← 戻る · ← ホーム · ← 一覧に戻る

壬辰倭乱後の日朝関係の正常化

東アジアの昨日を見て、今日を感じ、明日を眺める : サランバン(愛の部屋)の若者たちが九州を抱く

カテゴリー
EAI サラバン訪ね歩き
発行日
2020年2月10日
sarangbang_13_ch4_cover.png
sarangbang_13_ch4_cover.png

日韓交流博物館・名古屋城址・パク・チウォン・建国大学校

はじめに

昨夜、先生からいただいた心からの助言を胸に、サランバン(愛の部屋)13期は二日目の旅程を活気にあふれてスタートしました。佐世保での発表を通じて米中の軍事力現状を確認し、過去の日本の軍事力成長を羨望した後、陶山神社と九州陶磁器博物館を訪れて李三平の足跡を確認しました。皆疲れていたのか、前日の発表準備で夜を徹したためか、二日目の最後のスケジュールであった名古屋城博物館(日韓交流博物館)へ向かう1時間半は長く長く感じられました。名古屋城博物館は、豊臣秀吉が壬辰倭乱の出兵拠点とした名古屋城址の近くに位置していました。これは、壬辰倭乱と丁酉再乱が長い歴史を持つ日朝関係を

87 断絶させたという認識のもと、過去の壬辰倭乱と丁酉再乱を反省し、日朝交流および友好の促進拠点となりたいという佐賀県の意図が込められたものでした。先生が名古屋城博物館に「日韓交流博物館」という愛称をつけてくださったことからもわかるように、このような佐賀県の意図のもと、博物館全体の展示キーワードは「日朝交流」であり、日朝交流の足跡が時期別に展示されていました。

写真

写真1. 日韓交流博物館の外観

最近のように日朝関係が騒がしい時、「史上最悪」という言葉が頭をよぎります。「日韓交流博物館」を調査報告書のテーマに選んだ

88年以降、本当に歴史上の日韓関係が最悪だった時期はいつだったのかを考え始めました。ふと、壬辰倭乱と日本による植民地支配の時期が思い浮かび、日韓関係が想像を絶するほど暗かったこの二つの時期以降、日韓関係の正常化がどのように進められたのかが気になりました。したがって、壬辰倭乱以降初の公式外交使節である1607年の「会答兼刷還使」と、日本による植民地支配後の日韓関係再開の出発点となった1965年の「日韓基本条約」という二つのテーマを考えていたところ、壬辰倭乱以降の朝日関係が史上最悪だったであろうという先生の助言を聞き、1607年の「会答兼刷還使」についてさらに興味を持ちました。

壬辰倭乱後、朝鮮は数千人の死傷者を出しただけでなく、数万人の朝鮮人が日本に捕虜として連行され、その後、日本に最初の公式使節を送った1607年まで、国防と民心は不安定でした。これらの被害を考慮すると、当然ながら壬辰倭乱後の日朝関係は断絶していました。では、史上最悪の日朝関係が1607年に正常化された契機と過程は何だったのでしょうか?国交正常化に伴い、日朝両国の互いに対する認識は肯定的に変化したのでしょうか?この歴史的な正常化の経験は、今日の韓日関係にどのような示唆を与えることができるのでしょうか?このような好奇心から、『宣祖実録』と『海行総載』を見始めました。

日朝講和に関する朝鮮の熱烈な議論

89 1606年5月12日、朝鮮の臣下たちは日朝講和について熱烈に議論し始めました。大半は講和賛成で意見がまとまりましたが、その理由は大きく4つに分類できます(宣祖実録 v.40, 1989, 15-37)。

第一に、国防に関する問題です。朝鮮がこれ以上壬辰倭乱の脅威を感じなくなる契機となった日は、露梁海戦後の秀吉の死により倭寇が逃亡した1598年11月22日でした(宣祖実録 v.25, 1988, 180)。しかし、朝鮮は1598年の壬辰倭乱終結後も持続的に自国の国防に対する不安を感じていました(宣祖実録 v.40, 1989, 25)。執拗な7年間の戦争が突然終結したことで、日本の再侵略説が横行し、南方での倭寇の脅威は喫緊でした。それだけでなく、北方では女真族が跋扈し、当時の朝鮮の国防システムであった訓練都監は南北方にわたる不安定な東アジア情勢を担うには力不足でした(宣祖実録 v.41, 1989, 47)。したがって、多数の臣下は日本との講和によって南方の国防を安定させれば、西北方の防備に全力を尽くせるという利点があると判断しました(宣祖実録 v.40, 1989, 32)。

さらに、壬辰倭乱直後から提起されていた日本の情報収集の必要性も、朝鮮の国防強化のための日本との強化賛成論議を支えました(宣祖実録 v. 25, 1988, 245)。南方の日本の内部事情を見てみると、壬辰倭乱を引き起こしたスギルと、戦争当時に反対意見を持っていたカガンが権力を握ったようです(宣祖実録 v.40, 1989, 28)。日本の内部事情についての詳細は後に経琛が会答兼刷還使として日本に訪れた際に明らかになります。

