長崎への原爆投下の国際政治力学:アメリカの視点から見た日本とソ連(長崎原爆資料館、チョン・ミョンヒョン)
雪国から世界を見る:サラバン(愛の部屋)の若者たち、九州を抱く
ソウル大学校外交学専攻修士課程在学
Ⅰ. はじめに
1945年8月9日、大きめの爆弾を積んだB-29爆撃機が、厚い雲の切れ間から見えるある都市、長崎を捉えた。「ファットマン」と名付けられた爆弾は、投下信号とともに長崎中心部からやや北寄りの地点に投下された。閃光とともに巨大なキノコ雲が長崎上空を覆い、高温の熱線は存在するものをすべて焼き尽くし破壊した。この日行われた攻撃で、長崎では約7万人が死亡した。爆撃後、外傷や精神的後遺症を負った人々もいるため、実際の人的被害はさらに大きかった。広島に続き長崎にも原爆攻撃を受けた日本は8月15日に降伏を宣言し、9月2日に降伏文書に署名して太平洋戦争、そして第二次世界大戦は公式に終結した。
[図1] 着陸前に撮影された九州上空
長崎に原爆が投下される前の
空はこのような様子だったのだろう。
現在、長崎に原爆が投下された場所には、原爆投下地点を示す記念公園や複数の慰霊碑、そして長崎原爆資料館が建てられている。原爆資料館では、原爆投下前の長崎の生活ぶりを示す品々と、投下後の惨状を物語る建造物とを対比させて展示しており、核兵器の開発過程とその被害を伝える展示を構成することで、核兵器のない平和な世界への願いが世界に伝わることを願う日本人の思いを垣間見ることができる。
[図2] 原爆資料館展示室入口に置かれた時計
時計は原爆が投下された瞬間に止まったままである。では、日本の視点から長崎原爆の「加害者」となりうるアメリカが、長崎に原爆を投下することになった契機は何だったのだろうか。この問いからは、二つの疑問点が浮かび上がる。一つは関連資料の不足であり、もう一つは手段の適切性である。まず、長崎に原爆を投下することを決定した理由を詳細に記した政府文書は残されていない。状況が切迫していたためかもしれないが、日本との戦争の趨勢を左右しうる重要な決定が、文書上ではっきりと明らかになっていない点が不可解である。
また、アメリカが長崎に原爆を必ず投下しなければならなかったのかも疑問である。原爆を投下したならば、それに見合う目的がなければならない。もしアメリカが日本の抵抗意志をくじくために原爆を投下したのだとすれば、事後的な評価ではあるが、これは誤った決定であった。当時、日本はすでに戦争を遂行する能力が十分ではなかったからである。日本の降伏を早く引き出すためであったならば、ある程度は理解できる。日本政府は最初の原爆を受けても降伏の意向を示さなかったからである。それでも、そのような目的のために原爆を投下し、数万人の民間人犠牲者を出さなければならなかったのかは別の問題である。原爆を使用せずに日本の降伏を引き出すことができたのかが、米政府関係者の間で議論されたのかは疑問である。
では、より広い視野で長崎原爆投下を捉えることはできないだろうか。アメリカと日本という二国間関係ではなく、当時の国際政治の力学を考慮した視点から、長崎原爆の過程を追うことはできないだろうか。著者はこうした悩みから、アメリカの長崎原爆投下決定にはソ連の意向が関係していたのではないかという考えに至った。第二次世界大戦において、ソ連はアメリカと同じ連合国として日本と対峙したが、戦後には袂を分かつことになる。そしてアメリカは、自らが打ち破った日本を再び復興させ、ソ連を牽制する防波堤とする。ゆえに、太平洋戦争における日本問題を論じる上で、ソ連を排除して説明することは困難である。アメリカが日本とソ連をそれぞれどのように見ていたのかを考察すれば、長崎原爆投下過程におけるアメリカの政策決定者が抱えていた葛藤がより鮮明に明らかになるだろう。
長崎原爆投下に関する国際政治学的な力学を詳細に分析した既存の研究はほとんどない。長崎原爆を倫理的な次元から捉え、その妥当性を論じた研究もあったが、研究者たちは主に広島と長崎をまとめて、アメリカの原爆意思決定過程を分析した (Cummings 1999; Sherwin 2000)。アメリカとソ連が日本の降伏に与えた影響を分析した研究もあったが、これも長崎原爆事件に集中的に光を当てるものではなかった (Alperovitz 1965; Alperovitz 1995; Asada 1998; Bix 2005; Hasegawa 2005; Maddox 1994; Frank 1999)。そこで本報告書は、既に行われてきたアメリカの原爆投下に関する研究を補完すると同時に、個別の事象を通じて明らかになる国際政治学的な力学を新たに提示することを目指すものである。
本稿は以下の順序で進む。まず、核兵器に関する意思決定が下された臨時委員会(Interim Committee)の議論を通して、委員会参加者が日本とソ連についてどのような意見を交わしたかを見ていく。次に、委員会の主要参加者が日本とソ連について残した他の記録に注目し、原爆投下過程において日本とソ連に関して米政策決定者がどのような点を考慮したかを追跡する。最後に、彼らの考えが実際の戦争過程にどのように反映されたかを見ることで、アメリカが長崎に原爆を投下せざるを得なかった理由を説明する。
Ⅱ. 臨時委員会(Interim Committee)
1. 委員会の結成
長崎への原爆投下過程を知るためには、その決定に関与した人々の考えを知る必要がある。原爆に関する重要な決定は臨時委員会で行われた。臨時委員会は、当時の陸軍長官ヘンリー・スチムソン(Henry L. Stimson)がトルーマン(Harry S. Truman)大統領の裁可を得て設置した委員会である。当該委員会は、戦後核管理を担当する常設機関となる前に、核兵器に関する議論を行うために「臨時」という名称が付けられた(Nuclear Files 2023)。
最初の会議であり非公式会議は1945年5月9日に行われた。この日に行われた会議は、委員会の設立目的と機能の説明の場であった。冒頭のスチムソンは、核兵器の戦時管理に関する内容を全般的に扱おうと臨時委員会を発足させ、委員会で議論された報告と勧告の内容が自身を通じて大統領に伝えられることを明らかにした(Nuclear Files 2023)。これは、委員会が核兵器の使用と管理に関して大統領に直接的な影響力を行使できることを意味した。
委員会に所属する人々は、大きく科学界、外交界、軍事界に分類できる。まず科学界には、ヴァネヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush)、カール・コンプトン(Karl T. Compton)、そしてジェームズ・コナント(James B. Conant)がいた。彼らは皆、アメリカの戦時兵器開発のために設立された科学研究開発局(Office of Scientific Research and Development, OSRD)あるいはその傘下に所属していた。ここでブッシュは開発局の総括を担っており、マンハッタン計画で核兵器の開発を主導した人物であった。外交界には、大統領特使であったジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)と国務次官補ウィリアム・クレイトン(William L. Clayton)が名を連ねていた。特に、前任のルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)政権でも要職を務めていたバーンズは、ポツダム会談を前にトルーマンの要請を受けて国務長官となり、トルーマンの意思決定に影響を与えた。最後に軍事界には、スチムソンを含め、海軍次官ラルフ・バード(Ralph A. Bard)、そして陸軍長官特別補佐官で委員会の副委員長であったジョージ・ハリソン(George L. Harrison)がいた。
後に臨時委員会は、米陸軍を統括したジョージ・マーシャル(George C. Marshall)陸軍参謀総長、マンハッタン計画(Manhattan Project)の総責任者であったレスリー・グローヴス(Leslie R. Groves)将軍など、会議進行に必要な人物を招き、数度にわたり会議を進めた。それでも、科学、外交、軍事という委員会の基本的な骨格は変わらなかった。各分野の専門家で構成された委員会参加者たちは、それぞれの視点から核兵器に関する意見を提示し、合意点を見出した。
2. 日本とソ連に関する議論
臨時委員会の議論は大統領の視点が形成される上で重要な役割を果たしたため、会議で出された日本とソ連に関するやり取りを通して、原爆使用に関するアメリカの国際政治力学を考察することができる。
