露日関係不和の始まり 大津事件(おおつじけん) チョン・ハミン
21世紀のサラバン、激動の東アジアを準備する : サラバンの若者たち、九州を抱く
グローバーガーデン · サンクトペテルブルク国立大学
はじめに
数千年続いた東アジア内の天下秩序としての国際秩序は、16世紀近代に入り、西洋という新たな文明基準に触れることで徐々にその重みを失っていく。17世紀、鎖国政策をとっていた日本は、オランダ商人との独占貿易を通じて西洋との交流を開始した。その最初の受け入れ地であった長崎港は、西欧列強の新たな舞台へと発展した。1850年代の開港期と1860年代の開化期を経て、新たな東アジアの新人として位置づけられた近代日本は、その影響力を広げようとした。したがって、当時の日本としては魅力的な西欧列強のモチーフモデルが必要であったはずであり、西洋の様々な候補モデルは、自らの魅力をアジアに発散させることに余念がなかった。2. 露日関係不和の始まり 大津事件(おおつじけん) 19世紀の国際舞台では、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどが国際秩序を巡って角逐しており、その余波は次第にアジアへと向かっていた。当時、西欧の多くの国々の中で、イギリスとロシアは世界秩序の観点から大西洋と太平洋、ヨーロッパとアジアの戦線の各地で激しい勢力争いを繰り広げた。「グレート・ゲーム」(great game)のイギリスとロシアは、日本との駆け引きを通じて、日本をしてアジアの協力者として二者択一の三角関係を自然に形成させた。
東アジア国際秩序において新たな秩序へと激変していた当時の近代状況の中で、日本は混乱の「近代舞台」の中でパートナーの重要性を痛感していた。これに対し、ヨーロッパ大陸に新しく登場した二大強国であるイギリスとロシアは、絶え間ない求愛を通じて日本という新たな東の舞台を渇望した。当時の日本の国内状況もまた、混乱した政情にあった。江戸時代末期、中央の幕府と地方の藩との対立が深化する原因の一つは、強力な戦艦を前面に出して開国を強要する西欧列強の求愛を受けるか、それとも抵抗するかについての合意が容易に得られなかったことである。
初期のイギリスのグローバーとロシアのプチャーチンを通じたイギリス・日本とロシア・日本の出会いと過程の中で、1902年の日英同盟と1904年の日露戦争という相反する結果をもたらした。これにより、アジアの盟主であったロシアはその下落線を辿り始め、イギリスのモデルを選択した日本は朝鮮半島と満州を占め、アジアの帝国としての地位を確立した。これに対し、日本がイギリスと手を組んでロシアを排撃した理由を探り、その中心にあったニコライ皇太子(Nikolai Alexandrovich Romanov)を暗殺しようとした「大津事件」の意義と影響について考察したい。
19世紀の英露日の三角関係
1. グローバーから始まったイギリスと日本
まず、イギリスと日本の象徴的な出会いの主人公としては、グローバーガーデンの主人であるトーマス・ブレーク・グローバー(Thomas Blake Glover)から始まる。彼は貿易商として長崎に上陸し、出島を拠点に武器取引事業を開始した。特にグローバーの特有の親和力は、日本の武士たちとの深い絆を築き、日本をして対外的な開化と対内的な改革の原動力となった。当時長崎で最大の外資貿易会社を運営する基盤を活用し、幕府勢力を転覆させるのに必要な軍艦、小銃などを提供できたグローバーは、これ以上ないほど魅力的な協力対象であった。
であった。2. 露日関係不和の始まり 大津事件(おおつじけん) 長州五傑の派遣は、彼らに明治維新の足がかりを築かせ、これは当時の日英関係における大きな出来事となった。
2. プチャーチンから始まったロシアと日本
一方、19世紀半ば、ロシアは沿海州地方へと南下し始めた。この時、アメリカはペリー提督を日本に派遣し開国を要求した。ロシアも遅れをとるわけにはいかなかった。使節エヴフィミー・ヴァシリエヴィチ・プチャーチン(Yevfimy Vasilyevich Putyatin)が派遣された。プチャーチンとの交渉の末、1855年、ついに日露通好条約が締結された。ロシアはアメリカ、イギリスに次いで3番目に日本と国交を結び、この時、日本との国境画定交渉にも部分的にではあったが成功することができた(和田春樹 2009, 108)。1873年、正教の布教活動をしていたニコライ主教(Ivan Dmitrovich Kasatkin)が東京でロシア語教室を開始した。