90 派遣された際に知ることになりますが、以下のように家康が執権した後、家康と共に秀吉の後継者となった秀頼に権力が渡らなかったため、秀頼が反乱を起こし、結局家康がこれを鎮圧したことが明らかになります。

己亥年(1599年)に秀吉が亡くなる際、秀頼と家康は後継者

の誓いを共に受けたが、家康が執権すると秀頼は

彼を憎んだ。秀頼は一度家康に朝鮮を征服した

功績を要求したので、家康は言った。「朝鮮は礼の国であり、

ただし、文教のみを崇尚し、武を顕示したり、軍隊を誇示したりすることを

ことをしなかったのに、理由なく軍を起こしたのだから、たとえ

戦いに勝ったとしても武の功績にはならないのに、何の功績が

あろうか。」そして、ついに賞を与えなかった。このため、嫌悪と

怨みが日に日に深まった。

庚辰年に秀頼は家康を排除しようと秘密裏に能動州太守

景勝に命じてわざと軍を起こさせ反乱を起こさせようとしたが…

秀頼の軍は大きく敗れ、福厳城に退却して

逃走した。家康が福厳城まで追撃し、秀頼と和睦して

「もし妻子を無事に返還すれば殺さない」と約束したので、秀頼は

約束通り軍を解き、自身の封地に帰還した。…秀頼の

食邑11州を奪い…

(国訳 海行総載 Ⅱ, 1974, 282-283)

91 このように、壬辰倭乱以降の持続的な国防の不安のためか、宣祖は後に壬辰倭乱以降初の公式使節である1607年の会答兼刷還使経琛一行に銃器の輸入を中心とした任務を伝えます。

第二に、捕虜送還に関する問題です。捕虜送還に関する議論も、壬辰倭乱終結直後の1598年12月8日に始まりました。1606年の議論当時、壬辰倭乱で日本に連行された朝鮮人捕虜は数万人に上ると推定されていました。したがって、捕虜送還は日朝講和の必要性を一層深めました。以下の1606年11月9日の記録によると、宣祖は捕虜送還に相当な重要性を置いたようです。

「陛下は『捕虜として連行され日本にいる我が国の民が何千

何万人いるか分からない。民の親としてこれをどう黙認できようか。回答使にうまく話させるか、あるいは

礼曹に命じて日本の執政官に書状を送らせるか、

他の対策を立てて残らず送還させるように。

…』と仰せられたが、陛下が専念し、漏れなく送還させようとされているのは、まさに民の親としての心である。」

(宣祖実録 v. 41, 1989, 99-100)

「…」

また、1607年1月4日、宣祖は以下のように民に対する重要性、

また、1607年1月4日、宣祖は以下のように、民衆に対する重要性、

92 つまり、捕虜の刷還に関する重要性を論じながら、1607年の使節の名前を会答使から会答刷還使に変更しました。(しかし後に非常時の建議により、1607年の使節は「会答兼刷還使」と名付けられます。)同時に宣祖は会答兼刷還使経琛一行に捕虜の刷還と銃器の輸入を壬辰倭乱以降初の公式使節の二つの核心任務として命じます。

「君主は民に対して親の道理がある。民が異民族に

捕らえられ、礼儀の国(朝鮮)の民でありながら、将来異民族の国の民となるというのは、悲しくないわけにはいかない。以前、回答使に

現地に到着して、送還に関する件を自ら取り計らうように

下命したが、この言葉は不十分なようで、彼がうまく送還して

くることができるかは確信が持てない。…今、上で派遣するか、あるいは

礼曹に書状を送らせて、直ちに道理に照らして、我が国の

捕虜をすべて送還させて両国の友好を深めるようにと、

一度彼らの意向を探ることが当然である。使臣の称号を

捕虜として連行された人々を送還することに名分を置く場合、

彼らが自ら前時代の過ちをすべて改めようと

いうのであれば…

述べたが、既に以前の過ちを改めようとしたのであれば、前の時代に

捕虜として連れて行った民を全て返還し、その過ちを改め、再び

新たな友好関係を結ぶべきであり、いわゆる信義というものもここに

あるのだ。この件を議論し、処置することが当然と思われる。

93 また敵を防ぐ兵器としては、倭国の鉄砲に勝るものはない。...もし

今回の回答使の派遣に際し、海上にいる者に物品の代金を算定させ、

鉄砲を都合の良いように多数購入して持ち帰らせるならば、敵国の兵器を

船に満載して帰還したとしても、実に妨げとなることは

ないであろう。これも一つの有益なことであり、併せて

議論して施行するよう備辺司に申し伝えよ。」

(宣祖実録 v.41, 1989, 173)

