考える」と述べており、これにはグラバー商会も含まれると推測されます。当時は幕府が外部から公認された日本の合法的な政府であり、外国の領事は国際法を遵守しなければなりませんでした。まだイギリスは幕府に敵対的な藩勢力の大義に共感できていませんでした。そして1865年、駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックの後任としてハリー・パークスが6月27日に長崎に到着します。グラバーは港でパークスとの夕食の席で、西南藩の大名に日本の未来がかかっていると説得しようとしますが、パークスの反応は鈍いです。翌日、グラバーは「日本政府」のためにアームストロング砲35門と弾薬(183,847ドル相当の銃器)を注文する手紙をニューカッスルに送り、4万ドルの利益を得ます。しかし、将軍との取引で得た利益のうち3万ドルは前金として同月6月に薩摩に渡します(その後もグラバーはジャーディン・マセソン商会から「日本投資」のための資金を前金で受け取り、イギリスにいる薩摩の19が使用できるようにします)。このような背景の中で、木戸はグラバーに接近することになります。
III. 木戸とグラバーの初対面(1865年)
1865年当時、グラバーが親交のあった長州の志士(伊藤と井上)は、長崎に来る前に薩摩藩邸に身を寄せており、武器類や蒸気船を買いに来る際には薩摩の志士に変装して訪問しました。この当時、グラバーは青木、木戸のような長州の反幕指導者たちを自宅に匿っていたと言われています。これについて、一部の日本の役人がイギリス領事館にこれを密告し、グラバーはこのような行動が続けば長崎から追放されるという通知を受けました。しかし、グラバーは「開国と西欧文明へ日本を導こうとした」木戸に好感を抱き、親幕府の志士に追われ助けを求めていた木戸を自身の船に乗せて航海させ、これについて追及を受けると、船を修理しなければならなかったとごまかしました。当時グラバーは将軍と取引を進めており、アームストロング砲を将軍に売って4万ドルの利益を得ましたが、3万ドルを薩摩に貸し付けるなど友好的な姿勢を見せます。
手紙での連絡の末、グラバーは長崎から直接銃器を供給しようとし、1865年10月15日、下関で伊藤博文に同行して木戸と個人的には初めて会うことになります。木戸は密貿易禁止に対する対策をグラバーに尋ねると、「幕府がイギリスにこの問題について非常に強く頼んだようであり、その真意は結局長州藩を妨害することが主目的である。いずれにせよ、幕府は条約を締結した相手なので、どうすることもできない。このため、長州藩は今後武器を入手する手段が全くなくなった。非常に残念だが、どうすることもできない」と述べ、続けて「長州藩主の船で上海に行き購入するならば、何ら支障はない。もし船がなければ、上海に一人か二人密航させて汽船を購入し、その船に小銃を密かに積んで輸送することは、どのような方法であっても協力しよう」という方策を伝えたと言います。木戸はこの頃のグラバーが非常に沈痛な様子だったと述べており、グラバーも密貿易禁止で巨額を稼げる対象を失ったため、彼もこの方策については非常に真剣だったようです。当時はアメリカの南北戦争が終わり、武器商人が余剰銃砲を処分するために努力していた時期であり、上海港に積み上げられていました。龍馬はこの情報を長崎を通じて入手し、西郷隆盛の同意を得た後、山口の温泉場へ行き、木戸に薩摩が長州の武器取引を助けるという提案をします。当時薩摩藩の実力者であった西郷隆盛と長州の木戸孝允との会談が、西郷の急な上京で流れたため、「幕府を倒し、日本を近代国家にするためには、両藩の連携が不可欠である」と龍馬は木戸に5月に会って説得します。長州藩の高杉と井上に会っては、「幕府軍に対抗するには銃と汽船が必要である。しかし、外国商人は長州藩に物を売らないだろうから、薩摩藩の名義で代わりに購入するように頼んでみろ。購入に同意するかどうかで、薩摩の意思を確認できる」と言いました。