しかし、これをロシアと比較すると、ピョートル大帝の命によりイルクーツクに日本語学校が設置されたのは18世紀のことだった。ロシア内部では、日本だけでなく東洋に対する関心が非常に高く、同じ時期にウラジオストクに東洋各国の言語や東洋事情を教育・研究する東洋学園が開設された(和田春樹 2009, 149)。このように、ロシアは日本だけでなく、東洋や東方政策に関する構想を以前から持っていた。1889年3月、ロシアの財務省鉄道事業局長にセルゲイ・ヴィッテ(Sergei Witte)が任命されてから、極東に対してより積極的な政策を導入するようになった。彼はシベリアに極東への鉄道を建設する事業を進めた。ロシアがフランスから資金導入に成功し、シベリア鉄道建設に着工することを重点に、太平洋沿岸のウラジオストクからロシアのモスクワを経由してヨーロッパまでを結ぶ一本の路線を建設することになった。これはすなわち、世界最強の陸軍国であるロシアが、イギリスの制海権に阻まれずにモスクワから中央アジアを経て日本まで直接到達できる可能性を作ったのである。
<図1> The arrival of Czarevitch Nicholas at Shimbashi Station
Courtesy the Kanagawa Museum (出典: Donald Keene. 2002)
1891年3月31日、ロシア皇太子ニコライはウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する前、世界周遊の最後の行程として日本を訪問した。しかし、この時点で日露関係に大きな影響を与える出来事が起こる。一人の日本の巡査が、大ロシア帝国の皇太子ニコライを暗殺しようとした「大津事件」が発生したのである。その後、ロシアと日本の関係は急速に変動していく。
3. 日本の対外政策とロシア牽制
ロシアは1700年代初頭から千島列島に沿って南下政策を準備していた。18世紀中葉、ロシアはシベリアのイルクーツクに日本語学校を設立し、南下政策を本格化させた。日本はこの時初めて「北方問題」という概念を持つようになった。1780年代、林子平(Hayashi Shihe)はロシアの脅威を論じ、西洋に対応するために海洋国家である日本には国防対策が必要だと主張した(李仁三 2009, 202)。
日本は1890年前後の時期に国軍主義へと進む基盤を築いた。ロシアの東アジア太平洋進出を警戒しながら、武力基盤と政治制度的な体制整備を成し遂げた。1889年2月に公布された大日本帝国憲法は、それを起草した伊藤博文の言葉通り、「国権を鞏固にし、それを最も重視する目的」で作られた(李仁三 2009, 406)。このように、日本は内部で軍備拡張を電撃的に進め、陸軍の編制をドイツ式に変更した。
当時有力な言論機関であった「日本」という新聞が発行されていた。この新
聞の主筆は、東方政策に強い関心を抱いていた。1892年、日本の議会は天皇の勅語を受けて海軍拡張7カ年計画を承認した。日本政界、言論界、学界にわたって広範に強硬派が形成されたのもその頃であった(李仁三 2009, 406)。1890年まで、日本の国家発展戦略の核心は改革であった。一方、1890年代初頭を境に、武力を含むあらゆる手段を用いた対外膨張が日本の国家戦略となったと多くの日本学者は主張している。1894年夏、日本は過去に西欧列強と結んだ不平等条約をようやく解消し、国際秩序において公式に帝国主義国家と肩を並べる、帝国主義クラブの会員となったと判断する。また、当時イギリスとの条約を改正したことがその重要な出発点となった。
ロシアに対して本格的に警戒するようになったきっかけは、シベリア鉄道の着工からである。この構想はすでに日本に知られていた。日本で初めてこの話が話題になったのは、1887年、ロンドンの「タイムズ」がその年の6月24日付紙面で、それまで幻想に過ぎなかったシベリア鉄道構想について報じたことだった。この記事を「朝野新聞」が速やかに翻訳し、8月2日付で「シベリア鉄道の敷設」という見出しで掲載した。そして8月12日と13日には、「シベリア鉄道と東アジア三国との関係」というタイトルの論説を掲載した(和田春樹 2009, 155)。論説の筆者は、ロシアのシベリア鉄道着工は軍事的に日本、清、朝鮮に強い影響を与えるため、ロシアに対抗できる方策を講じるべきだと断言する。日本においては、シベリア鉄道の建設が具体化するずっと以前から警戒の動きが現れ始めていたのである。
