混乱の時代の勝負師、杉田玄白 - 近代的なナラティブを超えて
東アジアの昨日を見て、今日を感じ、明日を眺める : 談話室の若者たち、九州を抱く
出島 · キム イェウン · 高麗大学校
はじめに
東アジアの近代は、まさに紆余曲折を経た時間でした。急激な西洋との接触と近代化、帝国主義、そして戦争。人工知能、ビッグデータなどにより未来への不確実性がかつてなく際立つ現在、慰安婦問題、北朝鮮問題、領土紛争などを巡って苦悩する韓・中・日三国には、依然として近代の影が色濃く落ちています。
したがって、我々にとって東アジアの近代を問うことは非常に重要でしょう。その中でも、最も速く近代化の道を歩み始めた日本の事例を覗き見ることが重要でしょう。この小さな人工島、出島は、日本の近代化を語る上で欠かせない、非常に興味深い場所です。
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写真 1. 橋から見た出島
ヨーロッパ人が初めて日本に足を踏み入れたのは16世紀中盤とされています。宣教師たち、特に中国と交易していたポルトガル商人たちは、最初は平戸、その後は長崎を拠点に活動しました。ここ出島は、1636年にこのポルトガル貿易商たちのために造られた人工島です。数十年にわたる外国人への警戒と
46 監視が次第に厳しくなり、ついに小さな半島に運河を掘り、橋一本でしか繋がらないようにし、出入りを厳しく統制したのです。
一方、今日、出島はオランダ商人が居住していた場所として知られています。1637年から1638年にかけて、ここからそれほど遠くない島原地域で反乱が起こります。反乱の主体は、税制に不満を抱いた浪人たちとカトリック教徒の農民たちでした。その結果、1639年、当時の将軍であった徳川家光は、全てのポルトガル人を追放します。そして1641年、平戸に滞在していたオランダ東インド会社の商人たちを出島に強制移住させると同時に、厳しく統制し始めます。必要最低限の人員を除き、日本人の出島への出入りは禁止され、オランダ船員たちも出島から出ることはできませんでした。2年に一度、あるいは4年に一度江戸に上り、将軍に拝謁すること以外は。この独特な関係は、1855年に日本とオランダが近代的な開港条約を締結するまで続きます。また、日本は54年の日蘭和親条約まで、中国とオランダ東インド会社の二国間のみ交流をしていたのです。鎖国、鎖国政策の始まりでした。
1904年の港湾改修工事で埋め立てられ、かつての姿を見ることはできなくなっていましたが、長崎市の事業の一環として20年かけて復元が行われています。埋め立てた場所を再び掘り起こし、扇形の形を再び再現したそうです。
どれほど重要な場所だからこそ、それほど手間をかけて復元したのでしょうか?この答えを見つけるために、出島に象徴される日蘭関係が日本の
47 近代史に残した非常に特別な足跡、蘭学について語るべき時が来たようです。
写真 2. 復元された出島入口
オランダの学問、蘭学
1690年、長崎を通じて日本に入国したドイツ人学者、エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)は、2年間日本に滞在し、
48 日本の社会、経済、植生など、様々な記録を残します。将軍に拝謁するため江戸へ行く道中で立ち寄った様々な都市への感想も記録に残されています。彼が長崎について言及した部分を短く引用すると、以下のようになります。
「…豊饒な日本の最も辺鄙な一隅に位置するこの地は、地域の穀倉地帯から遠く離れており、今や外国人から物を輸入したり入手したりすることも実質的に不可能である。結果として、この都市には商人、宿屋や店主、職人、地主や富裕層はほとんどいない一方で、一般市民や肉体労働で生計を立てる日雇い労働者が大多数を占めている。」
実際に、山が険しく、江戸や京都など日本の中心地から遠く離れていた長崎は、鎖国後、経済的に大きく衰退します。当時の江戸から見れば日本の周辺部であったと言えるでしょう。その中でも出島は、特に狭く劣悪な環境であったと言われています。しかし、18世紀から19世紀にかけて、出島と長崎は学びの聖地へと生まれ変わります。蘭学と呼ばれる、オランダの知識を学びたいという学問が盛んになったためです。19世紀に洋学に取って代わられるまで、蘭学の発展は、日本が西洋から学び、また彼らからの脅威に対応しようとした、独特な足跡を記録しています。そして、この蘭学の始まりと言える出来事が、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵による『解体新書』の刊行です。