第三に、朝鮮の国体(国の体面)に関わる問題として、壬辰倭乱中に王陵が冒涜された倭賊に関する問題がある。朝鮮の備辺司の立場から見ると、日本は壬辰倭乱当時、「理由なく軍を起こし、我々(朝鮮)の三道を陥落させ、我々(朝鮮)の民を殺戮し、我々(朝鮮)の宗廟社稷を破壊し、我々の陵墓を暴いた」(宣祖実録 v.40, 1976, 14)とされる。宣祖をはじめとする朝鮮の臣下たちは、特に倭賊が陵墓を冒涜したという事実に激しく憤慨する。そのため、対馬島が日朝講和を積極的に推進しようとした際、朝鮮はそれに応じるための2つの核心的な前提条件として、日本に対し1)陵墓を冒涜した賊を捕らえ、2)国書と共に送還することを要求した(宣祖実録 V.40, 1989, 145-146)。後に朝鮮の要求に応じた日本側は、陵墓を冒涜した賊であるとして2名の倭人を送致してくる。しかし、朝鮮人は壬辰倭乱以前から日本人に対し「奸詐で狡猾」という認識を継続的に持っていたため、彼らが真犯人であるか否かについての論争が始まる。この論争の過程で、以下の宣祖の伝教が見られる。

94 朝鮮がいかに陵墓を冒涜した倭賊に対して憤慨しているかがよく示されている。

「まことに陵墓を冒涜した賊であるならば、君臣上下が宗廟に告げ、

自ら殺すべきであるが、どうして弾劾しないことがあろうか。

疑う余地はない。...」

(宣祖実録 v.41, 1989, 61)

「陵墓を冒涜した罪において、どうして首謀者と追従者の区別があろうか。

…例えば、ある人が両親の墓を他人に

盗掘されたとしたら、数千人の賊すべては当然、その息子が自ら

斬り、肉を切り刻むべき者たちである。しかし、その数千人をすべて捕らえる

ことができず、幸いにも一人か二人を捕らえた場合、息子であれば

正気を失って狂ったように走り回り、両親の墓に行って慟哭し、自ら

殺して仇を討つであろうか、それとも静かに立って冷笑しながら

「これは墓を盗掘した首謀者ではなく、従者であるだけなので、

彼らに対して怒る必要はない」と言うであろうか。そうしておいて

何らの処置も取らないならば、これは不正であり、不孝であると言える

のである。」

(宣祖実録 v.41, 1989, 113)

その後、日本から陵墓を冒涜した倭賊として送致されてきた日本国対馬道の

95 倭人、孫五郎と孫市は、拷問を受けながらも、自分たちは朝鮮の王陵を暴いたことはなく、この事件とは全く無関係だと主張する(宣祖実録 v.41, 1989, 115)。これを受けて、孫五郎と孫市に対する死刑の可否についての議論はさらに活発化し、結局宣祖は「彼らの首を斬ること以外に、他に策はない」とし、この2名の倭人を生かしておくことは国体の損傷であるとみなし、死刑を命じる(宣祖実録 v.41, 1989, 153)。陵墓を冒涜した倭賊に対する宣祖の憤りと怒りを垣間見ることができる箇所である。

国書に関する問題も、日朝講和を裏付ける根拠ではなかったものの、1606年の議論において国体に関する問題として中心的な話題となったため、一度取り上げてみよう。朝鮮の使臣たちは日朝講和賛成で意見をまとめたが、日本が国書を送らなかったという点から、日本への使臣派遣に躊躇していたことがうかがえる。

備辺司が奏上した、「両国が互いに友好であることは

事柄として非常に重いにもかかわらず、国内からは一度も書状が

送られてこず、対馬島の倭人が往来して言葉を伝えているが、

なぜであろうか。」

密旨には、「敵が和親を求めてくるのは全て

対馬島が仲介したことであり、彼らが加藤清正(かこうきよまさ)を口実とするのは

すべて偽りである。もし加藤清正が真に速やかに和親を望む

意思があるならば、柳成龍(ユ・ソンリョン)が帰還する際には、なぜ一通の書状も送らず

96 に長々とした言い訳と悪辣な脅迫で脅したのか。」

(宣祖実録 v.40, 1989, 14-15)

これ以外にも多くの臣下が国書の問題を重視し、1606年の議論の後、朝鮮は対馬島を通じて日本に国書を要求する。こうして日朝講和に応じる朝鮮の交渉条件は、1)日本の国書と2)朝鮮の陵墓を冒涜した賊の送還となった。そのため、日本は1606年7月4日に国書を先に送ってきた。ただし、一つ指摘しておくべき点はこの国書の内容である。1606年8月17日、日本の情勢を探るために対馬島を訪問した全桂(チョン・ゲ)一行は、対馬島が日本から来た国書だと紹介した書状を見た後、「その書状を開いてみたところ、しばしば不遜であり、また賊を捕らえて送還するという言葉もなかった」と述べていることから、朝鮮がこの国書を快く思っていなかったことがわかる(宣祖実録 v.41, 1989, 24)。

このように対馬島が日本が送ってきた国書だと紹介した書状を見せたものの、宣祖は国書が来る前から「加藤清正の書信と陵墓を盗掘した賊は決して来ないだろう。たとえ来たとしても偽りであり、必ず騙されるだろう」と、この国書の真偽を疑っていた(宣祖実録 v.40, 1989, 143)。

前述のように、朝鮮が持っていた日本人に対する印象は壬辰倭乱前から「狡猾で、ずる賢い」ものであったため、朝鮮は1607年の会答兼刷還使を送るまで日本を容易には信じませんでした。