この問題に関しては、東海(旧暦)5月に坂本龍馬と中岡慎太郎の二人が相次いで下関を訪問し、二人(井上門太と伊藤俊輔)と相談し、長州藩が薩摩藩の名義を借りて汽船を購入する方策を立てました。汽船についてのみ言及し、小銃について言及しなかったのは、当時青木軍平が小銃千丁を購入するよう命を受けて既に長崎に行っていたためですが、長崎で幕府役人の妨害により小銃購入の使命を果たすことができませんでした。長崎で貿易団体「亀山社中」を運営していた龍馬は、巨商グラバーにこれを依頼しますが、朝敵である長州や一介の浪人である龍馬が取引相手であれば、このような危険な取引はできなかったと思われます。しかし、既に以前大量の武器を購入した実績のある3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園薩摩の名義であれば問題ない、と受け入れたのです。準備交渉の末、長州藩の指導者たちは伊藤博文と井上馨が率いる武器購入団を7月に長崎に派遣し、彼らは薩摩藩士の宿所に滞在しました。彼らはグラバーとの交渉が長州藩に有利に進むように調整する役割を担っていましたが、前述のように、彼らはグラバーの助けで1863年にイギリスに密航した「長州ファイブ」のメンバーでした。伊藤博文と井上馨が坂本龍馬の仲介で小松帯刀と協議し、薩摩の名義を借りて(旧式)ゲベール式小銃3,000丁と(最新式)ミニエー式小銃4,300丁を約9万2,400両で購入することで契約します。当時幕府をはじめほとんどの藩が導入していたゲベール銃は在来式の前装銃で、弾丸を銃口から棒で押し込む方式でした。1850年代には小銃の製造技術が飛躍的に発展し、現在使用されている小銃と同じ装填方式であるミニエー銃が大量に普及し、クリミア戦争ではイギリス軍が初めて使用してロシア軍を撃破するのに決定的な役割を果たしました。操作が簡便で射撃速度が速く命中率が高いため、ゲベール銃10丁と同等の威力がありました。射程距離については、(幕府軍の主力武器であった)ゲベール銃は100メートルに過ぎませんでしたが、ミニエー銃は300メートルに達しました。その後、伊藤は薩摩藩士になりすまし、薩摩所属の蒸気船で長州の三田尻港に銃砲を大量に搬入するなど、小銃を下関まで運び、長崎に滞在しながら情報を収集しました。その他にもフランス軍艦艦長、そしてグラバーと会って情報を集め、木戸に報告しました。
この武器取引を通じて、薩摩に対する長州の信頼は回復します。同時に、龍馬を支援した薩摩藩の人々が彼に船一隻を託し、勝麟太郎の下で習得した航海知識を活用しようとしました。このため、組織の責任者という独立した地位を与え、組織に「亀山社中」という名前を付けましたが、後に「海援隊」という意味を持つ「海援隊」に改称されます。小さな商社を連想させるこの名称は、薩摩藩の支援を受けている事実を隠し、幕府領港湾都市で西欧諸国と貿易活動を行うことを可能にしました。長崎で龍馬は、外国人商人との交渉業務のほとんどを担当するようになり、商社はまず幕府の封鎖措置が下された長州藩への外国武器の搬入を支援し始めました。長崎に派遣された長州藩代表は、厳格な監視のため外国人商人との取引ができませんでしたが、龍馬は西郷隆盛の承認を得て、その代わりとなることができました。
薩摩藩の名義を使用して輸入したミニエー銃4,300丁が8月に長州藩に到着し、蒸気船の購入も実現に向かいます。長州藩主毛利敬親は薩摩藩の久光父に書簡を送り、薩摩藩との対立は「万端、誤解が解けた」と伝え、軍艦購入も正式に依頼します。紆余曲折の末、1865年12月4日(慶応元年10月)、長州藩は薩摩の3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園仲介でトーマス・グラバーを通じて蒸気軍艦「乙丑丸/乙卯丸」(the Union号、薩摩では「桜島丸」:70馬力205トン)を37,500両の費用で購入し、薩摩の軍事的支援を契機に両藩は反幕秘密同盟まで締結します。その後、長州が薩摩に一方的に借りを作ることで発言力が弱まるのを防ぐため、龍馬はその年の10月、長州藩の穀物を薩摩藩の軍糧米として活用できるように手配します。薩摩があった鹿児島は米が不足している地域であり、京都に駐留していた薩摩藩兵への兵糧供給先の確保という問題で西郷が苦心したことに端を発しました。龍馬の提案を木戸が受諾したことで、1865年秋には薩摩と長州間の通商活動が開始されます。トーマス・グラバーから購入したユニオン号は、下関海峡の海戦に参加した後、長州藩の統制下に完全に移行し、乙卯丸という名前に変更された後、長州藩海軍の一員となりましたが、これは薩摩側との協力において最も顕著な成果物でしたが、龍馬の商社にとっては損失だったと言います。別途、薩摩藩を経由して購入したスクーナー型帆船「ワイルドウェーブ」号は、ユニオン号に次いで商社が購入した2番目の船舶で、鹿児島へユニオン号と共に初航海に出ましたが、荒波が二隻の船を襲うと、蒸気機関を備えていないスクーナーは沈没してしまいました。この時、塩屋崎で荒波に遭い失った12名の仲間の中には、龍馬が実の弟のように可愛がっていた池内蔵太もいました。
