乾隆とカスティリオーネの建築学入門 万春園
茶話の若者たち 北京を抱擁する
パク・ジニ · 梨花女子大学校
はじめに
清朝に生まれ、時代の園林を風靡し、次第に衰退していった
清朝の足跡を辿り、共にその姿を失った楽園がある。
万春園は、中国大陸内の名高い江南(江南)から、地球の反対側から
一気に駆けつけた宮殿までを包み込むことのできる皇帝の庭園である。特に
万春園内の長春園には、ヨーロッパ式の宮殿を模して作られた「西洋楼」が
位置しているが、この西洋楼はジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe
Castiglione)を中心としたイエズス会宣教師たちの助けによって建てられる
ことができた。カスティリオーネは清の宮廷画家として約50年間
宣教を続けたイタリアの画家であり、清朝皇帝の下という
制約された環境の中でも宣教と芸術活動に情熱を注いだ人物であった。
彼が伝えるイエズス会の福音は、一方的な伝達に留まらなかった。
彼は清の文化芸術を理解し、その文脈の中で清朝の
4. 乾隆とカスティリオーネの建築学入門_万春園
人々や文化とコミュニケーションを図ろうとした(キム・ジイン 2016)。彼はヨーロッパで学んだ
美術技法を、清の情緒や文化芸術と融合させ、新たな作品を
生み出したのである。
二つの文化圏が互いに出会い、新たな作品を生み出すことは、
二つの絵の具を絞って混ぜるように単純に遂行できることでは
ない。社会学では、二つの文化が出会って引き起こされる作用を「文化
接触」と定義する。文化接触の結果には、文化融合、文化
共存、文化同化などがあるが、これらの結果は文化接触の過程の
影響を受ける。文化が出会う過程が自発的なのか、あるいは
非自発的なのか、二つの文化が一方向の文化接触を経験したのか、
あるいは相互的な文化接触を経験したのか、文化伝播を通じて
入ってきた新しい文化が、既存の土着文化とどのような関係性を
持つのかなど、多様な要素が過程に位置する。文化融合、文化共存は
固有の文化アイデンティティが維持されるのに対し、文化同化は、一方の
文化が歴史の裏舞台に消えていくという点で、前二者の結果とは
区別される(斗山百科)。
乾隆帝が西洋楼の築造当時、西洋の建築技術よりも建築
芸術、建築美学に焦点を当てたという点に注目するならば、我々は
西洋楼の誕生を文化接触の文脈の中で分析することができるだろう。
イエズス会がもたらした西洋の建築芸術が、中国の土着
建築芸術と衝突した。第二次アヘン戦争の余波で万春園の
大部分が焼失したが、一次資料と二次資料を通じて
間接的であっても、我々は万春園の本来の姿を想像することができる。
西洋楼は、基本骨格は西欧式の建築に基礎を置きながらも、一部の要素は
中国の伝統的な材料と技法を借用し、独特の調和の形式を
備えている。本稿の後半で西洋楼の姿を本格的に
扱う予定であるが、このように独特の調和の形式は、当時の西洋楼
建築を担ったイエズス会の宣教方式と、乾隆帝の文化収集
方式が適切に調和した結果と見ることができる。
ここで一つ、上で論じた文化接触の文脈から
我々は西洋楼のさらに深いところまで分け入ることができるかもしれない。
互いに異なる二つの文化が出会った時、しかもそれぞれが豊かに
繁栄した二つの文化が出会った時、激しい抵抗なしに二つの文化が
美しく調和することを期待するのは容易なことではない。これに
対する事例は、まさに一世紀前、それもキリスト教が入り始めた
17世紀の中国で見つけることができる。17世紀の中国に
宣教師たちが入り、西洋の科学と技術、芸術と文化を
伝播していた頃、西洋暦が中国社会に――特に中国の
天下秩序に――大きな波紋を広げると、楊光先(ヤン・グァンシエン)は
『不得已(プドゥイ)』(1665)という題名の奏上を皇帝に上げ、
反キリスト教運動を展開する(アン・ギョンドク他 2013, 16)。その後、反キリスト教
論争に火がつき、宣教師であり、イエズス会士で天文学者である
反論が続き、結局、西洋暦が正確であることが明らかにされ、
ヤン・グァンソンは欽天監監正から罷免された。この論争の過程は
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
緻密な計算の結果として終結したが、我々が注目すべき
点は、実はヤン・グァンソンが最初に打ち上げた「やむを得ず」という題名に
ある。ヤン・グァンソンは彼の文章の冒頭で、書名の
「やむを得ず」と記した理由を次のように説明している。
しかし、士大夫たちは世の道理を守れず、むしろ世の波に
飲まれて民を邪教の後継者へと引き込み、
また、国に古来より伝わる君主・父母・師を
廃止しているので、この(正す)ことは本当にやめられない。
(中略)この状況なのにやめられないというのか?このようなことを
やめたら、世にやめられないことが一体どこにあるというのか!