まず、日本に関する議論がどのようなものであったかを見てみよう。日本に対する核兵器の使用を重点的に扱った会議は、1945年5月31日と6月1日に、二度行われた。5月31日の会議は、核兵器使用に関する立場が最終的に整理された場であった。様々な意見が交わされる中で、全員が同意した点は、日本に対する核攻撃は事前警告なしに行われるべきであり、原爆による住民への心理的効果が重要であるということだった。コナント博士はこれに同意し、標的は軍需工場あるいは工場労働者の居住地とすべきだと付け加えた(Nuclear Files 2023)。
しかし、原爆の使用方法については異論があった。オッペンハイマーは、原爆を同時に複数使用することが可能だと述べたが、グローヴスはそれに反対した。彼は、オッペンハイマーの方法では逐次使用に比べて爆弾投下に関する情報を得るのが難しく、こうした作業が性急に進められて非効果的になる可能性があり、すでに空軍が行っている空中爆撃と大差がないという点を根拠とした(Nuclear Files 2023)。これまで開発されたことのない原爆を他の兵器と同じように使用してはならないという意見は、原爆の重要性と破壊力がそれだけ大きかったことを意味する。翌日の6月1日、バーンズを含む臨時委員会の参加者たちは、日本に対する核攻撃を「できるだけ早く(as soon as possible)」行うよう陸軍省に要求した(Nuclear Files 2023)。このような要求は、核兵器を保有し使用することによって戦争を短時間で終結させることができると信じていたからである。これは、6月16日の臨時委員会科学界関係者の声明によく表れている。オッペンハイマーを筆頭とする彼らは、スチムソン長官に核兵器を「直ちに(immediate)」使用することを勧告したが、その根拠として、核の使用によってアメリカ人の命を救う義務があることを提示した(Nuclear Files 2023)。当時アメリカは、沖縄戦で日本軍と最後まで激しい戦闘を繰り広げていた。戦争によって自国の人的・物的損失が甚大になった状況で、アメリカは日本との戦争を早期に終結させたいと願っていた。加えて、開発中であった核兵器が完成段階に入りつつあったため、日本への核攻撃が可能であるという意見が支配的であった。
次に、ソ連に関する立場を見てみよう。臨時委員会では、敵国である日本やドイツだけでなく、連合国であるイギリス、そしてソ連との関係も議論された。注目すべきは、委員会がソ連に対してやや警戒心を抱いていた点である。5月31日の会議において、ソ連に対する委員会の視覚が最もよく表れている。この日の会議で議論された内容をまとめた報告書を見ると、ソ連問題を取り扱った章が別途設けられていた。会議参加者たちは、核兵器の統制と国際協力の問題において、ソ連の態度が「最も重要な関心事(paramount concern)」であると考えていた。核開発に関する意見では、科学界と外交界の意見が分かれた。オッペンハイマーは、ソ連の科学者たちと積極的に交流し、関連情報を共有することが望ましいと述べたが、バーンズは核関連技術をソ連と共有することを渋った。それにもかかわらず、核開発を急ぐことでロシアとの政治的関係において優位に立とうとするバーンズの意見には、全員が同意した。彼らはソ連との協力の可能性を否定しないまでも、ソ連を完全に信頼することはできないと考えていた (Nuclear Files 2023)。
その後に行われた会議でも、ソ連を警戒する臨時委員会の姿勢が見られる。技術関連の専門家を招いて行われた6月1日の会議では、ソ連の技術発展の潜在力について議論された(Nuclear Files 2023)。スチムソンは、ソ連が他国がアメリカの技術力をどれほど速く追い上げられるかを懸念しており、招かれた専門家たちは、ソ連がドイツの資源と技術者、そして科学者たちを確保すれば、技術発展が加速するだろうと答えた。一方、6月21日に行われた会議では、ポツダム会談でトルーマンが核兵器についてスターリン(Iosif Stalin)に発言するレベルが論点として提示された。委員会は、大統領がソ連の最高指導者に核兵器の存在は伝えるべきだが、もしソ連側が核兵器に関する詳細な情報を尋ねてきた場合は、答えてはならないと合意した。ソ連と協力関係を維持しつつも、核兵器開発競争でソ連に対して優位に立ちたいという米当局の思惑を確認できる。
このように、臨時委員会は日本に対する核攻撃を明記すると同時に、ソ連を疑いの目で見ていた。今後の戦争の展開において、ソ連の動向はアメリカが戦争を進める上で、日本と並んで重要に考慮されるべき要素であった。
Ⅲ. アメリカの対日観点
1. 選定された標的
本来、アメリカの原爆開発は、ドイツが原爆開発を試みているという諜報に対する懸念から始まった。第二次世界大戦に参戦し、ドイツを敵国としたアメリカとしては、世界最高水準の科学技術を誇るドイツの核開発を懸念せざるを得なかった。しかし、1943年になるとドイツの敗退が見え始めた。ドイツはソ連や北アフリカ戦線で後退し、連合軍はトラックを占領し、翌1944年にはノルマンディー上陸に成功して戦況は連合軍側に有利に進んだ。ドイツの敗北が目前に迫ると、アメリカは視線をヨーロッパから太平洋に向けた。ドイツに代わって日本に集中できる環境が整った。これにより、核兵器の標的はドイツではなく日本に変更された。
しかし、最初から標的が日本本土に向けられていたわけではない。基本的に日本に対する原爆の使用は変わらなかったが、戦争の経過に応じて標的の性格は変化した。1943年5月5日、グローヴスは自らの主宰で軍事政策委員会(Military Policy Commitee)を招集して会議を行った。この委員会には、臨時委員会の委員であったブッシュとコナント、海軍提督ウィリアム・パーネル(William R. Purnell)、そして陸軍ウィルヘルム・スタイアー(Wilhelm D. Styer)少将が参加した。会議参加者たちは、日本軍に対する核使用を念頭に置いていた。最初の核兵器は、南太平洋トラック港(Harbor of Truk)に位置する日本艦隊集結地に投下されるべきであるというのが共通の意見であった。当時アメリカは、ガダルカナル戦(1942.8.~1943.2.)で太平洋戦域で日本に反撃を加えていたが、だからといって日本を直接攻撃するには時期尚早であった。そこで、太平洋地域に展開していた日本海軍を標的として最初の原爆を使用するのが適切だと判断された(National Security Archive 2020)。1)
1945年、アメリカは太平洋地域をほぼ掌握し、日本との戦争でも勝利を収めつつあった。これにより、日本に対する核攻撃が本格的に議論された。5月9日の最初の臨時委員会会議で、スチムソンは委員会構成員と共に、グローヴスが4月23日に陸軍省に提出した報告書を読み、議論した。グローヴスの報告書は核兵器に関する全般的な内容を含んでおり、スチムソンを通じて就任したばかりのトルーマン大統領に伝えられたが、この中でグローヴスは標的が常に日本であったことを言及した。加えて、報告書ではドイツとは異なり、日本は核兵器を開発する能力はないと見られていた。それゆえ、核兵器を迅速に開発して日本に投下することができれば、アメリカは日本との戦争で確実な優位を占めることができるだけでなく、戦争を早期に終結させることもできた(Nuclear Files 2023)。
次に重要なのは、正確な投下地点を選定することだった。アメリカは標的選定のための作業を標的委員会(Target Committee)に委ねた。1945年4月27日に最初の会議を開始した標的委員会は、グローヴスが主導して進められ、各軍の将官や科学界関係者が計三度にわたり標的に関する議論を続けた。標的の選定は、二回目の会議である5月12日の会合で行われた。直径3マイル以上の重要な都市であり、一回の攻撃で確実に破壊でき、8月以前に攻撃されていない地域という三つの選定基準を満たした都市は、京都、広島、横浜、そして小倉であった。ここで京都と広島は最も重要な「AA」標的、横浜と小倉はそれに次ぐ「A」標的と分類された(National Security Archive 2020)。
なった。日本への攻撃がより喫緊であったためかもしれないが、ショーン
(Sean Malloy)は、もしアメリカが原爆をドイツに投下した場合、技術力の
高いドイツが核関連技術を得ることになると恐れたためだと見ている。三个選定基準を満たした都市は京都、広島、横浜、そして小倉であった。ここで京都と広島は最も重要な「AA」標的、横浜と小倉はそれに次ぐ「A」標的と分類された(National Security Archive 2020)。
標的委員会は、核兵器の使用における心理的効果を重視した。委員たちは、選定された四つの標的に加え、日本天皇が居住する皇居までを標的候補として検討したが、これは核兵器を使用する際に心理的効果を最大化するためであった(National Security Archive 2020)。アメリカは、ただ一度の原爆攻撃で日本の戦争意欲をくじくことを望んだ。このような心理的衝撃への言及は、前述のように臨時委員会にもそのまま反映された。