97 したがって、その後も書状の真偽問題は会答兼刷還使を送ることに関して重要な話題となりました(宣祖実録 v.41, 1989, 163)。

実際、1607年の会答兼刷還使京暹は、日本訪問時に対馬が日本が先に送った書簡であると紹介した文書が偽文書であることをほぼ確信しました。対馬が示した文書には「日本国王」と書かれていたのに対し、新たに関白となったカガクの息子元秀は、会答国書に「元秀印」という自分の名前を含む四文字を刻んでいたからです。また、京暹がカガクに使用する印信があるかと尋ねたところ、カガクの家臣は「以前はあったが、ある者がそれを偽造したため、…すぐに溶かしてしまい、今はありません。」と答えました。京暹はこの答えを聞いて、対馬が示した日本の書簡が偽文書であることを確信します(国訳海行総裁Ⅱ, 1974, 302-305)。しかし、書簡の真偽に関係なく、朝鮮が提示した日朝強化のための二つの要件の一つである日本の書簡が先に来たという点は、1607年の会答兼刷還使の訪問が行われるまで重要な役割を果たします。残りの要件である能力を犯した倭賊二名の押送が真偽に関係なく会答兼刷還使の訪問を促進したように。

第四に、1598年から7~8年間続いてきた対馬島の朝貢講和の懇願も、講和賛成に対する重要な理由でした。対馬島の朝貢講和の懇願は、壬辰倭乱が終わる頃の1598年6月3日に始まります。元々対馬島人の義智が朝鮮に講和を要請し、当時朝鮮に滞在していた中国の将軍、経理都監と交渉しようとします。

98 「官白はこの事を知らず、行長が強化をしたくて送ってきた」とのヨシラの言及のために強化要請の真剣さが疑われることもありますが(宣祖実録 v.24, 1988, 166-167)、このように1598年に始まった対馬の対朝鮮強化の請願は、1607年の壬辰倭乱以降初の公式使節である会答兼刷還使を送ることに大きく寄与しました。特に1601年6月に対馬の朝鮮人250名の刷還から始まり、定期的な朝鮮人捕虜の刷還を通じて朝鮮が日本と強化するための誘因を提供する役割を果たしていたと考えられます(キム・ムンジャ 2019, 48-49)。

1606年の議論で、朝鮮の臣下たちは6~7年間延期してきた対馬島の朝貢講和の懇願に対する決定をさらに遅延させる場合、これ以上我慢できない対馬島からの後患に対する懸念を表明しました。注目すべき点は、基本的に朝鮮の国防力が弱かったため、対馬島からの後患を恐れており、すなわち先に第一に言及した国防要素と共に、対馬島が数回朝鮮人捕虜を送還してきた、すなわち第二に言及した捕虜送還という必要性が、共に作用して第四の講和賛成理由である「対馬島の持続的な懇願」が説得力のある講和賛成理由となり得たという点です。このように、それぞれの講和賛成理由は、それぞれの意味を持つだけでなく、互いに影響し合い、日朝国交再開の必要性を強化しました。

柳永慶(ユ・ヨンギョン)の議論は以下の通りである。

「ただ最近、朝廷の議論はすべて「平秀吉(たいらのひでよし)は既に死に、加藤清正(かとうきよまさ)が政権を握り、自らすべてのことを秀吉の意向と反対に行っている」

というが、対馬島の倭人がこの言葉を持って和好を求め、督促が急である。この時にもし一様に固く拒絶すれば、恐ろしい毒が必ずなくなるという保証はない。脅迫された後に許可するよりも、先にうまく計略を巡らす方が良い」とのことである。これも民衆のための計略であり…。したがって、臣が以前、備辺司で複数の堂上官と会議した際、礼曹で国書を作成し、人を派遣して日本に送り、一方で対馬島の怒りを解き、他方で日本の情勢を探り、後日の処置の基盤とするべきだと定めたのである。」

99 することになるが、対馬の倭がこの文を持って和好を求めてきて、督促が急であれば、この時もし一様に固く拒絶すれば、恐ろしい毒が必ず無くなると保証することは難しい。脅迫された後に許すよりも、先に良く図る方が良い。」としています。これも民のための策であり…。それゆえ、我が臣が以前、備辺司で複数の堂上官と会議した際、礼曹で書契を作成し、人を派遣して日本に送り、一方で対馬の怒りを鎮め、他方で日本の情勢を探り、後日の処置の基盤とするべきだと定めたのです。

(宣祖実録 v.40, 1989, 24)沈熙寿(シム・ヒス)の議論は以下の通りである。

「領土を回復してからすでに8〜9年という長い年月が経過したにもかかわらず、周囲を見渡すと征伐の準備は全く整っておらず、ただ時間を無駄にしていることが信妙年以前よりもさらにひどく、日が経つにつれてますます衰弱しています。したがって、対馬の敵が我が国に防備がないことを見抜いて知り、さらに無遠慮に侵入する心を持つのは本当に当然です。事態がこのように至り、調整する権限が彼らにあり、我々にはないのですから…全体的に言えば、強化が思い通りにいかず、死にたい気持ちが生じて久しいのですが、また再び先延ばしにして落胆して帰ることになれば、ひょっとすると怒りを引き起こし、喜んでカガンのところに行って書状を受け取ることができないのです…ただ「最近、対馬が我が国の意向を受けて、強化を請願し、