これが私、光ソンがやむを得ず乗り出した理由である。子与が言った
言葉と比較すると、心はさらに痛み、状況はさらに切迫しているので、
道理を論じる暇がどこにあろうか、虎と戦い川を渡ることを
どうして無駄だと言えようか!このため、この書の
題名を「不得已」としたのである(ヤン・グァンソン 1665; アン・ギョンドク他翻訳、
40-41)。
ヤン・グァンソンも、彼の訴状が道理を論じて書かれたものではなく、直ちに
脅かされている中国内の固有秩序を守るために書かれたものであることを
認識している。明らかに既存の中国秩序への挑戦のように感じられた
イエズス会の波がどこへ向かって流れていくかは、グァンソンの事では
なかった。突如揺れ始めた中国社会内で経験した
乗り物酔いを一刻も早く鎮めることだけが彼の目標であり、彼は
「やむを得ず」筆を執ったのである。
このような文化衝突は、文化融合、文化共存よりもはるかに
単純な一次作用である。文化融合または文化共存は、互いの
文化について把握し、共存の道を探る時に達成できる。
もちろん、二つの文化が生み出す新しい文化様相が十分に
魅力的であれば、人工的な討論の場なしにも自然に二つの文化が
合致することもあり得る。ただし、文化衝突または文化同化が
引き起こす文化帝国主義の弊害は、相手文化を真に
理解する者が犯しにくいことである。
天下の清を平定する皇帝として、乾隆帝は天下の外の
世界を積極的に皇室の中に取り入れる姿を見せる。同時に
その中で中国固有の建築美学を忘れず、西洋楼を
完成させるカスティリオーネの力量は、文化衝突の危険を忘れさせる。
この二人はどのようにしてこの危険を防ぐことができたのだろうか?「宣教」という
明確な目的を持って清皇室の門を叩いたカスティリオーネは、
どのようにしてその目的を実現しつつ、同時に乾隆帝の心を
開いたのだろうか?既存の文化秩序を崩壊させる可能性のある宣教師たちを
積極的に登用し、皇室庭園に小さなヨーロッパを築いた乾隆帝の意図は
何だったのだろうか?美しい西洋楼の姿に隠された彼らの真意を
復元することは、西洋楼を復元することと同じくらい重要である。未知の
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
空、未知の地、未知の人々が出会い、文化融合を成し遂げた初期の
事件は、21世紀の世界政治の盤上の秩序衝突に、文化的、芸術的、
宣教的な解決策を提示できる。
円明園、長春園、西洋楼
乾隆帝とカスティリオーネの物語を本格的に語り出す前に、
まずこの物語の背景となる円明園、その中の長春園、その
中の西洋楼の美学について、ゆっくりと積み上げていくことで文章を始めようと
する。今は多くが失われ、鮮明に描くことはできないが、様々な
資料の描写や絵を通して、大まかでも円林の物象を
思い浮かべることが今回の目次である。
本稿で称する「円明園」は、最初に建てられた円明園、
長春園、奇春園の三箇所を合わせて呼んでいる。最初に
最初に建てられた円明園を区別するために、「円明園
本園」と呼ぶことにする。
円明園内の長春園
円明園は康熙帝の時代に初めて建てられ、その息子である雍正帝の時代を経て
乾隆帝の時代に全面的かつ多彩な拡張を終えた清朝
最高の皇室庭園である。清朝の皇帝たちはこの美しい
園林で、初期には夏の暑さを避ける避暑山荘として
訪れたが、年月が経つにつれて、彼らは一年の大半を
円明園で過ごすようになった。18世紀の清朝は、前例のない
繁栄と平和を謳歌していた。円明園は、その舞台となる
華麗な皇室の居所として、我々の記憶に残っている(Li 2-3)。
図1(出典:China Heritage Quaterly)
円明園は「円(まるい)」「明(あかるい)」「園(その)」から
成り立った名前で、「円満に照らす園林」という意味を持っている。
「円明(えんみょう)」という概念は、「完璧に美しければ真に善い
境地」を意味する仏教用語である。シッダールタ太子を産み育てた
最初の妃が太子に「一切の智慧を円満に照らす(圓明一切智)」
方だと語ったと伝えられている(王龍珠 2015, 42-43)。康熙帝と雍正帝が
4. 乾隆とカスティリオーネの建築学入門_円明園
仏教を好んだという事実を知っていれば、十分に理解できる良い
名前である。
図1で見られる巨大な規模の園林がすべて
円明園の面積に相当する。図1に横一線、縦一線を引き
4等分すると、まず右下部分が奇春園に
該当する。次に右上をわずかに占める部分が
長春園、残りの大部分を占める場所が円明園
本園である。
1749年、乾隆帝は円明園の建物、景観を拡張するために
「長春園」と名付けた園林を東側に増設した(Li 13)。
乾隆帝は中国各地を旅行し、気に入った園林を見つけると
画家にあれこれ命じて園林の絵を描かせた。そして、その
園林の絵をそのまま長春園に再現した(李恩相 2021, 252-253)。