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経験的知識の始まり、『解体新書』
それぞれ中津藩、小浜藩の藩医であり友人であった前野良沢と杉田玄白は、共にオランダに関心があり、その影響を受けた「オランダ流医学」を行っていた医師でした。この二人は、それぞれ異なる経路でドイツ人医科教授ヨハン・アダム・クルムス(Johan Adam Kulmus)が書いた『ターフェル・アナトミア』という解剖書を入手しました。その後、1771年、杉田は刑場で死刑囚の遺体に対して行われる「腑分」(解剖)に参観に招待されます。杉田が急いで連絡を取った末に会った前野と杉田は、互いに同じ本を持ってきたことを知り、「手を握り合って感激した」と言います。実際に解剖された人体を見ると、従来の漢方理論とは全く異なり、彼らが持っていた本と驚くほど一致していました。刑場に散らばっていた骨を拾って確認してみても、それすらも同様でした。杉田は彼の回顧録で、皆、驚きを禁じ得なかったと伝えています。
刑場から帰る途中、杉田と前野、中川の三人は「医術をもって…その根幹となる体の真の構造を知らぬまま、これまで日々、この業を営んできたことは面目ないことだ」とため息をつきます。大まかでも人体構造を把握しながら医療をすべきだとし、『ターフェル・アナトミア』だけでも自ら翻訳したいという杉田の言葉に、前野は積極的に同意します。自分が長崎に留学した
50 経験があり、オランダ語も少し知っているので、一緒に読んでみようと提案したのです。
写真 3. 出島での講義
前野以外にオランダ語の知識が全くなかった三人は、翌日から早速、前野の家に集まり、『ターフェル・アナトミア』の翻訳を開始しました。一日中頭を突き合わせても、一文すら解読できない日も多かったのは、ある意味当然のことだったでしょう。例えば、「鼻は
51 鼻が通っているのである」という文章を解釈する際、前野が取り寄せた小冊子から「木の枝を積み重ねると鼻が通る」「埃が積もると鼻が通る」という文章から、その意味を推測するようなことでした。まさに悪戦苦闘でしたが、一文を解読できた時の喜びを、杉田は「どこにも比較できない」と回想しています。
驚くべきことに、3年後の1774年、この地道な戦いの結実が『解体新書』という名で世に出ることになります。オランダ語を深く学びたいと願い、完璧な翻訳に力を注いだ前野とは異なり、杉田は自身を「何でもいい加減にする性格」と冗談めかして、早く本を出版することに目標を置いたと言います。彼の目標は、オランダ語に精通することではなく、「人体構造という非常に重要なことが、中国の医書にあるものとは異なるという大まかな事実」を知らせ、実際の治療と医学の発展に役立てることでした。結局、学者としての気質が強かった前野は、『解体新書』の著者から自分の名前を外すよう依頼します。
何度も説得しても聞き入れられなかったため、杉田は会合に参加していた者の中で、高位にあった石川玄常と桂川甫周を著者名に加えます。当時、杉田は6年前にオランダに関する話を載せた『紅毛談』という本に西洋のアルファベットが載っていたという理由で発禁処分を受けたことを念頭に、大いに懸念していました。高位の者の子弟を著者として参加させたのは、予想される反発からある程度の緩衝を設けようとした試みと考えることができます。
52 『解体新書』刊行約1年前に『解体略図』という題名で一部の解剖図を抜き出し、広告紙の形式で先に刊行したこと、本格的な出版前に将軍に先に本を献上したことも、その理由からでした。
始まりは解剖医学書の翻訳でしたが、蘭学の広がりは医学だけに限定されるものではありませんでした。蘭学は当時の人々が呼んだ名前で、オランダに関連する学問を総称しました。西洋の帝国主義が拡大するにつれて、蘭学はその本来の根幹である医学の外に、国際政治的な性格を帯び始めます。1792年、ロシアの使節ラックスマンが北海道に上陸し通商を要求して去った後、幕府はこれを「北方問題」と呼び、積極的に対応し始めます。これに対し、唯一の外部への窓口であるオランダ語の文書を利用してロシアについて調べようとします。前野良沢をはじめとする蘭学者たちに、ロシア関連の文書を翻訳させます。蘭学が医師や学者だけの専有物ではなく、国の命運を左右する重大事の一部と見なされるようになったのです。1808年、オランダ船を追ってきたフランスのファエトン号が長崎港に砲撃したことで、外勢への対応という課題はさらに切迫しました。海軍の戦術や技術を学ぶために出島に人々が殺到し、杉田らが花開かせた蘭学は、いわゆる全盛期を迎えることになります。
