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1930年代 東亜新秩序と日本の機会

21世紀 朝鮮通信使、九州へ行く : サランバン(談話室)の若者たちが九州を抱く

カテゴリー
EAI サラバン訪ね歩き
発行日
2016年1月14日

九州国立博物館・カン・ヒョンミン・高麗大学校

「日本からアジアへ」九州国立博物館

九州国立博物館。古くから陶磁器や蘭学、西洋の文物などを流入させ、20世紀に入ってからはアジア秩序の巨大な変革を主導した九州地域を代表するこの博物館は、一見すると世界のどの博物館とも変わらないように見えます。現代的な建築様式と、その中に展示されている数々の遺物や史料が、太古から今日に至るまでの日本の歴史を誇示しており、欠かせないミュージアムショップやオープンカフェ、レストラン、そしてそれらを埋め尽くす訪問客。ある意味では、Facebookに投稿する写真を一枚撮るだけで満足できるほど、陳腐で平凡な博物館かもしれません。しかし、少しでも考えのある人々、あるいは私のように特に考えがあるわけではなくても、細かなディテールを見つけるのが好きな人々にとっては、このような陳腐さと平凡さの中から何か特別でユニークなものを見つけ出すことほど楽しいことはありませんでした。8. 1930年代 東亜新秩序と日本の機会: 九州国立博物館

九州国立博物館のユニークさと差別性、それはまさに九州国立博物館が掲げている展示コンセプトから始まります。私は特に九州国立博物館の常設展示室の展示コンセプトに注目しました。この常設展示室は、博物館の4階に位置する「文化交流展示室」で、当博物館がその「顔」として掲げている場所です。博物館側は、文化交流展示室の展示コンセプトを以下のように紹介しています。

ここ(文化交流展示室)は、常時800点ほどの文化財を鑑賞できる当

博物館の顔です。しかし、なぜ「常設展示」ではなく「文化交流展示」という

名称を付けたのでしょうか?これは九州国立博物館に与えられた課題として、日本の

文化交流の歴史を展示するための一つの回答です。日本通史ではなく、

九州の地域史でもなく、アジアとの文化交流史。私たちはこの展示室で

日本文化が外来文化を模倣したのではなく、それを消化・蓄積して

独自の Світ を創造してきた経路を示そうとしているのです。

私がこの紹介文を読んで個人的に抱いた第一印象は、日本、あるいは少なくとも当博物館は、日本文化がその独自性を認められていないという一種の被害意識を持っているのではないかという疑問を慎重に抱いたことです。もちろん、他の国の博物館も自国文化の独自性を誇示しようと努力しているのは事実ですが、上記の引用文で述べられているように、九州国立博物館は日本文化が外来文化を模倣したという一種の批判を明確に認識しており、それを克服しようとする試みとして「消化と蓄積の独自の文化」として日本文化を変貌させようとしているように見えました。

事実、日本の歴史を紐解いてみると、自国の独自性を認められるために絶えず努力してきたことがわかります。長い年月、中華秩序の中でそれなりに位置づけられていた私たちとは異なり、完全な蛮族でもなく完全な事大主義国家でもなかった日本は、自国のアイデンティティを見つけるために絶えず努力しました。主要展示物の一つである「徳川家康朝鮮国王宛書状」などを見ると、朝鮮通信使に対する待遇を簡略化するなど、日本が朝鮮と対等な関係を樹立しようとしたことがあったかと思えば、それよりもはるか以前に隋の皇帝が「倭皇」と称した部分に対し、日本の聖徳太子が「東の天皇は謹んで西の皇帝に告ぐ」と名称を改めて返答するなど、独自の「天皇」を持つ日本として中国とも対等な関係を樹立しようとしたこともありました。ある意味では、中華秩序の中で日本が占めていたその曖昧な位置のおかげで、日本は我が国と比較してより広い範囲で行動の自由を享受できたのです。そのため、比較的非常に早い時期からオランダのような西洋諸国と接触できたのではないかと思いますが、究極的にはこれはむしろ日本のアイデンティティをさらに曖昧にする効果を生んだのかもしれません。中国と韓国から受け入れた文化に西洋文化まで混ぜてしまったのですから。8. 1930年代 東亜新秩序と日本の機会: 九州国立博物館