まるで小さな宝箱に大切な宝物を集めるように、乾隆帝は彼が
出会った美しい園林を長春園にそのまま複製していった。
これは江南の有名な園林にのみ当てはまる話では
なかった。当時、ヨーロッパの噴水に魅了されていた乾隆帝は、イエズス会
宣教師にヨーロッパ風の宮殿まで建てさせる。
長春園内の西洋楼
西洋楼は長春園の北西から北端全体を占めるように配置されている。
李恩相(2021)によれば、正確には「乾隆帝は長春園の北側の
角にある長さ320m、幅85mの狭く細長い土地に
ヨーロッパ風宮殿である西洋楼を建設した」という。その中には、よく
知られているように、「中国のヴェルサイユ」とも称されるヨーロッパ風宮殿から
ヨーロッパ風設計の迷宮建築物、そして乾隆帝が好んだヨーロッパ風
噴水庭園までが建てられた。
「西洋楼(せいようろう)」の「楼(ろう)」は、中国の園林芸術の真髄を
示す建築様式の一種である。丘陵や湖畔に建てられ、
主に開放的な窓を採用することで、自然の風景を最大限に満喫できる
楼は、円明園の建築に頻繁に用いられた建築様式である(王龍珠 2015,
66)。広々とした西洋楼で楽しむ中国の自然風景は、乾隆帝の
心を大いに掴んだことであろう。
乾隆帝は、フランスのヴェルサイユ宮殿、イタリアのバロック風
建築構造物や噴水庭園などを注文した。このため、フランスや
イタリアの宣教師たちが参加し、カスティリオーネはその中で
この作業を主として担当した。乾隆帝はカスティリオーネに
フランスとイタリアの宮殿や噴水の絵を注文し、その
絵は円明園内に新しいスタイルの庭園、すなわち西洋楼を
築造するためのものであった(Barme 1996, 122-123)。乾隆12年頃に始まった
西洋楼の築造は、乾隆48年頃に完成した。
西洋楼は、単にヨーロッパ風の建築物をそのまま模倣した
ものではなかった。代表的な例として、海晏堂には噴水のための油圧
ポンプを備えた西洋楼の最も大きな区画がある。この
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
噴水には驚くべき仕掛けが隠されている。それは人の体をして
動物の頭を持つ十二の彫像である。円形の噴水を
囲むこれらの幻想的な彫像は、東洋の時間を
司る十二支の説話に由来するものである(Siu 75)。図2を
参照すると、真ん中の噴水を囲む奇妙な彫像群を
見ることができる。
図2(出典:Yi Lintai)
これ以外にも、朱色の煉瓦塀、色鮮やかなガラス、中国風
装飾品や幕、太湖石や竹亭、中国式の黄色、紺色、あるいは緑色
の瓦など、主要な建築要素は依然として中国的なものを踏襲して
いた(王龍珠 2015, 129-130)。また、実際に西洋楼を築造する
際には、イエズス会の宣教師たちだけでなく、中国の芸術家たちも
共に協力しており、それゆえ円明園は中国の芸術家たちと
西洋の芸術家たちの共同作品と言えるだろう(Siu
1988, 77)。
乾隆帝と円明園
乾隆帝の清と世界認識
図3(出典:Royal Academy Arts)
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
康熙帝の息子である雍正帝、そしてその雍正帝の息子である乾隆帝は、
栄華を極めた清を導いた最後の皇帝として知られている。乾隆帝
以降の清は、西欧勢力によって急速に滅亡し始め、
特に乾隆帝の時代に拡張に費用を惜しまなかった円明園は、清の
興亡盛衰とその時期を共にしているという点で、非常に興味深い
舞台であることは間違いない。
「天下思想」や「天子」という概念の威厳に圧倒され、しばしば人々は
清朝も、自分たちが知る全ての地域を、自分たちの手に
収めて統治しなければならないと錯覚しがちである。乾隆帝は、繁栄した清を
導き、彼の統治権が非常に強力であったことは事実である。しかし
彼が持っていた世界の境界線は、もう少し明確であった。
乾隆帝は、彼が知る中国の外の世界に対して、自身が
支配権を握っていないという認識を持っていた。オランダ、
インド、ロシア、ヨーロッパなど、他の国々を中国とは明確に区別された
存在と考えていたのである。天の下の全ての国が帝国の
一部となるべきだと考えたチンギス・カンやユリウスとは
全く異なる認識である。乾隆帝の時代は、世界の国境が定められて
いた時期であり、乾隆帝は「広大な四海の中で中国は100分の
1に過ぎない」と言った父の言葉を記憶しているほど、彼の国境
認識は確固たるものであった(Elliott 2010, 277-288)。
このような乾隆帝の国境認識を考慮すると、乾隆帝が
見せた西洋楼の築造は、さらに興味深いものとなる。彼はヨーロッパを中国
世界に編入しようと長春園に模倣したのではないという点が
明確になるからである。なぜ彼は中国の国境の外の世界、「外国」の
建築物を皇帝自身の最も近い居所である円明園に模倣したのだろうか?