2. 人道的扱い
しかし、核兵器の使用によってアメリカが日本を再起不能な状態にまで追い込もうとしたわけではない。戦争を早期に終結させることと、日本を破壊することは、アメリカにとって別の問題であった。アメリカは戦後、日本が健全な国家として残ることを望んでいた。一例として、陸軍作戦課(Operations Department)で戦略と政策を担当していたジョージ・リンカーン(George A. Lincoln)は、当時の陸軍次官補ジョン・ハル(John E. Hull)に提出した報告書で、日本が極東において「重みのある国家(a nation of some weight)」として残るべきであるという意見を伝えた。ジョン・マクロイ(John J. McCloy)陸軍次官補も自身の報告書で、日本に対する完全な破壊が行われるべきではないと述べた(National Security Archive 2020)。
日本を破壊すべきではないというアメリカの意向は、日本の降伏を議論する過程でも明らかになった。アメリカが日本に無条件降伏を要求したのは事実だが、日本の降伏が列島全体の無力化に繋がることは望んでいなかった。1945年6月28日、臨時委員会の委員であったハリソンは、バード次官補に、日本に核を投下する前に事前警告が必要であるという意見を伝えた。これは5月31日の臨時委員会で決議された内容とは全く反対の立場であったが、彼がこのような主張を展開した理由は、「偉大な人道的国家(a great humanitarian nation)」としての自分たちアメリカを顕示しようとしたからであった (National Security Archive 2020)。臨時委員会の決定を覆すことまでしてハリソンが事前警告の必要性を言及し、アメリカの道徳性を顕示しようとしたことには、こうした措置が取られなければならなかった特別な理由があったのではないかと疑問を抱かせる。
日本に対するアメリカの人道的配慮は、天皇制に関する議論においても示されている。ハリソンの報告書が伝えられてから一日後の6月29日、マクロイ次官補はスティムソン長官に宛てた報告書の中で、アメリカが日本に降伏を要求する布告を発表する際に、天皇制の維持を含めるべきだと主張した。彼はこの部分が最も議論を呼ぶであろうことを理解していたが、天皇制が維持されなければ日本は降伏を受け入れないだろうと述べた。スティムソンはこのマクロイの主張を受け入れた。ポツダム会談中であった7月24日、スティムソンが残した日記を見ると、彼はマクロイが述べた内容、すなわち日本に対する事前警告文に天皇制の維持を含めることをトルーマン大統領にそのまま伝えている (National Security Archive 2020)。たとえスティムソンの要求がポツダム宣言文に反映されなかったとしても、戦後アメリカが天皇制を廃止するよう勧告しなかったことから、日本の国魂(こっこん)を破壊しようとする試みは行われなかったと見ることができる。
7月26日に発表されたポツダム宣言でも、アメリカは日本に対する人道的配慮を失わなかった。日本に対する「最後通告」として公布されたこの宣言文には、戦争責任者への断罪、領土制限、軍隊の武装解除など、敗戦国として甘受しなければならない内容も盛り込まれているが、アメリカを中心とする連合国側に日本を完全に破壊する目的があったとは考えにくい。連合国は宣言文で、日本を奴隷化された民族に転落させることも、日本という国家を破壊する意図もないという文言を明記し、再軍備を目的としない限り、日本が自国の経済を支える産業を維持できることを言及した。これは第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約を通じてドイツに強制された条件とは極めて対照的である。
長崎に原爆が投下される一日前の8月8日、スチムソンはトルーマンとの対話で、ドイツと日本を比較しながら、日本に対する処罰は慎重に行われるべきだという意見を漏らした(National Security Archive 2020)。このように、アメリカが日本をドイツのように過酷に扱わず、(たとえ限定的ではあるが)正常な国家として残そうとした理由は何か。一つは、先述したように第一次世界大戦の戦後処理過程で教訓を得たことかもしれない。ドイツを完全に無力化しようとしたフランスの意図は、ドイツが耐え難いほどの条件を受け入れさせ、それに対する反作用としてナチスが出現したからである。降伏の受容ライン(redline)を緩和することで、アメリカは日本が降伏の席に早くつくように誘導した可能性がある。
もう一つは、当時のドイツ占領過程で発生した惨状を考慮したことかもしれない。連合国がドイツを占領していく過程で、民間人への被害が報告された。特にソ連は、アメリカと比較してドイツとその住民をより過酷に扱った。ソ連軍は東部ドイツで民間人に対する略奪、処刑、性暴力を犯し、これは首都ベルリンでも同様であった。不可侵条約を一方的に破棄したドイツがソ連と戦争を繰り広げ、数千万人の死傷者が出たため、ソ連の復讐心が噴出することはあっただろうが、ソ連の攻勢的な東進はアメリカにとって大きな負担であった。それでは、アメリカは日本との戦争においてソ連をどう考えていたのだろうか。ソ連に対するアメリカの観点を検討する必要がある理由である。
Ⅳ. アメリカの対ソ連観点
1. 参戦
日本は真珠湾攻撃以前の1941年4月、ソ連と中立条約を結んだ。これにより、ソ連はアメリカと同じ連合国に属しながらも、アメリカの敵国である日本を攻撃することはなかった。アメリカとしては、ソ連が戦争に参加すれば、日本との対決で優位に立つことができた。ソ連の参戦問題は、1945年2月にヤルタで行われた会談を通じて確定し、ソ連はヨーロッパでの戦争が終結した日から3ヶ月以内に対日戦に参戦することを約束した。
トルーマン政権下でも、ソ連の参戦が日本との戦争において大きな変数となるという意見が継続して提起された。1945年6月18日、トルーマンとスチムソン長官、マクロイ次官補、陸海軍の提督ら戦争関連政策決定者が一堂に会した席で、今後の日本との戦争をどのように戦うべきか議論が交わされた。九州上陸作戦の見通しと妥当性に関する意見交換の場では、参加者たちは上陸戦におけるソ連の役割に注目した。彼らは、沖縄戦の後すでに希望を失っていた日本にとって、ソ連の参戦は日本の降伏を受け入れる上で「決定的な行為(decisive action)」となり得ると考えた。トルーマンもこの見解に同意し、来るポツダム会談でソ連から可能な限り最大の支援を引き出すことが目的であることを明らかにした(National Security Archive 2020)。
6月29日、大統領に提出された報告書でも、日本の降伏時期とソ連の参戦が関連しているという見解が示された。同報告書では、日本に降伏要求を伝える際に考慮すべき五つの要素の一つとしてソ連の参戦が挙げられており、具体的な時期をソ連の参戦直後と明記した。(不確かではあるがリンカーンと推定される)報告書の作成者は、たとえ日本が戦争初期にソ連の攻勢を一時的に食い止めることはできたとしても、ソ連の攻撃によって次第に後退させられれば、アメリカの降伏要求を肯定的に検討するだろうと付け加えた(National Security Archive 2020)。さらに報告書では、アメリカの「爆撃作戦(bombardment operations)」直前の時期とソ連の参戦が重なれば良いという内容も含まれていたが、その文言の横の空欄に手書きで「S1」という文字が記されていた。「S1」は当時開発中であった原爆を指す用語であった。したがって、アメリカはソ連という国際政治的要素と、原爆という技術的要素を同時に用いて日本を制圧しようとしたのである。
このように、アメリカはソ連の参戦が戦争の行方を左右する重要な要素だと見ていた。原爆と共にソ連の参戦をうまく利用できれば、日本との戦争を短時間で終結させることができると考えたのである。もちろん、これはソ連がアメリカの期待通りに動いて初めて可能なシナリオであったが。アメリカはソ連を完全に信頼できる味方とは考えていなかったため、ソ連発のリスクを考慮せざるを得なかった。2. 満州
アメリカがソ連に関して最も懸念していた点は満州問題であった。ヤルタ会談でルーズベルトは、ソ連が対日戦に参戦する代償として、旅順港(Port Arthur)利用や満州鉄道支配権など、満州に対するソ連の権益の一部を認めた。しかし当時、満州には日本が樹立した傀儡政権である満州国が存在していた。もしソ連が大日戦参戦を宣言すれば、自国と国境を接する日本の領域である満州国に進軍することができた。これはアメリカのもう一つの友好国である蒋介石の中国に、ソ連の影響力がより強く作用することを意味した。これに対し、アメリカの政策決定者たちは満州に対するソ連の動向を警戒していた。