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写真 4. 「経験的知識」の始まり
思想的混乱の狭間で
この短い物語は、実に驚くべきものです。言語知識が皆無、あるいは初歩的な人々三人が集まり、実証と実利への情熱だけで文明間の対話を成し遂げたこの物語は、やがて日本の近代の象徴となりました。強制ではなく自発的に西洋を知ろうとし、また変化する国際情勢に
54 合わせて新しいものを受け入れた日本人の姿を示しているからです。今の日本が杉田や蘭学を高く評価していることには、福沢諭吉の影響が大きいと言えます。彼は夜市の露店で偶然、杉田のあまり知られていない回顧録『蘭学事始』を発見し、再び世に出したと言いますが、その序文に次のように記しています。「我らは先輩たちの苦しみを直接目の当たりにするようで、その気概と勇気に驚き、その誠心誠意に感動して感激の涙を流した。」
しかし、この近代化のナラティブによって犠牲にされなければならなかった植民地朝鮮の歴史を思い起こすならば、福沢の熱狂的な感動からは少し距離を置く必要があるでしょう。蘭学という学問やネットワークが花開いたその土壌は一体何であったのか、振り返る必要があります。そのために、蘭学の出発点となった杉田玄白、彼の声を通して、当時の日本社会を理解しようと思います。
漢方医学を全面的に否定する『解体新書』の内容に反発した漢方医たちは、杉田を激しく非難します。これに対抗して彼は、本を出版した翌年、対話形式で書いた『狂医之言』を出版します。そこで彼は自身を「医者の逆徒」と表現しています。支那(当時の中国の別の表現)の聖人たちが華夷を明確に区別して民を教えたのは、中華を尊重し、蛮夷を軽蔑するためではなく、自国の習俗が劣っていたからだと述べています。この
55 文章に現れた杉田と、それに対する従来の漢方医たちの認識の隔たりの大きさは非常に興味深いものです。
写真 5. 出島での講義 2
「そもそも中華は聖人、賢者の国です。夏・殷・周の先王たちが
礼楽を定め、文物を明らかにし、教えを世界に広めたので、四方の
蛮夷もそれらを信奉するようになったのです。我々の医学について言えば
…その法は既に明らかで、数千年もの間、民衆の病を治して
きました。ゆえに、この医学の道には、もはや欠けているものは
ありません。それなのに、その杉田という小人が奇妙なものを好み、
56 聖賢の書を疑い、西洋の蛮夷の書を信じ、これまで我々の間に伝わってきた貴重な法を、改めて乱そうとしています。これはまさに、我々医師たちの逆徒でなくて何でしょうか?朝鮮や沖縄であれば、中華から離れているとはいえ、それほど遠くはなく、その地の書物も中華と同じ文字で、時には古代の聖人の言葉をそのまま伝えているものもあります。それなのに、その杉田が学んでいるのは、世界の西北端にある国のもので、中華から九万里も離れた、まさに言葉が通じない国なのです。生まれてから聖人の道を耳にしたこともない、野蛮な国の中でも最も辺鄙な場所にある国で、その風俗も我々とは大きく異なります。その医術も、どの程度のものかは明らかです。」
「総じて、世の腐敗した儒学者や、インチキ医者などは、この天地がいかに広大であるかを知りません。東洋の二、三の国の話を聞いただけで、支那を万国の最高と考えてしまい、わずかなその書物を読んで、漠然と蛮夷は元来その習俗の中に礼楽というものを持っていないと言います。元来、礼楽や文物は、それをもって貴賤を分けるために存在するものです。世のどの国に貴賤の区別がないということがあるでしょうか?どの国に礼楽がないということがあるでしょうか?孔子は『蛮夷にも君主はいる』と言いました。…周の時代の衣冠が良いからといって、これを例えば赤道の下のボルネオやスマトラなどで実行すれば、民衆はその暑さに耐えられ
57 ず、おそらく病にかかってしまうでしょう。…必ずしも支那のものが
良いとは言わず、それぞれの風土に適したものを良いとするべき
です。『道』というものは、支那の聖人たちが作り出したもので
いいえ。天地に元来備わっていたものが道です。…まして
日本の腐敗した儒者、偽医者たちは、支那の書物が語る通り
中国を中土(ちゅうど)と呼びます。元来、大地とは一つの大きな円であり、