今日の21世紀のようにグローバル化が完全に進行していない17〜
18世紀の重みを考えると、単に美しいという理由だけで
清の皇帝が海を越えた遠いヨーロッパの文化を熟考なしに受け入れることは
容易ではない。乾隆帝が中国領内の園林を模倣することに
とどまらず、西洋の庭園までをも欲した理由は、次の段階で
続く乾隆帝の「文化収集家」としての姿に見出すことができる。
文化収集家、乾隆帝
乾隆帝は、単に政治に没頭する皇帝ではなかった。彼は清
朝後期において最も多様な作品を収集したり後援したりした人物
の一人として知られている(Sommer, 136)。彼は非常に鮮明で
華麗な収集品を数多く収集したが、「乾隆風」という言葉が
華やかで贅沢なデザインの品物を指すほど、彼の
収集スタイルが分かるような気がする。しかし、彼は自身の収集
哲学に非常に自信を持っており、依然として収集することを
非常に好む人物であった。
「ある人は、確かに収集がその人の人生において最も重要な
ものの喪失をもたらしうると言うかもしれない。しかし、他の
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
人々はこれに同意しないかもしれない。古代の遺物は
今日作られたものよりもはるかに単純であり、今日作られた
ものが古代の骨董品よりもさらに華やかである。しかし、華やかな
装飾よりも質素さを好むからといって、誰がそれを批判でき
ようか?」(乾隆帝)
乾隆帝が残した上記の言葉を通して、我々は収集そのものに対する
乾隆帝の真心を理解することができる。彼がこれほどまでに、世の中の宝物、
作品、さらには建築物まで残らず集めた理由は、彼の
美的感覚だけに限定されない。彼の華やかな美学は、乾隆帝の
清の皇帝としてのアイデンティティとも関連している。すなわち、乾隆帝が
彼の収集品を単に「美しいから」熱心に集めただけでは
ないということだ。乾隆帝がそれほどまでに世界の宝物に目をつけた
理由を、彼の地位、出身、そしてこの二つが合わさって作られた
彼の独特なアビトゥス(habitus)の側面から順に分析していこう。
第一に、彼は「皇帝」の地位を持っていた。康熙帝、
雍正帝もそうであったし、事実上、中国の歴史に記録された「皇帝」であれば
誰もがその地位を持っていたのは事実である。しかし、乾隆帝は
自身が持つ皇帝の地位を強化する方法として、多くの
指導者が選ぶ「文武両道」を重視した。康熙帝も
彼の学識を深めると同時に、乗馬や狩猟を
好む皇帝であったし、雍正帝は父とは異なり、皇室の業務に
没頭する行政的な指導者であった(Li 5)。乾隆帝は政治学、
軍事学だけでなく、詩、芸術、歴史など様々な分野の知識に
精通し、自身の指導者としての権威を証明しようと努めた。
第二に、乾隆帝は「満州族」出身の皇帝であった。満州族出身が
建てた清国は、以前の中国王朝とは根本的に異なっていた。
多くの民族が集まって作られた国であるため、多様な民族に対する
理解と文化への習熟が必要であった。乾隆帝は、彼を取り巻く
多くの少数民族の文化をよく理解し、自ら積極的に
体験し、受け入れる皇帝であった。長春園内に有名な園林を
模倣して再現することも、少数民族文化受容の延長線上として見ることができる。
最後に、満州族出身の皇帝として彼が持つことになった
独特なアビトゥスを詳しく見る必要がある。乾隆帝は
多民族国家を抱える強力な皇帝であった。世界の多様で
珍しい品物に強い関心を持ち、それらを手に入れる能力を
備えた乾隆帝は、国内芸術に限定されてアビトゥスを形成した
一般庶民とは明らかに異なる眼差しを持っていたであろう。
代表的な例として、乾隆帝は東洋では見られなかった西洋絵画に
大きな魅力を感じていた。西洋絵画は東洋絵画とは異なり、
主題の真実性を強調する性格を持っていた。写実的な
色彩、遠近法、陰影など、東洋の芸術では与えられなかった
真実性の魅力を乾隆帝は早くから知ることになった(Elliott 2010, 255)。
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
これ以外にも、ヨーロッパの宮殿や噴水を知り、それに魅了されたり、
ヨーロッパの時計技術に夢中になり円明園に時計職人を招くほど、
乾隆帝が育った背景は、乾隆帝がなぜ西洋楼の建設を望むように
なったのかを推察させる。彼の趣味は一般の人々とは異なり、
複雑で多角化せざるを得なかったのである。
なぜ乾隆帝は西洋楼を描いたのか?