1945年6月4日、ハル陸軍次官補に提出された報告書で、リンカーンはスチムソンが次のような意見を表明したと記している。
もし我々が極東において宣言された戦争目的を達成
するならば、我々は日本を完全に破壊することになる。そしてその
ようにすることで、我々は極東に存在する、ロシアを効果的に
ロシアを牽制する手段を奪い、結局ロシアが
その地域を支配するように仕向ける(National Security Archive
2020)。
先に、アメリカの政策決定者が日本に対してやや人道的な態度を示していたことを思い出せば、日本に対する融和的な態度とソ連に対する警戒が結びつくのは意味深長である。スティムソンの考えについて、リンカンは次のように意見を付け加えた。我々はロシアを、国家が経済体制を独占する国家であり、
疑いなくヨーロッパで最も支配的な国家になるように
してしまった。…我々はロシアが併合とまではいかなくとも、満州と
中国の広大な地域を、政治的、そして経済的に容易に
占有するようにしてしまった(National Security Archive 2020)。
アメリカは、戦争が終わったヨーロッパで既に支配的な勢力となったソ連が、極東においても自国の影響力を広げることを否定的に見ていた。そのため、報告書の末尾では、日本の降伏に関する条件を設定する際に、満州に対する権益を提供するというヤルタ会談での約束に加え、「ソ連の欲求(Russian desires)」を考慮すべきだとされた。ソ連が満州に対してどのように考えているかを把握することが肝要だったからである。
トルーマンのアメリカは、ソ連が満州に対する権益を得ることさえも否定的に見ていた。6月6日、スティムソンは、大統領との談話を含む報告書を残した。報告書によれば、トルーマンは既にバーンズを通じて、原爆に関する核心的な意思決定が行われた5月31日の臨時委員会の会議内容を伝達されていた。トルーマンは、旅順と大連を除く満州を中国の所有と認めるというスターリンの約束を取り付けたと述べたが、スティムソンは約束通りソ連が満州で鉄道統制権の半分を持つことになれば、ここでのソ連の優位は続くだろうと主張した(National Security Archive 2020)。5月31日の臨時委員会の会議でソ連を重視して議論していた点を考慮すると、スティムソンはソ連との協力の可能性を懐疑的に見ていた。
満州に対するソ連の権益獲得は、軍部でも主要な議論対象であった。6月14日、マーシャル参謀総長は陸軍省に提出した報告書で、アメリカが満州を占有しない限り、満州を中国に返還することはソ連の同意を得なければ不可能であることを明記した。彼は満州でソ連が政治的、経済的、そして軍事的な利益を追求していることを述べ、アメリカによる満州占領のための「軍事作戦(military operations)」に言及した(National Security Archive 2020)。満州に対するアメリカの軍事力投下がまだ不要であると答えたものの、マーシャルの報告は、アメリカが満州で万が一発生しうるソ連との対決までをも考慮していたことを示している。
このように、アメリカはソ連が満州で自国の勢力拡大を狙っていることを不信の目で見ていた。もしソ連がそのような意図を持って対日戦に参戦するならば、アメリカとしては大きな負担を感じざるを得なかった。アメリカは、ソ連がヤルタ会談で合意した水準を超えないか、ソ連の動向を継続的に確認しなければならなかった。そして、ソ連が越線を越えないように適切な措置を講じる必要があった。
3. 開国政策
ソ連の満州進出を阻止するため、アメリカは「開国政策(Open Door Policy)」というカードを提示した。開国政策は、1899年と1900年にアメリカ国務長官であったジョン・ヘイ(John Hay)が二度にわたって発表した対中国政策であり、第二次世界大戦までアメリカが中国に対してとる上での根幹となる政策であった。アメリカは1898年、スペインとの戦争に勝利してフィリピンを獲得し、中国への影響力を拡大しようとした。しかし、中国はすでに19世紀半ばのアヘン戦争以降、列強の角逐場へと変貌しつつあり、こうした傾向は日清戦争で清が敗北した後、加速化された。
これに対し、1899年9月、ヘイはイギリス、フランス、ロシア、ドイツ、そして日本に「開国通牒(Open Door Note)」を送り、中国で活動する商人が国籍を問わず、最恵国待遇に従って自由かつ平等な貿易機会を保障されるよう要求した。翌1900年、清朝を助けて西洋勢力を滅ぼそうという「扶清滅洋」義和団運動が発生し、各国が事態鎮圧のために軍隊を派遣すると、ヘイは鎮圧軍を派遣した国々に二通目の書簡を送り、中国の領土的、行政的権限を保全すべきだと主張した。このようなアメリカの開国政策は、1922年のワシントン会議に参加した国々が九カ国条約(Nine Power Treaty)を締結することで再確認された。
開国政策は、中国に対する利権を狙うアメリカが、特定の国家が中国で独占的に勢力を拡大しないように防止するために提示した政策であった。もしある国家がアメリカの意図に反する行動をとれば、それはアメリカが定めた許容線(レッドライン)を超えるものであった。開国通牒の受信国であり、九カ国条約の当事者であった日本は、すでに1931年に満州を侵攻し、1937年には中国本土への侵略を開始しており、1941年にはアメリカに正面から対峙した。日本によって自国の対中政策が歪められたアメリカは、これ以上の挑戦者を容認することはできなかった。ゆえに、日本に続き満州を狙うソ連の態度は、アメリカが見過ごせるものではなかった。
ポツダム会談が始まる一日前であった1945年7月16日、スティムソンは自身が大統領に報告した内容を、バーンズ国務長官と共有した。大統領に報告された内容は、日本との戦争をどのように遂行するかに関する部分であった。会談の当事国であったソ連に関して、スティムソンはまず、日本がソ連と単独で講和交渉に臨むことに備え、日本に対する最後通牒が迅速に行われなければならないことを言及した(National Security Archive 2020)。アメリカは日本の暗号文をすべて解読しており、日本がソ連に接近したという事実をすでに把握していた。
報告書でスティムソンは、ソ連と2月に結んだヤルタ協定、そしてポツダムでソ連と合意する事項が、「我々の伝統的な対中政策(our traditional policy toward China)」と合致する限り問題はないだろうとした。彼がここで言う伝統的な対中政策とは、「開国政策と満州に対する中国の主権承認(the Open Door Policy and the recognition of Chinese sovereignty over Manchuria)」であった(National Security Archive 2020)。この部分からわかるように、アメリカがソ連に要求したことは簡明であった。すなわち、ソ連が満州を自国の主権が及ぶ地域のように扱ってはならないということである。ソ連の意図を半信半疑していたアメリカであったため、ポツダムでアメリカがソ連に提示できる条件は、ヤルタよりも広いものではなかった。したがって、スティムソンの言葉は、アメリカが許容できる最大限の限界がヤルタ協定で合意した事項であり、ソ連がこれを遵守しない場合、アメリカは特段の決定を下しうることを意味した。
会談に入る前、アメリカは満州に関してソ連に提示する内容を再確認した。スティムソンは、ヤルタ協定に従い、ソ連が旅順を限定された期間、軍事基地として使用することは許容できるが、「ロシアがダリエンあるいは満州の他の商業港を通じて貿易を統制したり制限したりすることを許容するいかなる特権も与えられてはならない」と強調した(National Security Archive 2020)。この部分は報告書の本文で唯一下線が引かれている箇所であり、これは満州に対するソ連の利権侵害をアメリカが極度に警戒していることを示している。
このように、アメリカはソ連が越えてはならない確固たる許容線を設定した。もしソ連がアメリカが提示した許容線を越えれば、アメリカはソ連の南進を阻止するために行動することもできた。あとは、ソ連がポツダムでどのような姿勢を示すかが鍵であった。
Ⅴ. ポツダムから長崎まで
1945年7月17日から8月2日まで行われたポツダム会談は、第二次世界大戦中に連合国首脳が公式に会した最後の場であった。会談では、すでに敗北したドイツと戦後ヨーロッパの再編問題をどのように処理するかが議論され、日本との戦争を終結させるための共同宣言(ポツダム宣言)が発表された。アメリカはソ連との会談を通じて、日本との戦争を円滑に終結させたいと願っていたが、すでに抱いていたソ連に対する否定的な認識を容易に払拭することは難しかった。狭まらない米ソ両国の距離は、その後アメリカが日本との戦争を終結させる過程で使用した原爆と関連があった。そして、長崎への原爆投下への糸口もここに見出すことができる。1. ソ連との決別