100 来ないのではないか。」

(宣祖実録 v.40, 1989, 25-26)

成英(ソン・ヨン)の議論は以下の通りである。

「この件は数年延期され、この事態に至って、もはや延期することは

人を送って毎年二、三回ずつ

請願し、我が国の捕虜を前後にわたって継続的に刷還しているので、その誠意は感謝に値します。ただし、これがただ対馬の考えから行ったことなのか、それとも我が国の命令を聞いてこのように

請願しており、我が国の捕虜を前後に継続して刷還しているので、その誠意は感謝に値します。ただし、これがただ対馬の

考えから行われたことなのか、それとも我が国の命令を受けてこのように

切に行っているのか?海路が遠く詳細に知ることができず、敢えて

切にしているのか?海路が遠く詳細に知ることができないので、敢えて

人を選んで送ります。」と言わなければなりません。」

(宣祖実録 v.40, 1989, 30)

その後、1606年8月17日、日本の事情を探るために朝鮮の副使官全啓信、訳官使役院判官李彦書、副使正朴大根が対馬を訪れました。そして、キルジジョンはこの三人に「なぜこのように仕事が遅れているのか、今回の探査は必ず日本を怒らせるだろう」と言い、「朝鮮が日本を信じていない」と激怒し、広言をします。さらに、キルジジョンは「内部(日本)で朝鮮人を対馬に刷還したが、これを朝鮮に送還した後、日朝国交再開が成就しなければ対馬は死んだ命であり、一度に多くの数を送るべきだ」と言い、日朝強化のために捕虜刷還を朝鮮の誘因として提供することもあります。(宣祖実録 v.41, 1989, 21-28)その後、対馬は日本にこの三人が対馬を訪れた事実を報告し、日本はこの報告を聞いて怒ります。このように対馬が切迫感と焦りを示し、日本が怒ると、事が困難になることを懸念した朝鮮は対馬の使者を接待する準備を急ぎます。

101 大きな事を成し遂げようとする。」とし、日朝強化のために捕虜の刷還を朝鮮の誘因策として提供します。(宣祖実録 v.41, 1989, 21-28)後に対馬は日本にこの三人が対馬を訪れた事実を報告し、日本はこの報告を聞いて怒ります。このように対馬が切迫感と焦りを示し、日本が怒ると、事が困難になることを懸念した朝鮮は対馬の使者を接待する準備を急ぎます。

後に議論を経て、朝鮮が日本に会答兼刷還使を送ることに決定した後、訳官李彦書の「使者を送ることを許可したが、正月(新年を迎える前)に行く必要はないのではないか?」という言葉に対して、キルウェ(キルジジョン)が怒りを表し、「もし正月(新年を迎えた後)に延期するという話を聞くことになれば、長官が必ずこの機会を利用して(対馬)島主を罪に陥れるだろう」と朝鮮の使者の行動を急かす様子が見られます(宣祖実録 v.41, 1989, 140)。さらに、キルジジョンはその後『海事録』を通じて、1607年の会答兼刷還使経琛一行の日本訪問の全過程でガイド役を果たし、朝鮮と日本の間の重要な架け橋の役割を果たします。

一方、一部の臣下は日朝強化に対して躊躇する姿勢を見せることもあります。その理由は、前述のように対馬の意向だけが明確に見えるだけで、日本の官白と判断されるカガンの書状がなかったからです。しかし、彼らも日本の意図や内部事情を正確には知らないため、使者を送って情報収集することが適切だと請願します(宣祖実録 v.40, 1989, 15,17-19)。

このように、1606年5月中旬頃、朝鮮での日朝強化に関する議論は熱を帯びていました。しかし、これを記録していた史官は「朝廷の多くの大臣が一時的な救済策に急いでおり、使者を送るべきだと主張し、これは宗教と生霊のための策であると称しているが、その言葉は非常に乏しいのではないか。宗教と生霊のための策は自強する一つのこと以外にはないのに、残念ながら建白する臣下が一人もいなかった。」と述べ、実際には朝鮮と民を守る基本である国防には気を使わず、使者を送る問題にのみ集中していた朝鮮の現実を批判しました(宣祖実録 v.40, 1989, 36)。

102 宰相たちが臨時の救済策に汲々として使臣を派遣しようという議論を力説し、宗社と生霊のための計策だと称しているが、その言葉はまことに粗末ではないか。宗社と生霊のための計策は、自強という一事以外にはないのに、惜しくも建言した臣下が一人もいなかった」と述べ、まさに朝鮮と民を守る基本となる国防には気を配らず、使臣を派遣する問題にばかり集中していた朝鮮の現実を批判しました(宣祖実録 v.40, 1989, 36)。