万国がその上に居住しているので、それぞれの国がある場所はすべて
中心です。…支那もまた東海の片隅の小国に過ぎ
ません。”
杉田が相手に設定された、当時杉田自身が受けたであろう批判は、当時の日本を小中華(しょうちゅうか)と考えていた日本の朱子学の立場を反映しています。朝鮮の儒学者たちと驚くほど似ています。一方、さらに驚くべきは、それに対して杉田がいかに極端な立場を取っているかということです。「支那」と「中華」という言葉の違いから明白なように、彼の認識は完全に中華のそれから離れていないのです。
日本にも朱子学は早くから紹介されていましたが、日本社会は禅宗仏教の支配的な影響下にありました。朱子学は江戸時代、特に16世紀中後半に入ってから幕府の支配層に儒者が入り込み、統治哲学としての地位を確立します。もちろん仏教との緊張関係は維持されました。生涯を通じて幕府に仕え、儒者時代の
58 始まりを告げた林羅山(はやし らざん)も剃髪しなければなりませんでした。しかし、日本において統治哲学としての朱子学は、完全に安定した姿を見せるには至りませんでした。陽明学、古文辞学などの強力な分派が現れただけでなく、国学という新しい思想が登場したからです。これらの流れは17世紀末から18~19世紀にかけて発展しました。広義之言で見られるように、漢方医たちは漢文で勉強する知識人、すなわち儒者でした。しかし一方で、医療を続けながら経験的な現実と接する実践者でもありました。このような点は、「医学は実質を重んじる」という杉田の認識にも表れています。まさにこの医学という領域で、杉田のような蘭方医と漢方医との間に巨大な隔たりが生じた点は注目に値します。
17世紀初頭、ポルトガルとスペインの宣教師たちによって様々な医療活動が行われました。当時の人々は鎖国後も受け継がれてきた医学技術を南蛮医学、後に伝わってきたオランダ人たちが伝えた医術をオランダ流医学と呼びました。杉田もこの流れの一部でした。彼の師を教えたのは、鎖国当時改宗・改名を強いられたポルトガルの医師であり宣教師でした。この医療行為は大衆的に大きな人気がありました。儒学の発展と相まってキリスト教への疑念と監視が厳しくなる前の16世紀末には、大名がカトリックに改宗した例があるほど、外勢に対する警戒は強くありませんでした。江戸と京都に病院が建てられ、多くの患者が治療を受けました。鎖国後も西洋の医療だけは健在でした。杉田は南蛮流と
59 オランダ流を併せて行っていた西(にし)が非常に人気が高く、後に幕府お抱えの医師に起用されるほどだったと記録しています。
しかし、南蛮学とオランダ医学は「学」ではありましたが、「学問」ではありませんでした。杉田が記しているように、初期のオランダとの交流を担当した通詞たちは、カタカナで音を覚えて意思疎通するのにとどまり、オランダと南蛮医学はすべてこの通訳の領域に属していました。鎖国後、キリスト教を極度に警戒した幕府が、日本国内で外国の文字を読むことを禁じたためです。しかし、オランダと修交して約百年が経過した時点で、吉宗幕府がこの禁書令を緩和したことで、オランダの書物が次第に流入するようになります。
杉田はこのような社会的変化が自然な流れだと考えたようです。オランダから入ってくる西洋の品物への関心が高まる一方で、文字は知らないという状況が長く続きましたが、「世の中の万事は、いつかは時が来るものである」と、長崎の通詞たちの書物輸入への要請が受け入れられたと述べています。それにもかかわらず、先に述べた『紅毛帆』の事例のように、依然として西洋の書物に対する警戒は確かに存在しました。杉田はこのような緩やかな社会雰囲気について、次のように記しています。「西洋のことに特に通じている人もいなかったが、かといって西洋のことを避ける雰囲気でもなかった。オランダの本などを所持することは許されてはいなかったが、持っている人も時折現れる世の中へと変わっていった。」オランダの本を直接翻訳したいという熱望を持っていたところに
60 《タペル・アナトミア》を手に入れ、その年に死体解剖に立ち会う偶然を指して「奇妙だと言うべきか?いずれにせよ解剖書を入手したことは、蘭学が広がる時期が来たことを意味すると言わざるを得ない。」と記しました。結局、一緒に解剖に立ち会った前野も同じ本を持っており、帰り道に翻訳を決意することから、時期が熟していたという杉田の判断は単なる謙遜ではないと思います。