アメリカ、ソ連、そしてイギリスが参加した会談で発表されたポツダム宣言は7月26日に出された。しかし、宣言文にはアメリカとイギリス、そして中華民国の名前が入っていた。ソ連が宣言から外れたのである。ソ連の視点から考えると、すでに日本と中立条約を結んでいたため、日本に対する宣戦布告が困難であったかもしれない。しかし、ヤルタ会談でソ連は、ヨーロッパでの戦争が終わってから3ヶ月以内に対日戦に参戦すると約束していた。したがって、ドイツの降伏宣言日から3ヶ月まであと2週間という時点で、ソ連が日本に対する戦争宣言をしなかったことは、アメリカの立場からするとソ連の真意に対する疑問を持つことができた。実際に、会談を通じてアメリカとソ連が同床異夢であることが明らかになった。会談中、トルーマンとその側近たちは、ソ連との意見が狭まらないことを何度も言及し、米ソ両国は別々の道を歩むことになった。
スティムソンはトルーマンと共にポツダムへ渡り、トルーマンの傍らで補佐した人物であった。彼が会談中に残した日記には、ソ連との対談で出た話や、それに対するアメリカの政策決定者たちの考えがよく表れている。会談以前からソ連に対する否定的な見解を表明していた彼は、会談中も一貫してソ連への不信感を表した。
会談初日であった7月17日の朝、スティムソンは彼と同様に大統領に随行していたバーンズに、開国政策の重要性を言及した。彼は、開国政策がスターリンが満州での商業的権利を狙うことを阻止する良い名分になると考え、ソ連にそのような独占的権利を許容してはならないと助言した。スティムソンの考えは、大統領にも伝えられ、同日夕方、トルーマンは当日スターリンとの会議で、彼に開国政策に対する立場を「完全に釘を刺した(clinch)」とスティムソンに伝えた(National Security Archive 2020)。
しかし、スターリンはトルーマンの厳命にもかかわらず、自らの要求を曲げなかった。バーンズの特別補佐官であったウォルター・ブラウン(Walter Brown)が残した日記によると、ソ連はダリエンと満州鉄道に対する統制権を持つことを望んでおり、これをバーンズは懸念した(National Security Archive 2020)。特にダリエン問題は、アメリカとしては頭の痛い問題であった。ソ連はダリエンを共同で管理せず、独自に使用する意図を示唆しており、これはスティムソンが主張したアメリカの許容線と衝突する可能性があった。
これに対しスティムソンは19日、アメリカとソ連の政治指導者が協力について考えていることが異なっており、協力は困難だろうと日記に記した。そして彼は、アメリカとソ連を対比させ、ソ連の政治体制を非難すると同時に、核兵器に関する話を持ち出す。我々のように表現の自由と、その他のあらゆる自由の上に
成り立つ国家が、表現が厳しく制限され、政府が抑圧的な
秘密警察を使用する国家と永遠にうまくやっていけない
点がますます明白になっている。この問題は現在非常に重要
であり、S-1の開発がこれに焦点を合わせている。私はワシン
トンでこのテーマについて集まり、このテーマについてロシアと
関連して開かれたコミュニケーションを開始した我々の委員会が、真空状
態で考えられていたのだと感じ始めている(National
Security Archive 2020)。
ここで言及された「委員会」で核兵器とソ連に関する議論があったことを考慮すると、スティムソンが言った委員会は臨時委員会を指していると思われる。前述したように5月31日の会議で臨時委員会の委員たちはソ連について様々な意見を交わしており、その会議ではソ連に対する異なる立場が出された。アメリカは、この時点まではソ連がどのような意図を持っていたかを予断していなかった。しかし、ポツダム会談でソ連と直接対面した後、スティムソンは自分たちの議論が「真空状態」のようであったと述べた。これは、ソ連との立場に予想以上の差があり、アメリカがソ連をより否定的に見るようになったことを意味した。
このような状況で、アメリカは果たしてソ連と協力することが、日本との戦争を終結させることに役立つのか疑問を抱き始めた。ブラウンの日記を見ると、7月20日、バーンズがソ連の「出し抜かなければ(outmaneuver)」ならないと決心したという記述がある。彼はソ連の対日宣戦布告が会談中に出ることを望んだが、ソ連とアメリカの意見の相違が縮まらないと、ソ連の参戦前に日本が降伏するだろうと宋子文中華民国行政院長に伝えた(National Security Archive 2020)。ソ連を圧倒できる手段で日本との戦争を終結させられるという自信がうかがえる発言であった。
では、バーンズはどのようにしてソ連の「出し抜き」が可能だと判断したのか?答えは原爆であった。7月18日、バーンズは原爆の使用が2週間後に可能だと言及した。二日前、16日にトリニティ実験が成功裏に行われていたため、彼の言葉は事実であり、この成功の知らせは21日トルーマンにも伝えられた。これでアメリカは、ソ連を排除して日本との戦争を単独で終結させられる確実な手段を持つことになった。
軍部でもソ連との協力を否定的に見る見方が台頭した。スティムソンによると、23日マーシャル参謀総長がポツダムに到着した。同日午前、トルーマンは対日戦遂行においてソ連の助けが必要か意見を求めようとし、スティムソンはマーシャルと面会しこの問題を議論した。当初アメリカは、ソ連が日本に宣戦布告した場合、満州で日本軍を「妨害してくれる(holding up)」ことを期待していた。しかし、満州に対するソ連の野心が固いと見ていたため、アメリカはソ連との軍事協力は困難だと判断した。マーシャルはスティムソンに次のように語った。
たとえ我々がロシアなしで戦争を有利に進め、日本が我
々の条件で降伏するように強制できたとしても、それはロ
シアがどのようにであれ満州に進撃し、満州を攻撃する
ことを阻止するものではありません。それは結局、彼らが
降伏条件で望んでいたことを事実上許容することになりま
す(National Security Archive 2020)。
マーシャルの意見は翌24日、スティムソンを通じてトルーマンに伝えられた。彼の報告を代わりに聞いたトルーマンは、核爆弾を投下する標的の一つを削除しようとするスティムソンの意見に同意した。
このように、スティムソンが先に見たように、日本に対する人道的態度を示したのは、ソ連への不信から始まった。たとえ日本との戦争を早く終結させねばならないことは明らかであったが、極東におけるソ連との協力を論じることが不可能になったため、日本に加えられる被害を最小限にすべきだと主張した。スティムソンはトルーマンに、標的削除の根拠を次のように説明した。
もしこれが実行されなければ、このような無慈悲な行為
によって引き起こされる悲嘆は、長い戦後時代に日本が
むしろロシアと和解するとしても、我々が日本と和解する
ことを不可能にするからです。したがって、私が指摘した
ように、これは我々の政策が要求すること、すなわちロシアが
満州に侵攻することに備えて日本をアメリカに好意的に
向かせることを妨げる道となるでしょう(National
Security Archive 2020)。
スティムソンは、もしアメリカが戦争を早期に終結させるために日本に原爆を大量投下するならば、戦後日本がアメリカよりもソ連と接近し、極東におけるアメリカの影響力が低下することを懸念していた。そして、日本とソ連の友好関係は、ソ連が南下できる扉を開けることになりかねなかった。したがって、アメリカは日本との戦争を終結させつつ、ソ連の勢力圏を最大限排除できる方法を探す必要があった。
結局、7月25日、参謀たちから原爆に関する意見を継続的に集めていたトルーマンは、最初の爆弾の使用を最終的に承認した。陸軍省を通じて上がってきた計画によれば、最初の攻撃は8月1日から10日の間に行われ、最初の爆撃の後、順次他の地域にも原爆が使用される予定であった。戦争を終結させるために使用せざるを得なかった兵器であったが、トルーマンの心は安らかではなかった。彼は自身のの日記に、決定を下した日の心情をこのように吐露した。
我々は世界歴史上最も恐ろしい爆弾(原子爆弾)を発見
した。これはノアとその方舟以来あったユーフラテス
川流域の時代に予言された炎の破壊であるのかもしれない。…私は
戦争省長官スティムソンに対し、軍事的目標と兵士、そして
海軍のみを標的とすべきであり、女性や子供は標的とすべきではない
と述べた。たとえ日本人が野蛮で、容赦なく、無慈悲で
狂暴であったとしても、我々、世界の指導者は、この恐ろしい爆弾をかつての首都(京都)や
新しい首都(東京)に投下すべきではない(National
Security Archive 2020)。