前述のように、クガ・カツナンが提起した変化の要因の一つとして、1891年にロシアがフランスから資金を導入し、シベリア鉄道工事に着手したことが挙げられる。つまり、シベリア鉄道が完成すれば、太平洋沿岸のウラジオストクからロシアのモスクワを経てヨーロッパまで一本の線路でつながることになる。
このような世界的な交通手段の変化は、地球という空間を見る視点に大きな転換をもたらす。同時にそれは、日本という島国を国際政治の地図の中でどのように位置づけるべきかという問題とも関連し、当時の日本国内で東方協会などの調査団体や政治結社の結成を促した。
また、交通手段の変化は経済と人の流れを変えるが、それによって兵士や武器を送ることも可能になり、軍事バランスにも変動をもたらす。つまり、シベリア鉄道の完成により、世界一の陸軍を持つロシアがイギリスの制海権に妨げられることなく、モスクワから日本に直接軍事作戦を展開する可能性が生じることになる。このユーラシア大陸を横断する交通手段の出現は、日本を揺るがすだけでなく、東アジア、さらには世界政治にも大きな変動と衝撃をもたらすことになる。さらに、日本政府だけでなく、日本国民にとっても実質的な脅威となる事件であることがわかる。クガ・カツナンによれば、1891年に発生したこれら一連の事態は「すべて国民の対外心を鼓舞するものであるに違いない」と述べている。(新一山室 2005, 55)
このような影響で、反露感情は日本の一般国民の間でも徐々に現れ始めた。「大津事件」の1年前の1890年、天皇の馬車が議会訪問後、ロシア公使館を通過することになった。当時、天皇は池のそばを通りかかり、公使夫人を知って帽子を脱いで敬意を表した。しかし、天皇が通り過ぎると、群衆の中から誰かがロシア夫人たちに向かって石を投げ、公使の夫人が同じように応酬し、両陣営に石投げが激しく飛び交った。同時に群衆が公使館の鉄門を押し入ろうとしたが、警察隊の鎮圧によって秩序を回復することができた。
皇帝アレクサンドル3世(Alexander III)は、ニコライの訪日を前にこの事件を聞き、「このような反外国人的な、悪意ある行為は、皇太子の日本訪問に関して私を少々不安にさせる」と記録している(和田春樹 2009, 158)。そして彼の心配通り、彼の後を継ぐニコライ皇太子に、取り返しのつかない傷を残す事件が起こった。
不和の火種 大津事件(おおつじけん)
1. 大津事件の展開過程 2. 露日関係不和の始まり 大津事件(おおつじけん)
<図2> <ニコライ皇太子 1891年人力車姿>
<Nagasaki Museum of History and Culture>
(出典: А. Н. Мещеряков. 2018)
<図3> <大津事件>
(出典: Dmitry Mityurin. 2015)
ロシア帝国のニコライ皇太子は、シベリア鉄道極東地区起工式に出席するため、艦隊を率いてウラジオストクへ向かう途中で日本を訪問した。ニコライ皇太子一行は長崎と鹿児島を訪問した後、神戸に上陸し京都へ向かう計画だった。
1891年5月11日午後、京都で琵琶湖への日帰り観光を終えて帰る途中、ニコライ皇太子、そして共に訪日していたギリシャ王国の王子ゲオルギオス(George I of Greece)、有栖川宮威仁親王(Prince Arisugawa Takehito)の順で人力車に乗って大津市街を通過する途中、警護を担当していた滋賀県警察署の巡査、津田三蔵が突然ニコライ皇太子にサーベルを振りかざし負傷させた。ニコライは人力車から飛び降り、横の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけながら負傷させようと試みた。しかし、津田はゲオルギオス王子の竹の杖で背中を打たれ、ニコライ皇太子に随行していた人力車夫に足をかけられて転倒した。また、ゲオルギオス王子に随行していた人力車夫は、津田が落としたサーベルを振り回し津田の首に傷を負わせ、結局津田三蔵は警備中の他の巡査に捕縛された。ニコライ皇太子は右頭部に7cmと9cmほどの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場にいたが、見物人に阻まれて近づくことができず、状況を確認した時にはすでに津田が捕縛された後だった。
その後、留学や海外軍事視察などの経験を通じて国際関係に精通していた威仁親王は、直ちにこの事件が自身のレベルでは解決できない重大な外交問題だと判断し、随行員に命じて顛末を2. 露日関係不和の始まり 大津事件(おおつじけん)直ちに整理して東京の明治天皇に電報で報告させると同時に、ロシア帝国側への誠意を示すため、天皇が京都へ緊急行幸するよう要請した。電報を受け取った明治天皇は直ちに確認し、威仁親王にニコライ皇太子の身辺警護を命じると同時に、北白川宮能久親王(Kitashirakawa Yoshihisa)を文官として京都に派遣した。