上記で述べたように、円明園は乾隆帝の美的趣向を
具現する空間であった。そしてこの美学は、美そのものに
国に限定されず、世界を知り包摂する皇帝の世界政治的な
側面を内包している。この側面をもう少し深く分析するならば、
乾隆帝のこのような「文化収集」の傾向は、歴史上の他の
指導者と比較して概念化することができる。
まず、クロズリー(Pamela Kyle Crossely)が分析した興味深い
分析ツールを挙げてみよう。彼女によれば、ユーラシアにわたる
普遍帝国の君主たちが見せる文化的行為の中で最も
普遍的に現れる現象が一つあるという。それはまさに
百科事典、園林、あるいは「好奇心の部屋(curiosity cabinet)」など、世界を
縮小化し、自らの掌中に表現する様相を見せる
ことである(Crossely 1999; 李恩相 2017, 29)。乾隆帝の円明園、特に
長春園の内部がそうであった。名高い園林を複製して彼は自らの
掌中にミニチュア庭園を集めることができ、西洋楼もそのような
収集品の一つであった。この収集を通じて示されるのは、「世界を手に
入れた君主」、「望むならいつでも有名な建築物を手に入れる
ことができる君主」など、権力に直結する君主の強力さである。
ジェームズ・クリフォード(James Clifford)は、「文化収集」の概念を
通じて収集家が構築する自己、文化、真正性の配置戦略を
説明する。まるで子供がおもちゃをたくさん集めるように、
このような収集は、一人の人間が所有する世界を築き上げていく
意識と同じ行為であるという話だ(Clifford 1988, 218)。
李恩相(2017)は、クロズリーだけでなくクリフォードの「文化収集」
概念を通じて乾隆帝の長春園を分析する。李恩相は
「文化象徴物を収集し中央に集中させることで、統治者は
複製・再現された対象が表象する地域に対する支配を
宣布する」という結論で乾隆帝の文化収集を理解している。
カスティリオーネと円明園
イエズス会の適応主義的芸術宣教
カスティリオーネが清の宮廷画家としての生活を始める前に、
我々はカスティリオーネがなぜ宣教師として清までたどり着く
ことになったのかを把握する必要がある。イエズス会の宣教師として清を
訪問したカスティリオーネの背景は、彼が見せる芸術宣教の
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学概論_円明園
重要な性格を説明しており、この説明は西洋楼の築造に大きく
寄与したカスティリオーネの心像を分析するのに役立つだろう。
イエズス会は16世紀に教会と教皇の権威を守り、
イエズス会は16世紀に教会と教皇の権威を守り
宗教改革者たちによって挑戦を受けたカトリック教会の威信を取り戻す
目的のために設立された修道会組織であった。この目的を達成するために
イエズス会は、他のどの修道会組織よりも宣教に積極的な性格を
帯びていた。聖地へ集まるのではなく、世界へ広がる
遠心的な宣教を基盤とし、イエズス会は対抗宗教改革とトリエント
公会議の宗教美学を巧みに活用して宣教の道具として用いた。
イエズス会は「この世のすべてに働く神を発見」しようと
アジア地域まで進出した。彼らは混乱したヨーロッパの宗教的
状況の中でカトリック教会の福音を伝えようとアジアへ
やって来た。そしてバロック様式が内包するカトリック教会の神学的象徴を
宣教地で重要な宣教のアイコンとして使用した(金相根他 2009,
206-212)。
このようにイエズス会がアジアで展開した近代的な宣教方式を
「適応主義」、「文化順応」、「土着化」などと呼ぶが、これらの用語は
すべて地域文化に福音を浸透させることを意味する(金恵敬 197)。
本稿の序論で述べたように、カスティリオーネもまた清の土着
芸術を理解し学習して、文化芸術の文脈の中で清の人々を
理解した。このような土着文化への理解は、彼の
宣教がイエズス会の適応主義的宣教方式に由来したためである。
神の福音を宣教地域に適した形で適用して
伝えること、それがイエズス会の宣教方式が地球の裏側のアジア
の地でも成功し得た秘訣である。そして
カスティリオーネの絵画は、このような芸術宣教を清
人々が抵抗なく実践するには十分に魅力的だった。
カスティリオーネの宮廷画家としての生活
カスティリオーネは、清に渡来した宮廷画家の中でも指折りの
優れた画家であった。清に来たイエズス会宣教師たちと深い友情を育んだ
康熙帝とは異なり、乾隆帝はイエズス会宣教師たちと個人的に
親密になろうとしなかったが、そのような皇帝と親しく交友があったと
考えられる二人の人物のうちの一人としてカスティリオーネが有力である
ほどである(Elliott 2010, 289)。
カスティリオーネは、彼がヨーロッパで学んだ西洋絵画法と
西洋式の絵画技法を清の皇帝たちに提供した。神が
創造した万物の姿をそのまま捉える幾何学的な写実性に
焦点を当て、現実的な色彩、遠近法、陰影法を適用した
リアルな絵画は、清の人々にとっては非常に新鮮な