写真

写真 2. 名古屋城跡、ハ・ヨンソン先生とサラバン13期の後ろ姿

103

10年ぶりの初の公式使節、キョンソムの『海槎録』

このような紆余曲折の末、ついに朝鮮は1598年の壬辰倭乱が終わってから10年ぶりに初めて公式使節を送ることになり、これに関する記録が京暹の『海事録』です。1607年1月12日、七松京暹、正使余宇吉、宗使官正虎官は会答兼刷還使の使命を受けて、礼闕にて辞行します(国訳海行総裁Ⅱ, 1974, 237)。前述の宣祖実録を通じて見たように、捕虜の刷還は会答兼刷還使の二つの核心任務の一つであり、結果的に1,418名を刷還する成果を上げます(国訳海行総裁Ⅱ, 1974, 325)。また、1607年の会答兼刷還使の訪問が壬辰倭乱以降の日本との国交再開の出発点となったため、京暹一行に送られた宣祖と礼曹参判オ・オクリョンの書簡を見ると、国交再開過程での朝鮮の悩みが要約的に表れています。

朝鮮国王 ソンフイは日本国王 電下に応答書を差し上げます。隣国

との交際は古来よりそうであったのです。200年間

戦争がなく海が静かになったのはすべて中国朝廷の

おかげですが、我が国もまたどうして帰国を

見捨てることがあったでしょうか?壬辰年の変乱は、<貴国が>理由なく

軍を起こして極めて惨酷な禍乱を作り、さらには先王の

陵墓にまで侮辱が及んだので、我が国の君臣の心は

痛み骨が凍りつき、義理において貴国とは一つの空の下に生きることは

できないことになっていたのです。6~7年間、大馬島がたとえ講和を

104 することを請うてきたとしても、実に我が国が恥ずかしく思ったことです。今貴国が古いことを刷新して慰問の手紙を先に送ってきて「前代の過ちを改めた」として誠意を見せるので、真にこの言葉の通りであれば、どうして両国の生霊の福ではないでしょうか?

(国訳海行総裁Ⅱ, 1974, 237)朝鮮国礼曹参判オ・オクリョンは謹んで我が国王の命を受け、日本の執政閣下に文を送ります。壬辰年の変乱は実に我が国の忘れられない痛みであり、また帰国の拭い去れない恥です。隣国と交際する道理は信義が重要なものであるのに、無理由に侵入したのは一体何の心だったのでしょうか?これは天地の神々が共に憤るべき事でした。今、帰国が先に短い手紙を送って「前代の過ちを改めた」と言うのなら、実にこの言葉と同じであれば、どうして両国の生霊の福ではないでしょうか?ただ考えますに、すでに「前代の過ちを改めた」と言ったのなら、…拘留された我が国の数万名の生霊が拘留されているのが何年になるかご存知ですか?6~7年対馬が刷還に力を尽くしているようでしたが、前後に送られてきたのは九頭の牛の毛一本程度であり、閣下はこれについて考えたことはありませんか?一般的に国が国の役割を果たすのは民がいるからであり、まして我が国の民は実に中国朝廷の

105 民ではありませんか?今両国が新たに和親を結ぼうとする

この時に、さらわれた男女をすべて返さなければ、貴国が

「前代の過ちを改めた」としても、それを

知ってくれるでしょうか?これこそが閣下が仲介して力を尽くすべき時期です。

もし早く命を下し、即座に刷還し、一人の男女もそのまま

残さないようにして、双方の民生をして各々安定して

暮らせるようにするならば、両国の交際は万世にわたって長く恩恵を受けることになるでしょう。

ことができないのです…閣下が力を尽くして計画してください。

(国訳海行総載Ⅱ、1974、238)

さて、『宣祖実録』と『海事録』で見ることができた1) 朝鮮の対日心象、日本の対朝鮮心象、経琛の対日心象を整理し、2) 中国に対する態度における朝鮮と日本の違い、そして3) 捕虜の刷還と銃器の輸入に関する記録を見ていきたいと思います。

《宣祖実録》で朝鮮の対日心象が垣間見えたとすれば、京暹の『海事録』では日本の対朝鮮心象が垣間見えました。代表的には、キュウジジョウが「朝鮮人は疑いが多く、すべて軽微な事や重大な事、大事や小事において議論が分かれ、時にはすでに決定したことも中止する例があることを見てきました。」と述べています(国訳海行総裁Ⅱ, 1974, 255)。《宣祖実録》でも1606年8月17日、全系信一行が探問のため対馬を訪問した際、キュウジジョウが朝鮮が日本を信じていないと激怒した記録が見られます。

106 激怒した記録が見られることから、日本の、特にキルジジョンの対朝鮮心象は「疑いが多く、慎重である」と考えられます(宣祖実録 v.41, 1989, 26)。

一方、京暹は日本訪問中に日本の国俗として端午に人を殺す遊びがあることを知ります。京暹は『海事録』に「この日に殺人を多くする者は、たとえ市井の卑しい者であっても、聖歌がすぐに船に乗り、恐れて避ける者は、たとえ権貴の子であっても、国中が捨てて人々に容認されない。」と記し、「その命を軽んじて殺すことを楽しむ風俗がこのようである。」と評しました(国訳海行総裁Ⅱ, 1974, 298-299)。この他にも、日本が会答兼刷還使一行を厚遇した後、使者行列以前には一切言及がなかった日本の中国侵攻要請に対する朝鮮の助けを求めると、「詭弁を引き出し、後日策略を巡らすつもりである」と表現します(国訳海行総裁Ⅱ, 1974, 319)。このように朝鮮は「日本人は狡猾で、ずる賢い」という対日心象を持っており、日本は「朝鮮人は疑いが多く、慎重である」という対朝鮮心象を持っていました。