事実、解剖自体は非常に一般的なことではありませんでしたが、全く初めてのことでもありませんでした。山脇東洋(やまわき とうよう)が数回にわたり死体を解剖し『臓志(ぞうし)』という本を出版したのが十数年前の1759年のことだったからです。この他にも、幕府所属の官吏たちが数回解剖を行いました。しかし、先に『広義之言』で見たように、すべての日本の医師が解剖に賛成していたわけではありませんでした。解剖に反対する『非臓志(ひぞうし)』という本が出版されたり、死後の内臓は生きている人の治療には何の役にも立たないという解剖無用論が登場したりします。この解剖無用論は、杉田以降の蘭学の主要なライバルともなります。しかし、杉田と仲間たちがそれ以前の先輩たちと異なっていた点は、まさに比較でした。彼らが見たものは漢方医の理論とは全く異なり、持っていた『ターヘル・アナトミア』とは全く同じだったのです。西洋の本が日本人の身体構造と一致したので、先輩たちが抱いていた「中国人は西洋人とは人体構造が違うのか」といった疑問は力を失いました。杉田は解剖見学に招待された後
61 「(中国とオランダの理論の)どちらが真実なのかを直接確認できるよう」になったことが、非常に稀な幸運だと考えたと記しています。実証によって「中国のもの」と「西洋のもの」を同一線上に置いて比較するようになったのです。
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写真 6. 出島でのハ・ヨウソン先生と子供たち
時代の勝負師 杉田玄白
63 玄白と『解体新書』を追っていくほど、ますます明らかになるのは、玄白が生きた18~19世紀の日本が思想的に非常に混乱していたという点です。16~17世紀に幕府権力の核心に進出した朱子学が、国の隅々に完全に定着する前、陽明学、考証学などの競争分派が力を得ただけでなく、西学が流入し、国学という新しい思想が生まれるなど、当時の日本は物質的な繁栄と大都市の発達という背景の下で、思想の角逐戦が繰り広げられていた場でした。
杉田は『解体新書』の出版当時の日本社会を回想し、人々が次第にオランダの技術的発展を認識しており、医師たちが江戸に滞在するオランダ商館長を訪ねていくことがますます増えていたと記しています。杉田が属するオランダ流医学もまた、発展が加速する兆しを見せていたのです。『解体新書』の作業仲間の中で、オランダ語に最も造詣が深かった前野が著者としての参加を拒否するほど、杉田は不完全な翻訳であっても早く世に送り出すことをより重要視しました。そのような彼の焦りの背景には、このように急速に変化する世界で最新の理論を提示し名声を得る、現代の学者と同じような野心があったのではないかと考えられます。
『解体新書』出版後、すべての競争理論が姿を消したわけではありませんでした。先に述べたように、その後の蘭学は既存の漢学者たちとの競争を続けることになります。ただ、19世紀前後にかけて、これらの理論、そして各理論が代表する思想たちの角逐戦に大きな影響を与える事件が起こり始めます。1792年に北海道にやってきて通商を
64 要求して以来続くロシアの南下、そして1808年にオランダ船を追ってやってきたフェートン号の砲撃を経験し、日本は変化する国際情勢の一端を経験することになります。西欧に関する情報を得る道は、唯一交流を続けてきたオランダを通じて以外にはありませんでした。幕府は1792年の通商要求事件の後、蘭学者たちにロシア関連文書を翻訳するよう命じました。前野良沢(まえの りょうたく)がこの命を受けた学者の一人でした。一方、杉田の私塾は門下生で溢れ、彼は日本史上に前例のない、大衆的な人気を博した流行医(はやりのい)として名声を博します。彼の収入は600両近くになることもありましたが、これは当時の最高の人気作家であった曲亭馬琴(きょくてい ばきん)の全盛期の収入であった40両の10倍を超える数字でした。将軍に直接拝謁する栄誉にも浴しました。単なる医学著作だけでなく、日本と世界の状況について批評する文章を多数残しています。例えば、1807年に記した『野隻独話(やせきどくわ)』では、ロシアの歴史とその脅威について、そして日本の衰退した幕府体制を古い家に例え、家を新築するためにはどんなに大切なものでも古いものは捨てなければならない時があると記しています。
このように、杉田は医学者というよりは時事評論家、あるいは人々を集める力のある、今のインフルエンサーのような人物として見るのがより正確かもしれません。杉田は追加的な翻訳作業は行わず、蘭学の精神を扱った『和蘭医事問答(おらんだいじもんどう)』や『形影夜話(けいえいやわ)』などを除いた実質的な研究活動は