事件の翌日である1891年5月12日朝、明治天皇は新橋駅から列車に乗り、同日夜に京都に到着した。明治天皇はその夜、ニコライ皇太子を見舞う予定だったが、ニコライ皇太子側からの要請により翌日に延期された。有栖川威仁親王の兄である有栖川宮熾仁親王(Arisugawa Taruhito)も明治天皇の後を追って京都に到着した。5月13日、明治天皇はニコライ皇太子の滞在先であった京都ホテルへ行き、ニコライ皇太子を見舞い、威仁親王と能久親王、熾仁親王を連れて神戸まで見送った。
後に明治天皇が自ら神戸港に停泊中のロシア軍艦を訪問する際、臣下が「拉致される可能性がある」と反対したが、これを振り切って療養中のニコライ皇太子を再び見舞った(徐賢燮 2004, 142)。
当時、小国と見なされていた日本が大国のロシアの皇太子を負傷させたことで、「ロシアが報復のために日本を攻撃するかもしれない」という噂が広まった。学校は謹慎の意を示すために休校し、神社や寺院、教会では皇太子の回復を祈る祈りが続いた。ニコライ皇太子に送られた見舞いの電報は1万通を超え、山形県金山町では「津田」という姓と「三蔵」という名前の命名を禁止する条例を決議した。また、1891年5月20日には、畑山ゆう子(Yuko Hatakeyama)という女性がニコライ皇太子に「死をもって謝罪する」として、京都府庁前でカミソリで自殺した(徐賢燮 2004, 142)。外国語に堪能な慶應義塾大学の学生たちはフランス語で謝罪の手紙を作成したり、ロシア正教会の宣教師がニコライ皇太子を見舞うことで、日本とロシア間の外交的摩擦を仲裁しようとした。
2. 大津事件後
ロシアのアレクサンドル3世は、日本天皇をはじめとする国民全体の誠意ある態度に深い感銘を受け、むしろ皇太子の負傷によって日本を新たに見たとし、寛大な態度を示した。日本人の過剰な謝罪がロシアを感動させたのである。ロシアは大国としての度量を施し、事件を収拾した。
ロシアの寛大さで一息ついた日本は、津田三蔵を刑法第116条を適用して処刑しようとしたが、児島惟謙(Kojima Iken)大審院長は、外国の皇太子への加害者には適用が無理だとして、一般的な殺人未遂犯として扱い、無期刑に処するようにした。その後、津田三蔵は4ヶ月後に肺炎で獄死した。
ロシアのアレクサンドル3世の寛大な態度に安堵した日本の世論は、ロシアとの争いを避けたという自負からか、犯人である津田に対する公正な裁判を求める声が高まった。
津田は国家のために身を挺した忠義の士という雰囲気が広まった。ますます勢いづくという言葉通り、各地から津田は単なる殺人未遂犯ではなく、烈士であるという声が急速に広まった。日本の国民性の一端をまさに鮮明に見せる出来事であった。
児島大審院長は殺人未遂犯として扱い、無期刑に処するようにした。5月29日、このような判決に対し、裁判所傍聴席を埋め尽くした人々が「帝国万歳」、「国家万歳」と叫ぶと、裁判所外に集まった群衆もそれに呼応して「日本万歳」と叫んだ。児島大審院長は凱旋将軍となった。彼は司法権の独立を守った「法の鬼神」として、今日まで称賛が絶えない(徐賢燮 2004, 144)。
大津事件と日露戦争
1. 大津事件の動機
当時の「大津事件」については、様々な憶測や意見が残っている。それもそのはず、当時の状況を証明する資料も多くない上に、ニコライの日記の回想もあまり役に立たないからである。したがって、「大津事件」が日露戦争の最初の火種であると断言するには、やや無理がある。まず、津田三蔵の犯行動機について、彼が陳述した内容を検討する必要がある。
犯人の津田は、裁判過程で、ニコライが日本に到着したらまず天皇に拝謁すべきなのに、無礼にも遊覧ばかりして時間を過ごすことに侮辱を感じたと支離滅裂に述べた。また、彼はニコライが観光を口実に日本偵察に出ていると判断し、殺害を決心したと強弁した(徐賢燮 2004, 145)。
<図3> <西郷隆盛の風説>
(出典: Shin, Peter Yong-Shik. 1989)