芸術であった。しかし、カスティリオーネは西洋絵画法をそのまま絵に
適用することに満足しなかった。絵に適切な東洋的な
要素を混ぜ合わせ、どこか神秘的で異質な雰囲気を持つ東西の
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
調和をカスティリオーネが描き始めたのである。
図4はカスティリオーネが描いた絵である。子供たちと
従者たちに囲まれた乾隆帝の姿を、西洋絵画法と東洋的な
要素を調和させて華麗に描いている。乾隆帝と人々の
姿は遠近法と写実的な彩色を用いてよりリアルに
描かれている一方、周囲を彩る自然物の表現は
東洋の山水画法を取り入れて親しみやすい印象を与えている。
図4(出典:The Palace Museum)
比較的自由に円明園に出入りし、東洋美術と西洋
美術の調和を探求していたカスティリオーネであったが、清の皇帝
の下で働く宮廷画家であるという点が、かえって東西美術の調和に
制約を与えることもあった。フランスのイエズス会画家であり、清に
宣教師として赴任したジャン・ドゥニ・アティレ(Jean Denis Attiret)は、彼が
ヨーロッパに送った手紙「A Particular Account of the Emperor of China’s
Gardens near Pekin」の中で、宮廷画家としての生活がいかに制限的であるかを
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
記している。一度宮廷画家として入った宣教師たちは、再び清
の外に出ることが困難であった(Attiret 1742, 66)。これは清の
国内の国家機密が外部に漏洩するのではないかという恐れから
生じたものであった。彼らは清の皇室内で生活し、
一般の男性従者が出入りできなかった円明園にも出入りすることが
できた(Thomas 2009)。
また、西洋絵画法は皇帝が許容する範囲内で適用する
ことができた。皇帝の顔を描く際、本来中国では皇帝の顔に
影がかかってはならないと考えられていたため、カスティリオーネは影を
消すよう皇帝の命令を受けなければならなかった(Musillo 2006, 173)。
なぜカスティリオーネは西洋楼を描いたのか?
カスティリオーネが確かに有能な宮廷画家であったことは確かだが、彼の
実力ほど彼の画家としての生活が安楽で容易であったわけではない。
ヨーロッパから来た宮廷画家たちは公式な給与を受け取らなかったため、
中国の画家たちと比較して比較的画家生活への制約に
ペナルティが少なかったが、カスティリオーネほどの地位であれば、彼の
作品で皇帝を満足させるだけの責任は
負っていた。布教のために清に来たカスティリオーネの
宣教師としての生活は、不出来な絵一枚で解雇される可能性もあった
のである(Musillo 2006, 31-32)。もちろん、カスティリオーネは清で名誉ある
宣教師生活を終えることができた。しかし、強力な清の皇帝
の下で描く絵は、決して容易に描かれるものではなかっただろう。
このような状況下で宮廷画家としての生活を続けた彼に
乾隆帝は西洋楼の築造という途方もないプロジェクトを任せた。
カスティリオーネは実力ある画家であったが、建築分野においては
アマチュアに過ぎなかった。宮廷画家として逆らうことのできない皇帝の
カスティリオーネは、人間であるゆえに、このプロジェクトに数十年の歳月を費やした
完成させた。容易ならざる環境の中で、稀代の庭園を築き上げた。
しかも、東洋と西洋の要素を適切に調和させ、独特の印象を持つ
皇室庭園をである。私は、可能性の鍵を、清の皇帝の下という
ハード・パワー的な影響力と、芸術神学のソフト・パワー的な影響力の中で
解き明かそうとする。
カスティリオーネを中心としたイエズス会出身の宮廷画家たちは、
制約的な環境下にあっても、自らの使命が神の栄光に
貢献すると考えていた。特に、神の被造物をありのままに
描写する西洋絵画の性格がそうであった(キム・ジイン 2016)。この栄光のために、
宮廷画家たちは困難な状況下でも、イエズス会で学んだ芸術
知識を忘れず、清の土着美術と適切に調和させる適応主義宣教の真髄を示した。しかし、西洋楼
の築造は、画家として清に向かった宣教師たちにとって新たな課題であった。
彼らは建築のアマチュアであり、カスティリオーネは自身が想像し
描いたヨーロッパ風宮殿の姿を一つ一つ実現させながら、多くの技術者たちと共に
西洋楼を完成させた。このように完成した西洋楼が、乾隆帝の
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
文化収集にとどまらず、宣教師たちが望む宣教の効果まで
もたらしたかは定かではない。確かなことは、乾隆帝はひたすら
ヨーロッパ風宮殿の外観を収集したかったということであり、事実、その宮殿を
動かす西洋の科学技術には、さほど重きを置いていなかった。これは
乾隆帝が科学技術を軽視したというよりは、おそらく17世紀の中国