さらに、『海槎録』は中国に対する態度においても朝鮮と日本の違いを明らかにしています。『宣祖実録』を見ると、朝鮮は自国を中国の属国と考えているという証拠が継続的に見られます。これとは異なり、以下のように『海槎録』で日本は自国が中国と同等だと考えている方に近いと見られます。

107 現紹は万暦(明の神宗の年号)を使おうとし、勝太は日本

の年号を使おうとして関白に尋ねたところ、関白が言った、「我が

国は対明(明の尊称)を奉仕していないのでその年号は使えず、

もし日本の年号を使うならば使者が必ず不快な

意図があるだろうから、どちらも使わないのがましだ。」

(国訳海行総載Ⅱ、1974、302-303)

中論が天朝(中国朝廷)に陳情する一項目を持って回書

に書き入れようとした。そして関白もそのつもりであった。ところが、

勝太が官白に言うには、「日本には天皇がいて、大明には

天子がいる。これは互いに同等の国である。以前関白たちが

通交しようとして臣と称して陳情したのは非常に

不適切であった。どうして互いに同等の国として自らへりくだり

臣と称する道理があるのか?」すると関白はその言葉を正当だと

判断して書き入れなかったのである。

(国訳海行総載Ⅱ、1974、312)

最後に宣祖が1607年の会答兼刷還使経琛一行に与えた二つの核心任務について話し、『海事録』に関する議論を終えようと思います。会答兼刷還使に与えられた二つの核心任務は捕虜の刷還と銃器の輸入でした。特に捕虜の刷還に関して宣祖は

108 会答兼刷還使を送る前にもその重要性を強調しており、礼曹参判オ・オクリョンが日本に送る書状でもその重要性が窺えます。したがって経琛一行も日本側に捕虜の刷還について「必ず心を尽くして事を成し、両国の和好を実現させてほしい。」と特別な意を伝えます。その後、日本の左道守は礼曹参判オ・オクリョンに対して会答の書状で次のように捕虜の刷還に関する返答を伝えます。

生け捕られてきた貴国の男女が各軍国に散らばってから20年が

になります。国中の士人が愛し、哀れんでくれるおかげで、

あるいは嫁いだり婿入りしたりした者もおり、幼い子供を連れた者もいます。

彼らが帰国する意思がないのであれば、それぞれ思う通りにさせてやり、

故郷に帰る意思のある者は速やかに帰国の準備を

してやるようにとの国王の厳命です。我が君が遠いところを愛する

愛はさらに深く厚いものです。たとえ我が殿で養育した

士人であっても、帰国する意思が切実であれば許可しました。

昔も今も、人の情けがなければその国は治まりません。

(国訳 海行總載 Ⅱ, 1974, 311)

元風が隼人から追ってきて言うことには、「加藤が、帰国を

希望する捕虜をすべて送還し、もし帰国を

希望するのに留め置く主人があれば罪を与えるであろう…

しました。」

109 (国訳 海行總載 Ⅱ, 1974, 313)

このように会答兼刷還使の最も重要な任務の一つであった捕虜の刷還が円滑に進んでいるようでした。しかし、経琛一行はすぐに日本が捕虜の刷還まで応じ、日朝強化に積極的であった真意を知ることになります。

キョンジクがまた言うことには、「…以前、ソン・ムンウクが言うことには、『修好する

事がもし成就すれば、進貢する事も自然に順を追って許可される

であろう』と言ったが、どうだ。」

(国訳 海行總載 Ⅱ, 1974, 312)

「再び、必ずや(捕虜送還に)十分力を尽くして和好の実証を

示してほしい」と言うので、元風が「あえて力を尽くさないことがありましょうか。

使者が去った後も、連日送還します。また

通話する一つの件は、すべて天朝に進貢するための

ものです。」と言った。

我々が言うことには、「日本が天朝に進貢することが朝鮮に何の

関係があるというのか、我々に言うのか。必ず入貢したいのであれば、昔の道がある。

日本が自ら奏上するべきで、さらに我が国が知る

べきことではない。」と言うと、

110 元風は、「朝鮮は中国と一体のような国です。朝鮮によって進貢する意思を伝えさせようとするのです。将軍が使臣をもてなす際に話を切り出そうとしたり、あるいは書簡の中に言葉を仕込んで送ろうとしたりもしましたが、『このようなことで国王に煩わせることはできないし、また使臣に軽々しく話すこともできないので、ただ加藤に朝鮮の執政に伝えるようにさせよう』と思いました。

(国訳 海行總載 Ⅱ, 1974, 316-317)