IV. 薩長同盟と武器取引(1866~1867年)
1866年3月7日、長州藩を代表する木戸、薩摩の西郷隆盛、そして仲介者の坂本龍馬が薩長同盟を成立させ、6月に将軍の軍隊は長州を攻撃(幕府軍の第二次長州征伐)するが撃退される。幕府が動員した諸藩の兵力は約10万名で、長州藩兵力の約10倍に達していたが、ヨーロッパの戦術で訓練を受け、グラバーの優れた銃器のおかげで将軍の軍隊に対抗し勝利を収めることができた。薩長密約により、最も強力な軍隊を持つ薩摩軍が幕府軍に加担せず、高杉晋作が購入した軍艦を率いて幕府艦隊を夜間奇襲して勝利したことが勝敗の決定的な要因となった。グラバーが提供した蒸気船ユニオンも7月28日の海戦に参戦する。この戦争の初期、伊藤は石川方面の戦闘に参加していたが、藩政府から帰国し中国へ行って軍艦を買ってくるよう命令を受ける。伊藤は長崎へ行き、イギリス商人グラバーの助けを得て上海へ渡り、軍艦2隻を購入する契約を結び8月末に帰国する。軍艦は戦争が終わった10月に到着したが、その後部隊輸送などに有効に利用される。
従来、薩摩に冷淡だったイギリスは立場を少しずつ変え始め、薩摩藩の当主である島津はグラバーを通じてパークスイギリス公使を鹿児島に招待します。招待されたパークスとグラバーは夕食の晩餐で、イギリス政府がもはや将軍を支持せず3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園、日本の内戦で幕府の味方をしないということを暗黙的にシグナルを送る結果をもたらします。イギリスは薩摩、下関との戦争を経て、薩摩と長州をはじめとする藩と出会うことで、政治と貿易参加を要求する彼らの主張を理解するようになり、特に薩摩と長州に接近したのはイギリス公使館に勤務する青年書記官サトウ(Ernest Satow)や長崎領事ガワーなどでした。サトウは回顧録『ある外交官が見た明治維新』(A Diplomat In Japan)に記されているように、伊達宗成や西郷隆盛など西南有力藩の大名や藩士とも親密に交流し、大名勢力を含む日本の政治変革を記録した『英国策論』を公表し、公使パークスもこれを黙認します。しかし、この最中、条約勅許から開市約定締結という1866年頃の幕府外交について、パークスは「将軍は我々に誠心誠意行動している。大名よりも将軍を通じて遥かに多くのことを達成できる」と評価し、一方で大名間の避けられない嫉妬心と不和を見抜き、本国外務省に報告します。また、薩摩藩がしばしば条約勅許を妨害し、外交問題を理由に将軍を攻撃することを批判します。
1866年の長州第二次征伐以降、西欧式武器の需要は急増し、1867年に入り日本国内の緊張が高まり戦雲が漂うと、火器は日本の最も重要な輸入品となります。これはイギリスの公式資料によって知ることができます。
出典:イギリス外務省、長崎領事館、1859-1870記録 Shinya Sugiyama, “Thomas B. Glover: A British Merchant in Japan, 1861-70,” Business History 26, no. 2 (1984):120
イギリス領事館の貿易報告書には、1865~8年に長崎だけで17万丁以上の銃器が輸入されており、これは2,400万ドルの規模で50万ポンド相当と言われています。
1866年から1867年にかけて、長崎での公式な武器取引の大部分(85パーセント)はイギリスまたはオランダ/ドイツの商人を通じて行われました。契約記録を通じて33,875丁の小規模火器取引の履歴を照会できますが、これは長崎の輸入額の約40パーセントに3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園
1863~1869年港別小型武器輸入規模 年 横浜 長崎 神戸 日本 1863 5,817 5,817 1864 11,568 11,568 1865 56,843 25,850 82,693 1866 53,000 (推定) 21,620 74,620 1867 102,333 65,367 167,700 1868 106,036 36,514 142,550 1869 58,613 19,163 7,120 84,896 合計 394,210 168,514 7,120 569,844
出典:Hoya Toru, Boshin senso [The Boshin War] (Tokyo: Yoshikawa Kobunkan, 2007), p.99.