学者たちによって推測される津田の犯行動機は、大きく三つに分けられる。第一に、ニコライの訪日が日本侵攻のための視察であるという風説を信じたためであった。加えて、西南戦争の英雄である西郷隆盛が死なずにニコライと共に帰還するという風説も蔓延していた。西南戦争で勲章を受けた津田は、このような噂を2. 露日関係不和の始まり 大津事件(おおつじけん)快く思わなかった。このような一連の事態を見ると、当時の日本がロシアの極東進出に敏感であったことがわかる。第二に、陳述通りの狂信的な忠誠心から始まった犯行動機である。ニコライが天皇に会うために東京ではなく鹿児島で観光を楽しんだことは、天皇に対する侮辱であり、観光中に寺院境内に建てられた戦争記念碑に対する敬意を表さなかったことである。第三に、少数の見解ではあるが、ロシアを牽制していた日本政府内部で計画的に犯行を実行したのではないかという推測がある。しかし、この見解は立証するだけの証拠が不十分であるという欠点がある。
一つ確かなことは、当時の日本国内で政治的変動の混乱だけでなく、対外的にロシアに対する強い反感と恐怖が共存していたということである。この恐怖は、国際関係の葛藤を具体化し、個人の生活にまで影響を及ぼした事件である。表面的にはロシアの寛大な態度で円満に収拾されたように見えるが、一つの国際舞台を見る日本の視点とロシアの視点の違いから、結局共存できないという結論に至った事件だと考えられる。
2. 全知的なロシアの視点
「大津事件」を巡り、一部の歴史家や大衆的な伝記作家は、ロシアのニコライに対する敵意を呼び起こし、一部は「日露戦争の引き金」と見なしている。10年間にわたり、ニコライの財務大臣であり首席補佐官であったヴィッテも同様の意見を述べており、彼は回顧録の中で、最後の皇帝が「極東の冒険」に介入したのは、部分的には彼の「日本に対する自然な敵意と彼の人生への軽蔑」が認識されていたからではないかと述べている。より明確なのは、日本との戦争後、ロシア外務大臣のアレクサンドル・イズヴォルスキー(Alexander Isvolsky)は、「彼の生命への試みは…ニコライ2世の側で日本に対する反感、さらには憎悪を呼び起こした」と信じており、日露戦争のエピローグである彼の極東政策に影響を与えた可能性があると評価している。これらの推論は完璧な説明を提供するように見えるが、実際にはこの事件に光を当てたことは少ない。明らかなのは、皇太子の目に目立つ傷跡を残し、死ぬまで頭痛に苦しみ、それはその怪我が原因だと考えていたということである。(Rotem Kowner 1998)
ドナルド・キーン(Donald Keene 2002)もまた、ヴィッテが記した回顧録を通じて、「大津事件」は日露戦争への重要な一歩と見なしている。彼は「敵意と軽蔑」という言葉を使ったニコライの表現について、ヴィッテが偏見を持って見ていなかったという確信から出た主張である。当時「大津事件」は、政府の多くの人々が恐れていたように戦争には至らなかったが、暗殺未遂によりニコライが反日的な偏見を形成し、13年後に日露戦争を引き起こした可能性に注目している。
ロテム・コウナー(Rotem Kowner 1998)は、ニコライの日記の中から、この事件によって日本への非難やいかなる憤りも感じられない点に注目している。ニコライは日本との戦争を推進せず、復讐を考えてもいなかった。日本人に対する彼の真の態度は、オリエンタリストへの好意と人種的憎悪が混ざったものであり、それは次第に彼らの能力に対する過度な過小評価へと発展したと述べている。ニコライの日本人に対するイメージは、彼が訪問中に見たものや、その前後に触れたステレオタイプによって、日本人を女性的で弱く、劣等なものと認識させるようになったのである。漠然とした復讐心よりも、こうした見方がロシアが日本の国民性や軍事を評価する上での障害となったと考えられる。
コウナーもまた、ヴィッテの回顧録に注目している。セルゲイ・ヴィッテによれば、この事件は、特に怪我の結果として頭痛が彼の人生の終わりまで彼を悩ませたため、日本人に対する皇太子の急激な否定的な態度を証明した。(Rotem Kowner 1998)日本での龍の刺青が、その事件を生き続けさせた。そして彼の側近ヴィッテの表現によれば、この事件以降、彼は日本の天皇を「猿」と呼んだ。このような日本を軽視する発言や態度は、ロシアが日本を甘く見るのに適した例として挙げることができる。さらに、彼は旅行中ずっと日本の芸者と夜を徹して遊び、東京では「東京の娼婦」を見せてほしいと頼んだとも言われている。(Donald Keene 2002)