日本に対するトルーマンの配慮には、原爆が人類共同体を破滅に導く可能性への恐れが含まれていた。もし日本が降伏を宣言しなければ、米国はもう一発の核兵器を投下しなければならないかもしれない。そうなれば日本という国が完全に破壊される可能性があり、もし日本が米国に恨みを抱いてソ連との講和交渉に臨めば、米国の立場は道徳と権力双方を失う最悪の決定となるからであった。トルーマンはそうした瞬間が来ることを望まなかった。
トルーマンが日本に対して抱いた同情心には、原爆が人類共同体を破滅に導きかねないという恐れが込められていた。もし日本が降伏を宣言しなければ、アメリカはもう一発の核兵器を投下しなければならなくなる可能性があった。そうなれば日本という国が完全に破壊されるかもしれないが、もし日本がアメリカに恨みを抱いてソ連との講和交渉に臨むならば、アメリカの選択は道徳と権力すべてを失う最悪の決定となるからであった。トルーマンはそうした瞬間が来ることを望まなかった。
26日、ポツダム宣言はソ連を除外して発表された。会談でソ連が見せた態度や要求は米国にとって受け入れがたいものであったため、米国はポツダム会談でソ連との決別を選択せざるを得なかった。日本との戦争においてソ連との協力が困難だと見た米国は、原爆によって戦争を終結させることで、米兵のさらなる犠牲を防ぎ、ソ連の「下心」を阻止しようとした。何よりも、日本の降伏がソ連の宣戦布告よりも先に行われなければならなかった。もし日本が降伏せずにソ連が戦争に参加すれば、満州がソ連に渡ることは明白であったからだ。すなわち、米国にとって日本との戦争終結問題は、ソ連の満州進出問題と絡み合っていたのである。
2. ソ連の参戦と長崎
1945年8月6日、米国は「リトルボーイ」を広島に投下した。トルーマンはラジオを通じた国民への声明で、日本の戦争意欲をくじくために原爆を投下したのであり、もし日本がポツダム宣言に従って降伏しなければ、空から「破滅の雨(a rain of ruin)」が降らせられるだろうと警告した(Atomic Herritage Foundation 2022)。それほど米国は原爆投下が日本の降伏につながることを願っていた。しかし、米国の期待とは裏腹に、日本は依然として降伏しなかった。日本軍部は原爆の被害状況を詳細に調査する必要があるとして、降伏宣言を遅らせた。このままでは、米国は警告した通り、追加の核攻撃を敢行しなければならなかった。もはや鍵となるのは、二発目の原爆を投下する日をいつにするかであった。
ところが、モスクワ時間8月8日17時、ソ連が日本に対する宣戦布告を行った。米国にとっては当惑すべき事態であった。なぜなら、ソ連が予想していた参戦時期よりも早く戦争に介入してきたからだ。ポツダム会談でスターリンは、ソ連軍を8月15日より前に動かすのは難しいとトルーマンに伝えていた。そのため、ソ連の参戦は8月15日かそれ以降になると見られていた。こうした状況で、ソ連は一週間も早く対日戦に乗り込んできたのである。ソ連の早期参戦は、ソ連があらかじめ全ての準備を整え、適切な参戦時期を待っていたことを示している。駐ソ米国大使であったウィリアム・ハリーマン(William A. Harriman)を補佐していたロバート・メイクリジョン(Robert P. Meiklejohn)が残した日記によると、スターリンは5月28日にハリーマンに対し、ソ連は8月8日には軍を動かす準備ができるだろうと述べていた(National Security Archive 2020)。これはポツダムでスターリンが言及した日付よりも1週間早く、ソ連が宣戦布告したまさにその日であった。
スターリンがどのような理由でハリーマンとトルーマンに異なることを言ったのか、記録上は知ることができない。しかし、アメリカが広島に原爆を投下した事実を知ったソ連としては、これ以上良い機会を得ることは難しかった。アメリカによって本土に大きな打撃を受けた日本が、ソ連との戦争まで気にかける余裕がなかったからである。実際にスターリンは、それまで確定していなかった参戦日を、広島原爆投下の翌日である8月7日に確定した。そして参戦が布告されてから一日が経過した8月9日にソ連軍が動き始めたことを考慮すると、ソ連はすでに進撃のための万全の準備を整えていたことは明らかである。
米国は、日本が原爆を受けたにもかかわらず降伏せず、ソ連が日本と戦争に入ったという二重苦に陥った。日本本土への上陸作戦を展開すべきだという提言が軍首脳部から大統領に伝えられることもあり、外交界では米国の原爆投下がソ連の参戦を早めたという意見が支配的であった。したがって、米国は日本とソ連双方を考慮し、戦争を迅速に終結させる必要があった。戦争を締めくくらなければ、日本との戦闘でさらに多くの自国民が犠牲になり、ソ連の進撃を阻止する名分がなくなるからだ。これに加えて、米国は戦後、日本がソ連に接近することも阻止したかったため、様々な条件を考慮し、最善の策を探る必要があった。こうした米国の戦略的計算を満たすためには、迅速に、原爆投下によって日本人に大きな心理的衝撃を与えつつも、日本の存亡を揺るがさない場所に原爆を使用する必要があった。広島の次に選ばれた標的は小倉であった。重工業が発達し、日本西部、九州に位置し、米軍の爆撃を受けていなかった小倉を目指して8月9日、B-29爆撃機はプルトニウム爆弾を搭載して向かっていた。しかし、悪天候のため、原爆は小倉よりも南に位置する長崎に投下された。規模の面で小倉に比べて小さかったものの、長崎も九州における大都市であったため、日本が受けた衝撃は相当なものであった。
偶然の要素が加わったが、米国は長崎原爆によって所期の成果を収めた。日本が降伏の意思を表明したのである。日本時間8月10日午前2時30分、昭和天皇は、現在の日本の国力では連合国に勝利する見込みはないと判断し、これ以上の戦争はできないという意思を表明した。これは米国にも伝わり、同日、トルーマンが臨席した米国の閣議で、ポツダム宣言を受諾するという日本の書簡が読み上げられた。この席でトルーマンは、原爆をこれ以上使用しないという意思を表明した。爆弾によってすでに数十万人の命が失われた状況で、そのような兵器を使用することは「恐ろしい(horrible)」と述べた(National Security Archive 2020)。
しかし、米国は二兎を追うことはできなかった。日本との戦争を終結させることは成功裏に進んだが、ソ連の進撃を阻止することは不可能であった。モスクワ時間8月9日0時をもって、ソ連は満州へ三方向から進撃を開始した。トランスバイカル戦線(Transbaikal Front)からはソ連軍が外モンゴルを経由して西から、第一極東戦線(1st Far East Front)と第二極東戦線(2nd Far East Front)からはそれぞれ東と北から満州へ侵入した。米国はソ連がこれ以上進むことを望まなかった。10日の米国の閣議でトルーマンは、「ソ連が満州へあまり深く入り込みすぎないことが我々の利益となるはずだ」と述べた。スティムソンもソ連の進撃を懸念し、終戦が早く来ることを願っていた。なぜなら、ソ連がこの隙に乗じて満州へ可能な限り進出できるからであった。さらに彼は、ソ連の進撃が満州で終わらないのではないかと考え、自身の જો日記に以下のように記した。
満州をすでに侵攻し始めたロシアが、日本本土に
到達する前に、降伏をできるだけ早く受け入れることが
なすべきことである。私はロシアが本土を占領し統治する
実質的な権利を主張する前に、本土を我々の手に収める
ことが非常に重要だと考える(National Security Archive 2020)。
すでに満州各地へ進出していたソ連の計画がどこまで及ぶのか、米国は容易に判断できなかった。スティムソンの懸念のように、ソ連は望むならば日本本土さえも占領できるかのようであった。
米国は日本の降伏がソ連の進撃を止められると考えていたが、現実はそうではなかった。ソ連の満州攻勢は8月15日に日本が公式に降伏を宣言した後も続き、20日になってようやく終わった。長崎原爆で米国は半分の成功に終わった。原爆投下まで、米国の意図は日本の降伏とソ連の満州進攻抑制を一つに結びつけることであったが、実際には二つの出来事は相互に独立していた。マーシャルが言ったように、ソ連の満州進撃は米国の力で阻止できるものではなかった。
Ⅵ. 結び
政策決定者が残した記録を検討し、長崎原爆の糸口を追跡した。それを通じて導き出せる結論は、長崎原爆投下が紛れもなく国際政治的事件であったということだ。米国は二発目の原爆を使用する前に、日本とソ連双方を考慮して核兵器の使用を決定した。根本的な動機は戦争の迅速な終結であったが、両国に向けた米国の動機はそれぞれ異なっていた。日本に対しては、敵国との戦争において罪のない米兵の犠牲がこれ以上あってはならないという思いがあった。ソ連に対しては、極東への進出を阻止しようとした戦略的計算が隠されていた。どちらの要素が米国の意思決定にさらに大きな影響を与えたかは知る由もないが、二つの要素は互いに絡み合っていた。