写真

写真 3. 名古屋城跡から見下ろした風景

111 上記の史料から見られるように、日本が日朝強化を積極的に推進しようとした代表的な理由は、朝鮮を通じて中国に再び侵攻したかったからです。しかし、以前に日本が中国に侵攻しようとして態度を急変させ、「朝鮮を照らすこともなく、使者を侮辱し、追い出すまでの前例がある」ことを知っている京暹一行は、日本の中国侵攻の助けを求めることに強く反対します。京暹一行の確固たる反対意思表示にもかかわらず、日本は後に対馬を通じて朝鮮の執政に対し、日本の中国入攻過程で朝鮮の助けを求めると主張します(国訳海行総裁Ⅱ, 1974, 317-319)。総合的に見ると、日本が朝鮮の使者行列に対して求めた二つの要件、すなわち1) 日本側の書簡と2) 能を犯した盗賊の送付だけでなく、会答兼刷還使の二つの核心任務であった捕虜の刷還と銃砲の輸入に積極的に取り組んだ理由は、中国に再び侵攻したかったからであると推測され、この点は注目に値します。

再び会答兼刷還使の捕虜刷還の過程を見てみると、最初は朝鮮人捕虜があまり集まらなかったが、経琛が捕虜刷還のために予定にない日程を延ばすと、捕虜たちが少しずつ集まり始めました。しかし、カガンが捕虜自身が本国に帰りたいのに拘留する主人がいるならば罰を与えると命じたにもかかわらず、多くの主人たちは朝鮮人捕虜を拘留しました。経琛一行がより多くの捕虜刷還のために一軒一軒訪れた際も、主人たちは捕虜を隠し、残念ながら多くの捕虜を

112 送還できなかったという記録があります。また、結婚した朝鮮人捕虜の場合、夫が一緒に行けないように阻む場合も多々ありました(国訳海行總載Ⅱ、1974、316、320-326)。このような理由で、キョンソム一行が1,418名の捕虜を送還するという快挙を成し遂げたにもかかわらず、キョンソムは「捕虜として日本国内に散らばっている者が何万人いるか分からない。…今送還してくる数は、九頭の牛から毛一本抜いたほどにもならないので、痛嘆の念に堪えない。」と惜しみました(国訳海行總載Ⅱ、1974、325-326)。

終わりに

壬辰倭乱以降10年間途絶えていた国交が再開された要因は、結局朝鮮と日本が共にその必要性を感じたためだと整理できます。朝鮮は1)国防と2)捕虜送還、3)国体回復に対する必要性から、日本と国交を再開する決定をしました。壬辰倭乱以降、北方地域の国防が不安定で、自国の国防システムを改善せずに

113 できなかったため、朝鮮は日本と国交を再開し、南方地域の国防でも安定させたいと考えました。また、一国の王または臣下として隣国に捕虜として連れ去られた自国の民を刷還することは道理であると考えました。これにより、1) 国防のための銃器の輸入と2) 捕虜の刷還は1607年の会答兼刷還使経琛一行に二つの核心課題として与えられました。また、国交再開の条件として日本から能力を犯した盗賊二名と書状を受け取り、壬辰倭乱で失墜した3) 国体をある程度回復することができました。日本の場合、中国に侵攻する過程で朝鮮の助けを必要とする必要性を感じたため、日朝強化を積極的に推進しました。これにより、朝鮮が使者行列のために提示した二つの前提条件である1) 書状と2) 能力を犯した敵を送ってきました。-たとえ書状は経琛によれば偽書と推定され、能力を犯した敵も彼らの自白によれば虚偽の可能性が高いですが、表面的には-日本が朝鮮の要求を聞き入れたという事実は、朝鮮に日朝強化により積極的な姿勢を取らせることになりました。

一方、朝鮮の対日心象は「狡猾で、ずる賢い」であり、日本の対朝鮮心象は「疑い深く、慎重である」と推定される。また、壬辰倭乱後10年ぶりに両国関係が再開されたからといって、互いに対する心象が肯定的に変わったわけではなかったようだ。むしろ互いに対する心象が上記のように否定的であったため、国交再開は継続的に遅延されてきた。しかし、結局各国が日朝講和に対して体感する必要性が両国に対する否定的な心象を上回ったため、1607年の

114 会答兼刷還使の日本訪問があったと考えられます。最近のように日韓関係が騒がしい時、考えてみるべき点です。このような考えにふけりながら、私たちは名古屋城の跡を後にしました。

写真

写真 4. 名古屋城跡を下りながら、愛するサランバン仲間たちと共に参考文献 1. 一次文献

民族文化推進会。(1598-1607)《宣祖実録》. v.24-26, 30-

31, 41-42. (ソウル: 民族文化推進会.)

115 キョンソム。(1974). 《海槎録》. 古典国訳叢書 海行總載 Ⅱ. (ソウル:

民族文化推進会.)

2. 単行本 カ. 国文

キム・ムンジャ。(2019). 《壬辰倭乱後 朝・日間の国内事情と通信使

派遣》. (釜山: 釜山広域市史編纂委員会.)

ハン・ミョンギ. 2010. 《東アジア国際関係から見た壬辰倭乱:壬辰倭乱と

東アジア世界の変動》. (ソウル: 京仁文化社.)

ナ. 翻訳本

フマ・ススム。(2008). 《燕行使と通信使》. (ソウル: 西神院.) 3. その他資料

イ・ヨンヒ. 1970. 「韓日関係の精神史的問題-辺境文化意識の葛藤に

ついて」. <新東亜>. 8月号

116 117

*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。

← 戻る · ← ホーム · ← 一覧に戻る