実際に日露戦争に関するクロパトキン(Aleksey Kuropatkin)の回顧録には、日露戦争が起こった最大の要因として、日本に対する事前知識の不足と過小評価を挙げている。クロパトキンは回顧録の中で、「1900年、ペイツリー城で我々の軍隊と共に戦った日本兵の行動は非常に私の心を打ち、彼らの価値を評価することができた…25年後に日本人があらゆる分野で成長したのを見て驚きを禁じ得なかった。あらゆる分野にわたる巨大な動きが見られ、勤勉な人々が幸福を感じ、自国に対して多大な愛国心を持ち、そして未来への希望を持っていることを一目で感じ取ることができた」(Kuropatkin 2007)
要するに、ロシアは皇帝を含め、戦争を望まず、交渉する用意があった。しかし、日本の戦争決意と準備状況についての無知により、交渉で柔軟性を発揮できなかった。その結果、交渉を台無しにし、戦争を避けられないものにしたという反省であった。
3. 全知的な日本の視点
先に述べた二つの主張は、いずれもロシアの立場から心情を読み取った場合の可能な推測である。しかし、一つ指摘しておかなければならないのは、ヴィッテの回顧録は、ロシアで起こった「開戦の責任は誰にあるのか?」という論争の真っ只中で、自分には責任がないと主張するために書かれた本であるという点だ。したがって、人間的にヴィッテ自身にも汚点を残したくないという気持ちがあっただろうし、その責任を最高責任者である皇帝に転嫁しようとした気持ちも考慮すべきである。さらに、ヴィッテの主張とは異なり、著者が読んだニコライ自身のの日記には、それほど日本に対する敵意が鮮明に表れてはいない。したがって、著者はロシアの心情を参考に、日本の立場から解釈した立場に注目しようとしている。
申永植(Shin, Peter Yong-Shik 1989)は、「大津事件」は国際政治的な観点から見れば、単なる狂信者一人が起こした予期せぬ事件ではなく、当時の日本政府が深く関与した政治的事件であると主張している。第一に、外部的な要素として、日本政府の対外政策、すなわち日本とロシアの関係を再定義した1890年に発表された山縣(Yamagata Aritomo)の新たな対外政策にあったと考えられる。(Shin, Peter Yong-Shik, 1989)断言すれば、新たな方向が作られなければ、その事件は起こらなかっただろう。このような観点から事件を再検討すると、「大津事件」は日本の軍事力に依存した拡張主義外交の現れとなる。
この事件は近代日本史において外交的にも政治的にも重要な意味を持つ。特にヨーロッパ列強を対象とした最初の拡張主義であった。成功した結果は、特に日本の指導者たちに大きな自信と誇りをもたらした。日本とロシアの対決という、近代日本史を照らす3大(大津事件、三国干渉、日露戦争)の最初の事件である。一方、この行事は国内で天皇をはじめとする一般民衆を成功裏に動員した国権伸張の最初の民族運動として、政府が定めた方向に従って統一戦線を形成した。
第二に、ニコライの訪問旅程に対して日本政府が反感を抱いたことである。まず長崎に到着したニコライ一行は、すぐに上陸せず、一週間港に留まった。その理由は復活祭の休日を守るためであった。しかし、日本国民はすでにニコライの訪問を準備していたため、支障が生じ、評判が悪かった。その後、彼は鹿児島に直行したが、鹿児島は維新運動と明治政府樹立のための多くの著名な指導者を輩出した。しかし、薩摩の指導者たちはすでにニコライ在位中に事実上政府を掌握していた長州藩の指導者たちに政治権力を奪われていた。その後、北海道訪問は日本政府にとっても敏感な問題であった。領土紛争を引き起こす可能性のある場所であったからだ。最後に青森でさらに一週間過ごすことになったが、これは戦略的な側面から日本人の神経を逆撫でした。戦争が起こる場合、青森と函館の間の狭い海峡が要衝であったからだ。したがって、日本旅行の真の目的は、一般的に将来の侵略に対する条件調査であったと疑われていた最中であった。
これに対し、彼は日本政府が当時すでに極東の国際政治に関して反露政策を採用していた点を指摘する。イギリスと条約改正のための交渉を進め、その間、国会に大規模な軍事費の充当を要求した。1891年2月初旬、皇室接待委員会が組織され、政府の警戒態勢が見られ始め、当時の参謀総長であった川上操六(Kawakami Soroku)将軍が選出されたが、戦術家として有名な川上はすでに戦争を準備していた。彼は情報収集に極めて関心を持ち、1892年までには中国との戦争を準備しなければならないと述べている。そして10年以内にシベリア鉄道が完成する前にロシアとの戦争は避けられないと考えていた。(Shin, Peter Yong-Shik 1989)