米国にとって長崎原爆は、半分の成功であり、半分の失敗であった。日本に対する策は功を奏したが、ソ連に対する策はそうではなかった。ソ連は二発目の原爆から降伏宣言までの期間にも満州へ進撃を止めなかった。無意味な仮定かもしれないが、もし米国が(必ずしも原爆でなくとも)日本に対して追加の攻撃を敢行していたらどうなっていただろうか?日本の公式な降伏宣言をより早く引き出し、ソ連の進出を阻止できたのだろうか?そこまで楽観的には見えない。すでに日本が降伏の意思を探っていた状況で、再び日本を攻撃することは名分が十分でないばかりか、米国の政策決定者が懸念したように、日本との関係を破局に導く可能性があった。日本が米国ではなくソ連の側に立てば、米国は満州を守ろうとして日本まで失う可能性があった。また、繰り返し述べたように、米国の軍事的措置がソ連の進軍を阻止することはできなかっただろう。ソ連を阻止できるのは、ソ連自身以外にはなかった。
長崎原爆を境に、米国とソ連は戻れない川を渡った。世界舞台にそびえ立つ二つの角が衝突直前であった。トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は一世紀前、『アメリカのデモクラシー(De La Démocratie en Amérique)』の中で、これから起こることを次のように予見した。
今日、この世界には、異なる地点から出発しながらも同じ
目標に向かって進んでいるように見える二つの民族がいる。すなわち、
ロシア人とイギリス系アメリカ人である。...この二民族は
突然、先頭集団に加わり、世界がほぼ同時に
彼らの出現と偉大さを認識した。...この二国の出発点は
互いに異なり、進む道も異なる。しかし、この二国は
いつか世界の半分の運命をそれぞれの手に握るように
天から啓示を受けたかのようである(Tocqueville 2020, 707-708)。互いに異なる方向へ進んでいた二国は、ついに東アジアで、満州で、日本で出会った。国際政治の新しい時代が幕を開けていた。そしてその変化の瞬間に、長崎があった。
参考文献およびサイト
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https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/nuclear-vault/2020-08
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https://web.archive.org/web/20160324162934/http://www.nucle
arfiles.org/menu/key-issues/nuclear-weapons/history/pre-cold-
war/interim-committee/index.htm (検索日: 2024. 10. 05). Tocqueville, Alexis de. 2018. 《アメリカのデモクラシー》. イ・ヨンジェ訳. パジュ:
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Grand Alliance. New York: Random House Inc.
付録
国家はいかに記憶し、記録するか?
核に関するアメリカと日本の
認識の違いを中心に
(米国) アルバカーキ国立原子力科学歴史博物館
(日本) 長崎原爆資料館・長崎平和公園
コ・ハウン
東国大学校 北朝鮮学科 対外関係専攻 修士卒業
Ⅰ. サランバン23期を終えて
東アジア研究所(East Asia Institute, EAI)2024年秋学期サランバン23期は、2024年8月29日(木)の予備会合から始まり、2024年9月6日(金)から11月29日(金)までの13週間の授業と、2025年1月7日(火)から9日(木)までの2泊3日の日本研修旅行を終えて、幕を閉じました。
EAIサランバン23期の授業を振り返り、第1週から第13週にかけて、ハ・ヨソン教授が提示してくださるトピックの歴史的・時間的流れに沿って、西側のIRとIRT対非西側のIRとIRT、東アジアのIR、そして韓国のIRについて、冷戦・脱冷戦・新冷戦、歴史対科学、普遍性対特殊性などの多様な観点から学び、考察する有意義な時間でした。ハ教授の提案により、研修報告書とともに「北朝鮮の核」という関心研究分野に関連して、第一に、2024年7月に訪問した米国アルバカーキ国立原子力科学歴史博物館、第二に、2025年1月に訪問した日本長崎原爆資料館・長崎平和公園について比較する紀行文を作成したいと思います。
まず、アメリカのアルバカーキ国立原子力科学歴史博物館と日本の長崎原爆資料館および平和公園は、それぞれ核兵器とその使用に対する異なる観点に基づいて、核兵器の歴史とその被害を扱っている点で違いがあります。アメリカの博物館は核科学と技術的側面を強調する一方、日本の資料館は核兵器が人類に与えた被害を中心に展示しており、平和公園は平和と核兵器廃絶を祈願する象徴的な場所としての機能を果たしています。人類史の発展と関連して、核はどのような意味を持つのでしょうか?アメリカが見る核に対する認識と日本が見る核に対する認識は、各国の歴史的経験と政治的立場によって大きな違いを見せ、現在2025年の時点で両国の核政策と国際的役割についても示唆を与えます。したがって、アルバカーキ国立原子力科学歴史博物館と長崎原爆資料館および平和公園という二つの場所に注目する必要があります。
Ⅱ. アメリカ アルバカーキ国立原子力科学歴史博物館:発展
の歴史
米国ニューメキシコ州アルバカーキに位置する国立原子力科学歴史博物館(National Museum of Nuclear Science & History)は、核兵器開発に関連する歴史的重要性 を強調し、アメリカの核科学と原子力技術の発展に関する多様な展示と教育を提供しており、概ね明るい雰囲気を構成していました。特に、博物館は第二次世界大戦中、マンハッタン計画の中心地であり、アメリカが最初に核兵器を開発した場所であったロスアラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory)との密接な関連を持つ場所として、核に対するアメリカの認識を把握し、情報を習得するのに有用でした。
国立原子力科学歴史博物館は、主にアメリカの核兵器開発史および核実験の科学的・技術的側面、核科学の発展と原子力技術、原子力の平和的利用の可能性について扱っており、核兵器とその影響に対する教育的側面と核兵器の危険性とその警告も含まれていました。2024年7月の訪問時、多くのアメリカの学生が博物館に団体で訪れている様子を確認でき、内容の説明展示形式だけでなく、来館者が直接核に関連する体験ができるようになっていたのが興味深かったです。
これをより詳しく見ていくと、第一に、博物館は核科学の基礎から始まり、原子力発電と核兵器開発の歴史に至るまで多様な展示を提供しており、アメリカのマンハッタン計画による核兵器開発の歴史的文脈を中心に、核の科学的・技術的発展を理解するのに役立ちました。特に、多くの韓国人にとって馴染み深いオッペンハイマーに関連する内容もあったため、個人的にこの部分に興味を持って見学したように思います。
第二に、博物館はロスアラモス研究所との近接性を基盤に、マンハッタン計画と核兵器開発研究所で行われた核実験に関連する重要な資料と科学的発見を詳細に説明しているようでした。アメリカが初期に核兵器をどのように開発し発展させたのか、核科学者たちの努力と成果を視聴覚資料に基づいて説明してくれました。第三に、博物館は核の軍事的利用だけでなく、日常生活で平和的に利用できることを説明しており、核エネルギーが原子力発電所や医療用放射線など、科学および産業分野でどのように利用されているかを説明していました。これは、核が軍事的用途ではなく平和的用途で利用できることと、核兵器の脅威性を同時に説明し、核科学の両面性(複合性)について考えるきっかけとなりました。
第四に、博物館は核兵器の開発と使用における核の破壊的な力と、それによる国際的、政治的、道徳的な論争などの危険性についても説明していました。日本に対するアメリカの核兵器の使用、キューバ危機などに関する展示を通じて、核の影響と波及効果について国際関係の側面から扱った内容があり、現案について考えることができました。
博物館訪問で感じたことは、アメリカの核科学の発展、核兵器開発の歴史、核エネルギーの平和的利用などを中心とした核技術に関する展示を直接見た後、現地で映像視聴、クイズゲーム、その他の体験といった多様な経験を通して、アメリカが核というトピックにおいて「発展の歴史」という観点から核科学および技術を強調しているように見えたことです。