そうであった日本が20世紀に入り、アジア諸国の中で最も早く開港して西洋の文物を受け入れたおかげで、政治、経済、軍事的に急成長し、成長した国力を基盤に既存の中華秩序を打ち破り、アジアに日本のアイデンティティが入り込める場所を確保し、その場所を中心に新たな秩序を打ち立てることができる絶好の機会を得ます。もちろん、結論から申し上げますと、その絶好の機会は結局悲しい結末を迎えます。日本がアジアに新たな秩序を打ち立てる機会を得ましたが、その機会を活用する手段と方法が正しくなかったため、結局アジアと西洋諸国の双方から見捨てられることになるからです。

20世紀の日本、アイデンティティ確立のための絶好の機会を迎える

日本にとってその絶好の機会とは、まさに「東亜新秩序論」(東亞新秩序論)でした。私が理解するところでは、東亜新秩序とは、簡単に言えば、アジア地域では平和を愛する唯一の民族主義である日本の民族主義がアジアの中心となり、他のアジア諸国を統合しなければならないということです。ここで注目すべき点は、このような言説が第二次世界大戦勃発直前の1930年代に日本で蔓延していたという事実です。したがって、東亜新秩序論は、第二次世界大戦勃発まで日本軍部が朝鮮、台湾、中国などを対象に敢行した侵略戦争を合理化するための名分として作られたか、あるいは日本人が他のアジア人よりも平和をより愛するというその信念の上に作られたのかもしれません。

しかし、私の見方は少し異なります。私が見るところ、東亜新秩序とは、日本が自国のアイデンティティを確立しようとする一連の努力でした。過去数千年、アジアでまともに位置づけられずにいた日本が、中華秩序を丸ごと打ち砕き、その場所に自国中心の秩序を打ち立てることによって、その場所を最終的に確立しようとする願いが込められていたのです。どれほど切迫していたら、政府さえ統制できない日本軍部の一方的で無慈悲な侵略行為さえも競って合理化しようとしたのでしょうか。当時の哲学者であった三木清は、1937年11月号『中央公論』に掲載した論文「日本の現実」で次のように東亜新秩序を定義しています。

歴史的にシルクロードの終着点で文化を受容するばかりだった日本は、史上初めて「大陸に進出できる機会を持ち、日本文化の進出に伴い新たな東洋文化を形成できる道」を作ることができるようになりました。東アジアの統一はすでに近づいている世界史的な段階であり、文化史的な観点から見れば、日本がその使命を担い、全力を尽くして達成すべきものでした。

ここで三木は、新たな東洋文化を形成できる道を開くためには、まず日本文化の進出が必要だと述べています。では、その日本文化とは何だったのでしょうか?私の考えでは、それはまさに「平和を愛する文化」だったのでしょう。九州国立博物館の職員から始まり、九州全地域、さらには日本全国を見渡しても、日本国民ほど親切で善良な性質を持った人々はいません。たとえそれが偽善であったとしても、私は今回の視察を通じて、三木も他のアジア人や周囲を見ながら「本当に日本人は平和を愛しているな」という認識を持ったのかもしれないと思いました。しかし、ある意味ではあまりにも身近な周辺だけを見ていたのではないかとも思います。当時、中国では日本軍が無数の罪のない人々を平気で踏みにじり、拷問し、殺していたのですから。この点で、私は「サランバン」の講義を通じて熱心に読んだ、「個人は道徳的だが社会は非道徳的である」と主張したアメリカの哲学者ラインホルト・ニーバーの『道徳的人間と非道徳的社会』という本をふと思い出します。隣の家の庭の手入れをするおじいさんや、前を通る花屋で働くおばさんは、それぞれ非常に親切で親切かもしれませんが、彼らでさえ「反ユダヤ主義」「中国解放」「人種的優越主義」といったスローガンを掲げた群衆の中に混じれば、皆非道徳的な存在になってしまうという内容です。ニーバーがこの本をもう少し早く書いて、三木がそれを読むことができたなら、彼の思想は大きく変わらなかったのではないかと思いました。いずれにせよ、本当に身近に住んでいる善良で親切な人々だけをずっと見ていてこのような信念を持ったのかは分かりませんが、三木が満州日本軍の蛮行を反映できず、ただ日本人の「平和を重視する」文化を誤って展開したために、彼の思想は日本軍の残虐な行為さえ合理化するのに使われてしまったのではないかと思われます。