第三に、言論を通じて国民の対外意識を高揚させた点を指摘する。当時準官営新聞であった「東京日日新聞」は、怪しいニコライの訪問に関する記事を3月7日に掲載した。「地理的条件を調査し、また将来の侵略計画に沿った軍事準備状況を観察するためのものだという噂が流れたが、これは事実ではない。」(Shin, Peter Yong-Shik 1989)これは大衆の誤解を防ぎ、否定的な影響を防ぐという趣旨で書かれたが、その逆の可能性が高いとしている。その理由として、新聞「東京日日新聞」は警察だけでなく、政府が統制する報道機関であった。第二に、この新聞記事は国会会議が終わった後、他の新聞ではなく「東京日日新聞」によって掲載された。第三に、記事は比較的大きなテーマとして扱われ、「Suspicious Eyes」というタイトルであった。(Shin, Peter Yong-Shik 1989)第四に、ニコライの旅程において、すでに日本政府は疑念を抱いていた状況がある。そして東京日日新聞の記事は一般大衆に大きな影響を与えた。記事が出た直後、大衆に大きな影響を与え、ニコライ訪問に関する話が地方と首都圏の新聞で共に発行され、ニコライが日本に到着するまで発行され続けた。これに対し、国民ノ友(The Nation's Friends)は、ニコライの日本訪問が日本国民の怠惰な目を覚ますのに役立ったという皮肉な論評を4月4日114号に掲載した。(Shin, Peter Yong-Shik 1989)さらに、当時滋賀県に置かれていた警察署長と、普段からニコライの訪日に対して不満を抱いていた巡査津田三蔵の配置と、津田三蔵の裁判を進めた児島裁判長に対する疑いも証拠として採用する。
彼はさらに、津田三蔵の死についても疑問を呈している。「大津事件」について、当時の日本の政治家や知識人、海外活動家の中で、その誰も「大津事件」を覚えていないと述べている。津田三蔵に関する記録は、ポルトガル領事ウェンセスラオ・デ・モラエス(Wenceslao de Moraes)だけが、津田について回想し、不幸な愛国者への哀悼の意を表している。また、5月20日には畑山勇子(Hatakeyama Yuko)が謝罪のために自ら命を絶った。彼女には追悼式や集会があり、伝記も書かれた。しかし、津田三蔵の話は全くないため、津田三蔵が肺炎で死んだのではないかという推測も出されている。しかし、日本政府による確実な文書としての手がかりがないのが難点である。
これらの主張を総合すると、日本政府と当時の言論は、国民にロシアへの恐怖を煽り、国民に恐怖と警戒心を抱かせたのは事実である。そして、シベリア鉄道を完成させて東アジア内での覇権を握ろうとしたロシアの思惑もあまりにも明白であり、アジア太平洋地域の覇権争いに火をつけたのも明らかである。こうした国内の心情と国際的な状況が結びついて現れた事件が「大津事件」だと考えられる。これは、西欧列強とアジア列強の最初の衝突となり得たトリガーポイントであり、近代に入ってからのアジア列強と西欧列強の対立という世界秩序が個人に影響を与えて現れた最初の事件である。
結び
大津事件は、当時の国際関係における一触即発の状況をそのまま示している。ロシアとしては、日本を侮っていたことが鮮明に示される。これは、日露戦争の敗北を招いた第一の原因を見出すことができる。日本にとっては、極限の戦争への恐怖と、帝国としての飛躍の機会をうかがっており、それは避けられない運命であった。これを日露戦争に入るための最初の出発点と見ることは難しいが、日本にとっては西欧を軍事的に警戒し、東アジア唯一の帝国としての避けられない状況であれば、西欧との戦争をためらわない可能性を示した事件として解釈される。
ニコライは1891年と1892年を自身の暗黒期と日記に記している。(Nicholas 1923)「大津事件」だけでなく、自身の周囲の人々の死、そして何よりも1892年の父の死は、彼にトラウマを与えたと考えられる。人生の下り坂の始まりであった「大津事件」は、死ぬまで傷口に頭痛を引き起こし、日本で入れた龍の刺青は、その痛ましい傷を常に思い出させたであろう。したがって、無意識のうちに日本に対する良くない心象を持っていたという推測は注目に値する。
ヴィッテの回顧録にも書かれているように、ニコライは日本の天皇を「猿」と描写する。これは、日本旅行で見せた肯定的な態度とは異なり、まだ日本を帝国として認めていなかったことの証左であり、特に「大津事件」後の日本人の謝罪の態度は、当事者にとっては当然のことと思われたとしても、ロシア人にとっては自分の考え以上の屈辱的で野蛮な謝罪として受け止められたであろう。したがって、アレクサンドル3世の寛容とニコライ皇太子の寛大さは、日本人を自分たちのレベルより高く評価することから来る配慮であったのだろう。これは、日露戦争を控えたロシア人たちに、相手を正確に把握せず、過小評価させる決定的な要因として作用したのであろう。