における反キリスト教論争の記憶によって、無意識的に避けていたのかもしれない。
乾隆帝はイエズス会の人々がキリスト教を自由に信仰することを
許したが、中国人自身がキリスト教を受け入れて信仰することに
関しては懐疑的な立場をとったからである(Lettre edifiantes, 22 (Etat
de la relogion en 1783): 219f.; キム・ジインの翻訳を参照)。
完成した西洋楼の顔
西洋楼の肖像
乾隆帝の文化収集家としての性向と、イエズス会の文化宣教方式との
適切な相性は、おそらく円明園内の西洋楼だけでなく、乾隆帝が
関心を示す文化収集品であれば、何でも円明園内に
取り込んだであろう。その文化収集品の一つがヨーロッパ式の噴水と
宮殿であり、宮廷画家カスティリオーネと天文学者ミシェル・ベヌア、
そして多くの協力者たちが西洋楼を完成させた。
乾隆帝とカスティリオーネが、それぞれの理由と事情で完成させた
西洋楼は、今もその残骸からかすかに見られるように、東洋と
西洋の建築的要素が混在していることを特徴とする。
アティレの手紙からも読み取れたように、乾隆帝は
カスティリオーネとイエズス会宮廷画家たちの実力を高く評価したが、
それが清で固守されてきた中国の文化遺産を損なうことを許しはしなかった。ならば、西洋楼の築造においても同様であったであろう。
ヨーロッパ風宮殿と噴水を円明園に複製するとしても、それが清の
皇帝である自分と、円明園に出入りする臣下の目にかなうように、
あれこれ手を加えざるを得なかったはずである。
カスティリオーネと設計者たちは、このような乾隆帝の性格を
知らなかったのだろうか?乾隆帝が寵愛した宮廷画家カスティリオーネは、乾隆帝の
好みも、そして清の文化芸術的美学も十分に認識していたであろう。また、カスティリオーネとイエズス会の文化宣教
方式は、一方的な文化伝達ではなく、土着芸術との調和を図る
方式を主軸としていた。乾隆帝の下で、カスティリオーネと
設計者たちが東洋と西洋の建築美学を適切に混用したのは、
ある意味当然の結果であったのかもしれない。
以下の図5、図6は、それぞれ西洋楼内で東洋と
西洋の要素が調和した代表的な建築物である。図5は
大水法(だいすいほう)であり、西洋楼内で主要な噴水景観を
成している。手前には菊の花を模した噴水があり、その中には
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
猟犬が東洋のノロを追う姿をした噴水が置かれている。
である。
図5(出典:元明園ウェブサイト)
図6(出典:元明園ウェブサイト)
図6は西洋楼の中で比較的現代までよく保存されて
いるという黄花陣である。黄花陣の前の迷路を抜けて中央部に
入ると、東洋と西洋を巧みに混ぜ合わせたような楼閣に出会う
ことができる。まるで中世ヨーロッパの貴族が暑さをしのぐ
石造りのパビリオンを彷彿とさせ、鋭く八角形の屋根を被せ
て、静寂な楼閣ならではの魅力を保っている
東洋の美意識を宿しているかのようでもある。
その他にも、先の図2で見せた海晏堂の十二支
の銅像など、西洋楼の至る所で東洋的要素と西洋的要素が調和
した建築物が完成された。当時描かれた西洋楼の完成図と
今日残る西洋楼の残骸を鑑賞すると、
シノワズリ(Chinoiserie)とエウロペネリー(Européenerie)の神秘的な
感覚が、奇妙な建築の妙味を示している。
乾隆帝は完成した西洋楼で休息、執務、宴会など多様な
日常を過ごした。しかし、このように美しく完成した西洋楼も
乾隆帝が即位当初からすぐに心に決めていたことではなかった。もう少し
正確に言えば、乾隆帝は西洋楼はおろか、円明園に新たな
建築物を増築したり、円明園を改造する計画を特に抱いていなかった
のである。円明園に対する乾隆帝の視点を理解するための一つの
優れた資料である「Later Record of the Garden of Round
Brightness」(1770)によれば、乾隆帝は次のように語っている。
彼は、自身が円明園の価値を損なうのではないかと度々
恐れを抱き、初期に新しい庭園を建築しようという提案が
あった際にも、乾隆帝は拒否していた。そうして父の古い
4. 乾隆帝とカスティリオーネの建築学入門_円明園
庭園で過ごしていた折、彼はふと悟ったことがあった。「皇帝には
自分だけの空間が必要だ」ということを。仕事と休息の
バランスを取る、父のものではない皇帝自身のものが
必要だったのだ(Zou 2005, 55)。
乾隆帝の西洋楼は、単に彼の文化収集力を誇示するため
に留まるのではなく、先祖が築き上げた世界を
絶えず拡張していく彼独自のプライド(pride)を物語っている。彼は
円明園を遊び、涼むための避暑山荘として認識せず、彼の
先祖たちがそうであったように、円明園を大切に管理したかったのである。
江南の名園を集めた小さな縮図である円明園に
ヨーロッパ風の庭園をもたらしたのは、先祖たちが開けなかった円明園
内、あるいは清朝の次の次元を開きたかったのではないだろうか?