自国のアイデンティティを確立したいという日本のその願いについての話に戻ると、これは実はそれほど理解しにくい話ではありません。私自身もそうですし、私の周りの人々も皆、人間は基本的に誰かに認められたいと思っていると思います。他者の承認を引き出す方法は様々ありますが、一般的には自分の所属、職業、階級などを自慢して相手の承認を得ようとします。大韓民国の男性の場合、兵役を終えなければ互いを認め合い、話が通じ、すぐに親しくなる文化があるように、共有できる一種の所属感が必要であり、それによって相手から認められることができます。このような前提で考えると、日本にはそのような確かな所属感がなかったのです。いや、ある意味では日本がこれを拒否したとも言えるでしょう。当時、このような所属、階級などを付与する主体は、東アジアの場合「中華秩序」であったと見ることができますが、日本の場合、その中華秩序が強要する階層秩序に従わず、絶えずアジア大陸諸国と対等な関係を持ちたかったからです。したがって、このような文脈で見ると、日本は昔から中華秩序に対する拒否感を持っていましたが、非常に皮肉なことに、同時に中華秩序に対する憧憬の念も持っていたようです。実はその憧憬の念とは、中華秩序そのものへの憧憬の念ではなく、その秩序の中で互いを認め合い、共存している国家々に対する憧憬の念だったのでしょう。あえて中華秩序でなくても、日本も何らかの秩序に所属したいという気持ちがあったのです。その時、ちょうど日本に、東アジアの既存秩序である中華秩序を瓦解させ、自分が望む、そして自分が属することができる秩序を直接打ち立てる機会が与えられたのです。8. 1930年代 東亜新秩序と日本の機会: 九州国立博物館

先ほど三木清を少し言及しながら「平和を愛する日本の文化」について話しましたが、これが日本が構築したかった東亜新秩序が既存の中華秩序と差別化される核心であると見ることができます。これと関連して、別の哲学者であるロマ山正道は1938年11月「改造」に掲載した「東亜協同体の理論」で次のように説いています。

東洋の統一は、民族主義の克服から作られていかねばなりません。

しかし、その克服を可能にする原動力はどこにあるのか?その主

動力は、日本の民族主義がアジア大陸に進出していく過程に

内包されています(蠟山政道 1938, 11)。

ここで蠟山が言う日本の民族主義が、まさに三木が言う平和を愛する日本の文化と一致するのではないかと思います。三木は上記の論文で、日本の民族主義が日本の天皇制的な民族観念、すなわち「一君万民の世界に類例のない国体に基づいた協同主義を基盤とするもの」、包容性、進取性、知的性質、そして生活的かつ実践的な性格を包括していると主張しています。つまり、日本が「東洋思想を是正するのに十分だと見なすのは、その独特な連帯思想であり協同思想」であり、「日本国体の根源をなす一国万民、万民補益の思想」があるからだということです(咸東柱 2000, 30)。三木はこのような「日本的」民族観念が、単に日本だけの特性に限定されず、中国にまで拡大できると見ており、蠟山も同様に類似した見解を持っています。蠟山も結局、三木が持っていた欠点もそのまま踏襲し、彼の主張は日本軍部の蛮行を正当化するのに悪用されてしまいます。いくら当初の趣旨が良かったとしても、結果が悪ければその趣旨さえ非難の対象となりかねないようです。