当時日本は、明治維新からわずか20年余りが経過した日本国民と政府の心象には、国際秩序に対する二つの明確な態度があった。一つは西欧列強を恐れ、礼儀を守って戦争を避けようとした維新以前の保守的な傾向と、アジアの近代化を最も早く成し遂げた近代国家としての自信と、帝国として列強に名を連ねようとした拡張主義的な傾向である。
これは1889年の明治憲法(「大日本帝国憲法」)の公布と翌年の国会開設により、明治日本は国内的には建国以来の混乱した政治抗争が一つの憲政秩序の枠組みの中に定着し、対外的には「不平等条約」体制の修正を西欧列強に要求できる制度的装置から始まる。(朴英宰 1994)
さらに、「大津事件」の背後には、日本の極端な進歩への加担があるという合理的な疑いも考えてみる必要がある。単に一巡査が自身の狂信的な忠誠心から起こしたとするには、事件の規模が戦争に拡大しうる点を注目すべきである。当時日本はイギリスとの同盟を目前に控えており、ロシアという国が目の上のたんこぶのように邪魔であったであろう。実際にニコライと共に日本に訪問したエスパー・ウク・トムス
したエスパー・ウーク・トムス
結論として、「大津事件」は当時の深刻な状況とは異なり、あまりにも穏やかに終結した。さらに、帝国の皇太子を暗殺しようとした大きな事件であるにもかかわらず、国際的に知られていることは少ない。日本の過剰な対応と、それによって感動したロシアの寛大さが事件を収拾するのに大きな影響を与えたが、この事件はアジアと西欧の最初の衝突を早める可能性のある事件である。さらに、当時日本、イギリス、そしてロシア、清の構図での拡張争いに発展する可能性もあった状況であった。著者はこの事件を、日本にとっては帝国列強の列に加わるための最初の試みであり、西欧列強への警告に意義があると見ており、東西間の世界大戦を引き起こす可能性もあった出発点になり得たと考えている。
ロシアと日本は1904年の日露戦争という東西両帝国の最初の衝突へと進み、ロシアの敗北という誰も予想しなかった結果で幕を閉じた。私たちが先に考察した英露関係は、グローバーという青年から始まり、1901年の日英同盟という共生の関係へと繋がった。日本の視察で見たグローバーガーデンは思ったより非常に広く、広大であった。異国の地にイギリスの青年の名前で残っているその地を見て、勝者の歴史は名前で記憶されるが、敗者の歴史は痕跡も見つけられないのだなと感じた。そうしてロシアと日本の共生の努力が「大津事件」から始まり、日露戦争へと破局に至り、現在に至るまで領土紛争を継続している。そして現在までロシアと日本間の和親条約が結ばれていないのがその現実である。
参考文献 朴英宰. 1994. 「1890年代日本の外交と外交論 ―陸奥宗光(Mutsu Munemitsu)を中心に―」
ソ・ヒョンソプ. 2004. 『今も日本は存在する』
山室信一. 2005. 『日露戦争の世紀』
アレクセイ・ニコライビッチ・クロパトキン. 2007. 『日露戦争』 イ・サンソン. 2009. 『東アジアの戦争と平和 2』
和田春樹. 2009. 『日露戦争の起源と開戦 1』
ドミトリー・ミチューリン. 2015. 『ニコライ2世の日本人の印』
(Dmitry Mityurin. 2015. <Японская метка
Николая II. Часть 2>)
ニコライ2世. 1926. 『ニコライ2世の日記 1890-1906』
ロテム・コウナー. 1998. 『ニコライ2世と日本の身体』
ピーター・ヨアン・シック・シン. 1989. The Otsu incident: Japan's hidden history
Kof the attempted assassination of future Emperor Nicholas II of
eRussia in the town of Otsu, Japan, May 11, 1891 and its
eimplication for historical analysis
『日本皇帝 明治とその世界、1852-1912年』
*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。