西洋楼の残像
乾隆帝とカスティリオーネの神秘的な共同作業を誰もが快く
鑑賞したわけではない。乾隆帝の命を受けて西洋楼を
デザインしたカスティリオーネの活動を「ヨーロッパの様式を中国の帝国的な
趣味に合わせて変形」させる行為と見る偏見の視線もあった。イタリア、ゴシック、中国がすべて混ざった混成だと嘲笑する
ものなどがその例であった(Finlay 2007, 184)。西洋楼を実際に見たか
見ていないかにかかわらず、新しい建築物に対する当時のこうした保守的な
批判は当然の反応であったのかもしれない。ヨーロッパの建築様式を中国
現地に合わせて調和させ、ある程度変形したことも
事実であり、これが新しい美的均衡を見出したのかどうかについての
評価は、事実、乾隆帝だけに唯一委ねられていたからである。
同時代のヨーロッパ人たちは、自国で生まれた建築様式に
十二支、菊、ノロジカをあしらった挑戦を、十分に不自然で奇妙だと
感じることもあっただろう。
それでもなお、西洋楼は18世紀から21世紀
に至るまで、円明園の最も際立った特徴の一つであり、必ず
訪れるべき観光名所として注目されている。さらには、ほとんど
...
その多くが失われたこの建築物をなぜそれほどまでに探求するのかといえば、それは単に
「東洋にある西洋風建築物」あるいは「東洋的要素を内包した
西洋の建築物」という点において、十分に人々の心を動かす
ことのできる建築の断片となったからである。乾隆帝の時代にも
そうであったように、高度な審美的優秀性はさほど重要ではない。ただ、
地球の反対側の世界から魔法のように移された西洋楼が
神秘的なのである。
また、西洋楼は清代の乾隆帝治下の円明園を
示しつつ、同時にカスティリオーネが代表するイエズス会が残した
福音の証ともなる。カスティリオーネは清の皇帝の下で
宮廷画家として働き、自身に与えられた全ての逆境と課題が
神の栄光を高めることだと信じる宣教師であった。絵も、
建築も、乾隆帝の要求に合わせて完成させたところで、すぐに目
4. 乾隆とカスティリオーネの建築学入門_円明園
の前には金銀財宝が溢れ出るわけではなかった。ただ、自身が持つ
芸術という能力を神の召命のように捉え、神の
福音を知らぬ未知の地で、その意思を黙々と伝える
ことだけだった。
終わりに
乾隆帝の清とカスティリオーネのイエズス会が示した文化調和の
様相は、21世紀の我々の世界政治に馴染み深い模範となる。
特に日増しに深化する中国と西側諸国の鋭い対立の中で、
西洋楼は中国の領土に整然と位置する西側の文化を
燦然と示している。逆説的にも、その燦然たる西洋楼は21世紀に
近づくほどその姿を失っていった。それも18世紀には親しく
福音を伝えていたそのヨーロッパの人々によって西楼はその姿を
失っていった。
西洋楼の物質的側面、そして乾隆帝とカスティリオーネの心象を
覗き見る作業は、21世紀の主要な課題として浮上する「和解」の
側面において重要な役割を果たす。乾隆帝以前の17世紀
中国ではキリスト教と反キリスト教の論争があり、熱い論争
の後、18世紀の中国は新たな局面のキリスト教を受け入れたから
である。もちろん、この受容はキリスト教自体を宗教として受け入れた
わけではない。天下の秩序を乱し、中国社会に混乱を
引き起こす宣教であれば、乾隆帝はいつでも厳命を下しただろう。
ただ、西洋楼の美学は天子の心をも盗む魅力を
携え、長春園の北端に堂々と位置した。
西洋楼を完成させた乾隆帝とカスティリオーネの建築学は
複雑な設計図で編み上げられたと説明するのは難しい。むしろ、それぞれの
明確な目標を持った上で、その目標を貫徹しようとする二人の
相性の良さで片付けられるだろう。乾隆帝は
円明園をうまく拡張し、彼の文化収集家としてのリーダーシップを活用したい
と考えており、カスティリオーネは自身の能力が及ぶ限り神の
召命に従って宣教活動を続けていきたいと考えていた。そんな彼ら
の前に西洋の美しい建築物が風聞のように広まり、その
姿に魅せられた乾隆帝が話を切り出すと、カスティリオーネは普段通り
最善を尽くしたのである。もちろん、この瞬間が来るまで二人の
背景にはイエズス会の地域適応主義的宣教、乾隆帝のイエズス会
芸術活動への干渉など、多様な要素が存在する。それらの要素が
蓄積されて築かれた結果が、東洋の美学にも合致し、西洋の骨格を
よく活かした西洋楼の誕生であった。
本稿からさらに進んで、カスティリオーネとイエズス会が清に伝えた
新しい福音に対する中国の人々の反応はどうであったかについての
追加的な研究が必要となるだろう。イエズス会芸術に関する中国語
テキストに関する新たな研究がPaganiによって進められているが、
4. 乾隆とカスティリオーネの建築学入門_円明園
宣教地域が経験した宣教の結果に関する研究は依然として不足している。
イエズス会の適応主義宣教は、その宣教の方法が「地域への適応」に
あるという側面から、上記の研究を追加することで、乾隆帝と
カスティリオーネが描いた幽玄な建築の真価を堪能できるだろう。
である。
参考文献
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*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。