該当する数値であり、当時の国際貿易を良好に文書化していると言えます。このうち1位のグラバーと2位のニフラー(Kniffler)はシェアの過半を占め、上位5つの商人家が銃砲の72パーセントを占め、高いシェアを占めていることがわかります。国別に区分すると、グラバーとイギリス商人は53パーセントを占めて先頭に立ち、ニフラーをはじめとするドイツ商人(プロイセンとハンブルク)およびオランダ人は32パーセントを占めたことがわかります。ポルトガル商人家ロウレイロ(Loureiro)は1,780丁の小規模火器を販売し5位を占めましたが、これはアメリカ商人を合わせた取引量よりも多い数値です。「フランス」商人はWilliam F. Gaymansで、スイス国籍であることを前面に出しフランスの保護を受けていると主張しましたが、実際にはオランダ生まれでドイツで亡くなった人物です。全体的に、西南日本に流入する小規模火器の95パーセント以上はヨーロッパ商人の活動によるものでした。
商人国籍 1866 (1/2) 1867 合計 1 グラバー(Glover) British 685 12,140 12,825 2 Kniffler German 3,100 1,901 5,001 3 Alt British 250 2,829 3,079 4 Hughes British 1,810 1,810 5 Loureiro Portuguese 1,780 1,780 6 Lehmann German 926 526 1,452 7 Bauduin Dutch 1,000 300 1,300 8 Gaymans French 1,120 1,120 9 French USA 500 366 866 10 Bohlens German 268 500 768 3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園
IV. 明治維新とグラバーの衰退(1868年)
1864年から1867年の間、グラバーは長崎だけで20隻の船を売り、117万ドルの利益を得ます。しかし、明治元年、1868年に将軍が実権を天皇に譲り、戦争状況が終結すると、もはや軍艦や銃砲で収益を上げる道は著しく減少し、グラバーの事業は下り坂を歩み始めます。それでも、日本政府の最初の新軍艦、Ho Sho MaruとJho Sho Maru (Ryojomaru)の建造は1868年に行われ、1860年代の締めくくりを飾ります。日本の最初の近代的な炭鉱を運営しますが、収益を上げる前に1870年に破産し、所有権を安値で処分しなければならず、グラバー商会も失います。その過程で、後に三菱に発展する他の会社を設立し、キリンビール株式会社に成長する日本ビール事業を開始することもあります。
幕末、幕府と新政府勢力が対決し、「鳥羽・伏見の戦い」で5千人の新政府軍は1万5千人の幕府軍を撃退しますが、これは大砲と共に使用されたイギリス直輸入火薬の精密射撃により敵軍に遥かに大きな被害を与え、3倍の人員差を克服したのです。この時、薩摩部隊が所持していた、イギリス製を凌ぐアメリカ製武器であるスペンサー銃1万6,015丁は、グラバーが調達したものです。スペンサー銃はレバーアクションライフルで、引き金ガードと連結されたレバーを前に倒して薬莢を排出し、元の位置に戻して装填する手動連射式小銃で、速射が可能という利点を持っています。その後、朝廷は幕府を敵と公式に宣言し、西日本地域のほとんどの藩は新政府に服従しました。江戸を制圧し、抗戦派を撃退した結果、大名が支配していた封建的秩序が解体され、近代的な国民国家が樹立され、戊辰戦争は新政府軍の勝利で終結します。
木戸は明治元年である1868年4月から1877年5月に亡くなるまで一日も欠かさず日記を書き、『木戸孝允日記』は東京大学出版部から英語版も刊行されるなど、明治初期の研究に重要な史料として認められています。その後、木戸は1868年5月12日、大阪で明治天皇に謁見しに行った際、グラバーと会い、過去3年間の話をして旧交を温めたと日記に記しています。その間会っていませんでしたが、非常に親密さを見せており、別れる際にグラバーは拳銃を木戸に贈ったと言います。これは1866年、幕府軍に対して長州軍が優位に立つ上で相当な貢献をした人物の措置としては、非常に適切であると言えます。数日後、二人は再び会うことになりますが、6月1日、長州藩の後裔が帰還できるよう、軍艦をグラバー商会から借りる話が少し出ます。