ある意味では、この話は所属感を得ようと絶えず努力する日本の悲しい物語です。自分の家を見つけられずにさまよう孤独なオオカミの話なのです。西洋勢力がเข้ามาくる前までは中華秩序の中で自分の場所を探そうとしたが失敗し、西洋勢力がเข้ามาきてからはヨーロッパ秩序の中で自分の場所を探そうとしたがそれさえも失敗し、今日に至るまで国際社会で曖昧な位置に立ち、きょろきょろしている日本の姿。最近、安倍首相が日本の軍事力保有および戦争遂行能力を禁じている平和憲法を改正し、武器を輸出し、自衛隊を派遣しようとするなど、それなりに展開している強硬な外交政策も、ある意味では今日の世界秩序の中で自分の場所を見つけるためのあがきなのかもしれません。東アジアの平和と安全を図るために、中国や北朝鮮などを牽制する上で、日本側に責任を漸進的に転嫁したいアメリカの立場を利用して軍事力を強化し、アメリカの支持を基盤に日本が相当な影響力を行使できる「ネオ(neo)東亜新秩序」を打ち立てることが、日本の究極的な目標なのかもしれません。だからといって、歴史を歪曲し、過去に対する十分な反省なしにそれを正当化できるのかについては、個人的に疑問を感じますが、日本が1930年代に出会ったその絶好の機会を逃したことに対して、大きな残念さが今も残っているのだろうと思います。まるで今日のイスラム主義者たちが、かつて栄光を誇った汎イスラム国家(Pan-Islamic State)を懐かしみ、それを再建しようと努力するように、日本もその機会を逃した残念さが大きい分、その時代に戻りたいという気持ちも大きいのでしょう。8. 1930年代 東亜新秩序と日本の機会: 九州国立博物館

結びに

九州国立博物館を巡りながら、私はどうして九州国立博物館の展示コンセプトだけを読んで、これほどの考えを導き出せたのだろうかと考えてみました。この考えが良いか悪いかは別として、これほど考え出せるということは、それだけ大韓民国の国民として、軍人として、そして日韓関係に関心のある者として、それだけこれに対する問題意識があるからだと考えます。この問題意識とは、今日の東アジア秩序の中で大韓民国と中国、日本など各国がどのような位置に立ち、どのような責任を負わなければならないかということですが、これについて考えると考えるほど、「東アジア秩序はまだ形成段階にある」という考えに至ります。中華秩序が西洋の侵略によって崩壊した後、私たちは未だにこれといった秩序を構築できていないようです。あえて言えば、アメリカに依存している大韓民国と日本が一つの軸、そして中国と北朝鮮がもう一つの軸を占めている両軸構造が成立していると見ることができますが、このような両軸構造によってむしろ東アジア秩序の樹立がさらに遅延されているように感じられ、個人的には残念な気持ちになるほどです。さらに悪いことに、このような分断された状況で、日本は過去の栄光の時代に固執するあまり、周辺国に対する十分な配慮なしに独自の秩序を構築しようとするため、東アジア秩序の樹立はさらに複雑になるしかないようです。

平和で安定した東アジア秩序を樹立するために、少なくとも日本は自国の位置を再評価する必要があるでしょう。かつて東アジアの覇権を握っていた日本が過去に固執するのではなく、今日の日本がどのような位置に立っているのかを客観的に評価する必要があると考えます。旧時代の覇権国ではなく、新時代の「中堅国」として生まれ変わらなければならないのです。そのためには、旧時代の覇権国としての日本を正当化し、賛美するための歴史歪曲や軍事力拡張などの努力を自制し、新時代の「中堅国」であることを自覚し、今日の東アジア秩序の中で日本がどのような役割を果たせるのかを改めて考え直さなければならないでしょう。

日本が覇権時代に突入する最初の関門であった九州。そこで明治維新が初めて踏み出され、伊藤博文など日本を覇権国家へと生まれ変わらせた功臣たちが育ちました。日本の首都である東京から最も遠い地方であっても、1930年代に東亜新秩序を樹立する過程において、九州こそが断然中心地でした。このように歴史的に大きな意味を持つ地域を代表する博物館が、まさに九州国立博物館であるため、私たちのような政治学徒は、それだけ慎重さを期して訪問しなければならなかった場所でした。■ 8. 1930年代 東亜新秩序と日本の機会: 九州国立博物館参考文献 咸東柱. 2000. 「三木清の東亜協同体論と民族問題」『人文科学』30。

蠟山政道. 1938. 「東亜協同体の理論」『改造』11。

*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。

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