Ⅲ. 日本 長崎原爆資料館・平和公園:被害と苦痛
の歴史
日本長崎に位置する原爆資料館(Nagasaki Atomic Bomb Museum)と平和公園(Nagasaki Peace Park)は、1945年8月9日に日本長崎に投下された原子爆弾の被害を記憶し、核兵器の惨憺たる被害と平和の重要性を強調する場所として、厳粛な雰囲気で構成されており、アメリカの博物館とは対照的な印象が強くありました。
まず、長崎原爆資料館は、長崎に投下された原子爆弾の被害を中心とした場所で、核兵器被害に関する証言、原子爆弾投下が日本人に与えた影響と関連歴史的事実、核兵器使用による人的苦痛と被害、平和の重要性と核兵器使用への警告、原子爆弾投下の結果と日本での回復、そして日本国内の平和運動についての話などを幅広く扱っていました。特に、博物館は当時の原爆による写真や遺物、被害者の証言などを通じて詳細に説明しており、実際の詳細な話とともに核兵器の破壊的な影響を直接見て、悲惨さを感じました。ガラス瓶と人骨がくっついた展示物は衝撃的でした。
これをより詳しく見ていくと、第一に、資料館は長崎と広島への原爆投下が行われた第二次世界大戦の最後の段階に関連する歴史的状況を説明していました。第二に、資料館は原爆投下後の被害状況を詳細に展示し、爆発の瞬間とその影響による人的苦痛を強調しており、これに関連して死亡者や被害を受けた生存者などの多様で詳細なインタビュー、写真、証言が展示されていました。第三に、資料館は原爆投下が引き起こした道徳的、人道的論争と核兵器の使用に対する批判的な視点を示し、核兵器のない世界を目指すメッセージを伝えていました。
次に、長崎平和公園は、原子爆弾が投下された地点の近くに位置する公園で、日本の原爆被害記念と反核平和運動の中心地としての役割を果たす場所です。公園には、原爆の爆心地、平和の造形物や記念碑、平和の鐘などの建築物が配置されており、核兵器の被害と危険性について考える時間でした。
資料館と平和公園訪問で感じたことは、日本の原爆被害経験に基づき、核兵器使用の被害とその余波を記録し説明する展示物と、核兵器のない世界と平和を祈願する姿を見て、日本が核というトピックにおいて「被害と苦痛の歴史」という観点から、核兵器使用の悲劇的な結果として平和な世界を願っていることを感じ取れたことです。また、資料館は情報提供と教育を目的とし、平和公園は記念の空間としての目的があると考えられ、相互補完的な場所だと考えられました。
Ⅳ. 韓国人の観点から見たアメリカと日本の核に対する認識
分析
北朝鮮学を基盤に「北朝鮮の核」関連イシューを研究したい学生として、アメリカのアルバカーキ国立原子力科学歴史博物館と日本の長崎原爆資料館および平和公園という場所は、核に対するアメリカと日本の両国の異なる認識に基づいて情報を習得し、個人的に勉強する上で役立ちました。また、韓国人として原爆が投下された1945年を基準に、アメリカ、日本、韓国の状況がどれほど異なっていたか、過去の1945年ではなく2025年の現在、韓国、アメリカ、日本の関係がどのように変化したかについて考えることができ、国際関係や外交関係とは何かについても考察することができました。
2024年7月の夏休み中に訪問したアメリカと2025年1月の冬休み中に訪問した日本を通して、核に対する各国の認識がどのように異なるのかを直接この目で見て経験し、より鮮明に感じることができました。まず、アメリカのアルバカーキ国立原子力科学歴史博物館は、核科学と技術の発展、特に核兵器の開発と実験、その過程での科学的発見と原子力の平和的利用を含む技術的側面に重点を置きました。これに対し、博物館は科学的かつ技術的な側面に焦点を当て、原子力発電、核兵器開発の技術的プロセスを中心とした展示物が多かったです。一方、日本長崎原爆資料館は、核兵器使用の被害に焦点を当て、1945年長崎原爆の歴史的事実とそれがもたらした人的苦痛と被害を伝えることに重点を置きました。資料館は、原爆投下による日本の被害の悲惨さと、被害者の証言、写真、物品を中心とした展示物が多かったです。さらに、日本長崎平和公園は、原爆被害者を追悼することを核とし、日本国内で核兵器廃絶のための平和のメッセージを伝える場所としての役割に重点を置きました。平和公園は、記念彫刻、平和の象徴物などが中心となる場所で、直接的な展示物よりも記憶と追悼を中心とした空間だと感じられました。また、アメリカのアルバカーキ博物館は、アメリカの核開発史と科学的・技術的観点から始まるのに対し、日本長崎資料館と平和公園は、日本の核兵器被害とその影響による平和運動に焦点を当てている点で、明確な違いがあると言えます。
国家はいかに記憶し、記録するか?アメリカは核について「発展の歴史」を、日本は核について「被害と苦痛の歴史」を記憶しており、それらを博物館、資料館、平和公園として記録しています。このようなアメリカと日本の核に対する認識を基に、1945年日本植民地としての韓国は核についてどのような認識を持っていたのでしょうか?過去と現在の観点から韓国、アメリカ、日本の3国の状況を見ると、1945年の第二次世界大戦の終戦と核兵器の使用があった状況と、2025年の北朝鮮の核の脅威に対応して、日米韓同盟の強化を追求する状況が非常に異なって感じられます。過去の1945年、アメリカは核兵器を使用し日本に甚大な被害を与え、韓国は日本の植民地として大きな苦痛を経験しました。アメリカは日本の広島(8月6日)と長崎(8月9日)の二都市を原子爆弾で攻撃し、日本は原爆投下後、原爆被害者として苦痛と傷を経験し続けました。また、日本は日帝強占期、韓国に対し人権侵害、強制労働、徴用、慰安婦問題など、様々な形態の暴力と苦痛を与え搾取を行いました。韓国は日本の植民統治による被害、そしてその後の分断と戦争を経て、持続的な賠償と謝罪を求めています。
すなわち、日米韓3国は、それぞれの歴史的経験に基づき、異なる加害者(Perpetrator)と被害者(Victim)の役割を経験しており、これは現在に至る外交的緊張と国際関係において重要な要素です。過去・現在・未来の日米韓関係はどのように変化していくのでしょうか? <アメリカ アルバカーキ国立原子力科学歴史博物館>訪問現場写真
<日本 長崎原爆資料館・平和公園>訪問現場写真
<サランバン23期 日本九州研修旅行 集合写真>
参加者 : ハ・ヨソン、パク・ハンス、コ・ハウン、イ・ウォンジュ、イ・ヘリン、チョン・ミョンヒョン(6名)
< 次期生のための愛の部屋 第23期の視察準備のコツ > ● バン/バスチャーター関連のヒント
- 3日間の日程すべてをバンまたはバスをチャーターして移動する場合、研修費
費用がかなりかかる可能性があります。この場合、2日目と3日目のみ車両
をチャーターして移動するのが経済的かもしれません。(調査前に構成
員と費用計算をしてみてください。)
- バンチャーター業者のサイトは以下の通りです。
https://www.land180.com/korean_japan_bus/%eb%8c%80%ed%98 %95%eb%b0%b4/.
● 長崎行きバス予約に関するヒント
- バン/バスチャーターにかかる費用を節減するため、福岡国際空港
から長崎への交通手段は高速バスを利用しました。調査人員
が少ない場合、初日の日程は長崎まで高速バスで移動した後、市
内でタクシーまたは路面電車を利用するのが経済的です。
- 高速バスは以下のサイトを通じて予約できます。
https://www.highwaybus.com/gp/index.ただし、言語を日本語以外に設定すると、何らかの理由かは不明ですが、バス路線
が表示されません。Google翻訳の助けを借りて日本語で表示
される画面で予約を進めることをお勧めします。
画面で予約を進めることを推奨します。
- 調査前には12時2分発のバスを予約して移動することにして
いました。しかし、福岡空港での入国手続きが迅速に進んだため、
現地で11時7分発のバスに त्यांनी券を交換しました。予約する
際は12時2分発のバスを選択し、空港到着後に時間が余裕があれば、 त्यांनी券を交換して長崎へ早く移動するのも方法です。
います。
● その他の調査関連ヒント
- 九州陶磁文化館のトイレが美しいので、ぜひ行ってみることをお勧
めします。
- 九州国立博物館で大学生割引を受けるには学生証が必要です。
調査時に学生証を持参してください。
- 1月の九州は天候が変わりやすいので、傘を持っていくことを
お勧めします。
- 日本の場合、1月1日から短くて3日、長くて7日まで新年の連休
で名所や飲食店が休業することもあります。日程確定時にこの点
を考慮していただけると幸いです。
- 皆で写真をたくさん撮ると、良い思い出になると思います。
*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。