65 ほとんどが彼の息子たちと弟子たちのものでした。《解体新書》の作業の指導者であり、最も大きな貢献をした前野良沢は、実際には解剖に比べて大きな名誉や名声もなく、孤独に生涯を終えます。したがって、杉田の成功は大衆の教育水準の向上や大衆書の普及などと結びついた社会的現象として理解しても良いでしょう。もちろん、その成功の重要な引き金にはロシアの南下を含む国際政治の現実の変化があるでしょう。
玄白が始めた蘭学の成功は、したがって単なる学問的成功に過ぎません。そのため、彼を日本人に特別に内在していたルネサンス的な人間型として描くことは、今私たちに支配的な西欧近代的なナラティブを遡及して適用する目的論的な思考法に他ならないでしょう。学問への情熱だけで絶えず精進する、近代的な学者像にふさわしい前野良沢は、むしろ歴史の陰の部分に置き去りにされてしまったのですから。
おわりに – 直線の近代を越えて
すべての社会が直線的に発展するという考えは、歴史的な事件や人物をその考えに合わせて再発見させることになります。また、この考えは知識もまた直線的に発展するという考えと密接に関連しています。杉田と仲間たちの『解体新書』以前にも、同様の努力や発見が
66 行われていたという事実に触れながら、クーン(トーマス・クーン)が語った非線形的な知識を思い浮かべられたかもしれません。
歴史は現在と過去の絶え間ない対話であるという、もはや陳腐にまで聞こえるカー(E.H.カー)の伝言は、ここで私たちに問いを投げかけます。脱近代という名の下に近代のすべてに問いを投げかけてきた今この時点で、杉田玄白をはじめとする蘭学の登場と発展をどのように理解し、描くことができるだろうか?これまで玄白の話が東アジアを汚してきた日本の近代のものであったならば、今私たちが直面している現実は、日本の蘭学という過去との対話からどのような歴史を紡ぎ出すことができるだろうか?時間と力量の不足で、同時代の朝鮮との比較を含む重要なものを盛り込めなかった残念さが残りますが、ここまでがこの問いに対する私の短い考察の結果です。
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写真 7. 出島出口 参考文献 1. 一次文献 甲. 国文
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ソヘムンブ.)
68 乙. 英文
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Japan: Tokugawa Culture Observed. (Honolulu: University of
Hawaii Press.)
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Petersburg, Centre for Asian and African Studies.
2. 単行本
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University of Harvard Press.)
3. 定期刊行物 甲. 国文
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『解体新書(カイタイシンショ)』と『重訂解体新書(ジュウテイカイタイシンショ)』に
見られる世界と人体」. <延世医学>. 第21巻. 第2号. 53-76.
ヨ・インソク、ファン・サンイン. 1994. 「日本の解剖学導入と定着過程」. <医史学>
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イ・グンサン. 2018. 前野良沢(まえの りょうたく)と大槻
玄沢(おおつき げんたく)のオランダ語認識と学習
写本『和蘭訳文略草稿』と刊本『蘭学階梯』を中心に。
<日本研究> 第49集. 43-60.
イ・グンサン. 2016. 「蘭学系譜を通じて見た学習と翻訳」. <日本研究> 第42集. 121-138.
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*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。