木戸孝允、あるいは木戸孝允は、間違いなく天皇と国家のために情熱に満ちた人物であったことが日記の随所からわかります。1868年8月6日に記されている内容を見ても、明治3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園維新の成功は、忠実で義に厚い人々が多数犠牲になったからこそ成し遂げられたものであり、友人の数十名が帝国のために殉教した以上、自身も身を捧げなければならないと記しています。生きている者は死んだ者に対して借りがあり、目的を達成して九泉をさまよう者たちの魂が安らかに休めるだろうと記しています。そんな中、年初に山口で、自身が帝国政府の仕事にのみ没頭するあまり、故郷の長州をないがしろにし、主君である大名に忠誠を尽くしていないという噂が回ったと嘆きます。これについては、もちろん中央政府の問題を主に扱っていたのは事実ですが、倒れた志士たちの犠牲に報いるためにそうしたのであり、これにより大名に忠誠を尽くすと説きながら、故郷の人々に対して効果的に対処できなかったことについて、誤解を解けなかったことを非常に悲しんでいます。1868年8月12日には、尊王攘夷の挙事を行った志士のうち、わずか十数名のうち二、三人しか生き残らなかったこと、そして目的を達成するのを目撃できることに、深い感情に浸ると記しています。
V. 結び
グラバーは武器貿易を主導した唯一の西洋商人ではありませんでした。しかし、時代に乗り、自身と同年代の若い他国の情熱的な志士たちと交流し、損益を超えた関係を築きました。自身を彼らと同一視し、私的な席では徳川幕府の最大の反逆者と言うほど役柄に没頭し、明治維新を通じて日本をひっくり返すことになる薩摩・長州同盟形成の媒介者となりました。ここで木戸孝允という長州の人物と親交を深めます。推測するに、生麦事件と薩英戦争、そして攘夷戦争と下関戦争などを目撃し、西洋武器の威力に感じたこと、そしてそれぞれが独自の事情で幕府に敵対的であるという共通の個人的経験が、連帯感を形成するのに役立ったと考えられます。
武器交渉の過程においては、次のような考えをすることができます。グラバーはイギリスと幕府の協約により、密貿易は大きなリスクを伴い、利益が出なければならないという点を考慮しなければなりません。木戸は幕府の長州征伐を前に軍制改革推進の状況で、武器は生死を分ける事柄であるため切迫していたに違いありません。このような状況で、取引が最大限安全に行われるためには、薩摩を通じて偽装した方式で進められる必要があり、そのためには既存の薩摩と深い関係を築いていたグラバーが木戸には必要でした。同時に、長州と薩摩の協力を通じて貿易網を拡張しようとした商人グラバーの立場からも、決して悪くはなかったでしょう。グラバーの特性上、事業の様々な分野に進出することを好み、新しい次元を常に開拓しようとする傾向があった3. 明治維新前夜、グラバーと伊藤の出会い_グラバー園ため、明治維新後には一つの事業に集中できず、後に没落する状況まで展開した点を考慮すると、グラバーは長州との密貿易を非常に興味深く思っていた可能性が高いです。
見てきたように、木戸がグラバーと会うまでには様々な紆余曲折を経なければならず、会った後、武器交渉を成功させるまでには、多様な行為者と疎通し、利害関係を調整しました。その結果、グラバーの武器仲介のおかげで、長州藩は1865年の軍政改革で全藩一致の軍制を成功裏に確立し、国民皆兵制による軍隊を保有した最初の藩となり、幕府軍を撃破して戦闘力を証明します。彼らは個人の努力と国際貿易が絡み合って成果を導き出した一方、逆に幕府の場合、むしろ資本と物資が豊富で、さらには西欧列強と公式な関係を結び、影響力を振るっているという利点で優位に立つことができたにもかかわらず、最終的には日本列島の覇権を薩摩や長州などに譲ってしまいます。19世紀にもこのように人のネットワークが重層的に絡み合って展開されたのに、情報革命とグローバル化が深化された21世紀の国際秩序を改めて考えてみても、この時代を生きる私たちに少なくない含意があると言えるでしょう。参考文献一次資料 The Diary of Kido Takayoshi. Vol.1: 1868-1871, Translated by Sidney
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*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。