ハレシュタインとホン・デヨンとの出会い 高官相待
愛の部屋の若者たち、北京を抱く
ユ・ジヒョン · 延世大学
はじめに
出会いとは、私とは全く異なる他者と出会い、コミュニケーションをとることであり、私たちは出会いを
通して以前は知らなかった新しい自己を発見したり、あるいは
そこからさらに進んで他者の影響で新しく変化した自分を経験したりも
する。出会いとは、全く異なる二つ以上のものが組み合わさり、互いのものを分かち合い、
想像もできなかった変化を生み出し、以前は存在しなかった新しい
ものを創り出すことができるため、それ自体で高い価値を持つと言える
。
私たち一人ひとりの人生が無数の出会いの連続で成り立っているのと
同様に、過去から今日に至る世界史もまた無数の
出会いの連続で成り立ってきた。ある者は単純な好奇心から、
ある者はより良い人生を求めて、またある者は自身の使命を果たすべく
自身の生活の場を離れて他の世界を探求する中で、世界各地では様々な
3. ハレシュタインとホン・デヨンとの出会い_高官相待
出会いが実現されてきた。その数多い歴史的な出会い
の中でも、東洋と西洋の出会いは断然意味深く扱うべき出会い
の一つと言える。
東西洋の出会いが実現された時期は、今から16世紀
初頭に遡る。16世紀初頭、世界はポルトガルの大きな
成長と共に新たな局面を迎え、世界秩序はポルトガルを
中心に再編成された。グローバルパワーとして世界の中心に立った
ポルトガルは、植民地開拓を目的として活発な海洋探検活動を展開し、
その結果、ポルトガルはアフリカ、アメリカ、アジアなどの多くの大陸へ
新航路を開拓し、世界各地でその影響力を拡大させて
いった(Modelski 1978, 219)。新航路の開拓は世の中に多くの変化を
もたらした。拡大された海洋交通はポルトガル人に移動の自由を
もたらし、これは植民地事業と交易が大きく拡大する契機となることは
もちろん、宗教団体にも影響を与え、新大陸宣教事業の開始を可能にした
。16世紀初頭、ポルトガルを中心に世界秩序が再編成され、グローバル
パワーの新航路開拓が活発に進む中で、交易と植民地事業、宣教
事業を通じて東西洋の出会いが実現され得たのである。
様々な要素の複合的な相互作用により東西洋の出会いが成立する
中で、その中でも注目すべきはイエズス会宣教師たちの役割と
貢献である。貿易商たちの新しい市場と金への渇望が東西洋
交易の扉を開いたとすれば、イエズス会宣教師たちの福音伝播への情熱と
信念は、単純な経済的交流を超えて東西洋の深い文化的、
学術的交流を可能にしたからである。ヨーロッパから険しい航海を経て
未知の世界であるアジアへ渡ってきたイエズス会宣教師たちは、新大陸に
神の言葉を伝えようとした。宣教地の現地の人々と円滑にコミュニケーションを
とり、親しく接することではじめて福音を伝播できると考えた宣教師たちは、
まず現地の言語、文化、歴史を学び、彼らを理解しようと努力し、
次に現地の人々にヨーロッパの文物を共有し
教えることに力を尽くした。一言で言えば、イエズス会宣教師たちは、福音伝播という
彼らの究極的な目標の実現のために、その足がかりとしてまず
文化的、学術的交流に力を尽くしたのである。
では、東西洋の数多くの大小の出会いの中でも、ヨーロッパ
イエズス会と韓国の出会いはどのようなものであっただろうか。残念ながら、ヨーロッパ
イエズス会と韓国の直接的な出会いは実現しなかった。日本と中国の場合、
ポルトガル出身宣教師フランシスコ・ザビエル(Francis Xavier)を皮切りに
イエズス会宣教師たちの足跡が絶えず、早くから西洋と直接的な
交流を持ったが、韓国の場合は中国を通じた西洋との間接的な出会いが
すべてであった(申益徹 2013, 446)。さらに、中国北京でなされた韓国と
西洋の出会いは、朝鮮の使節団が北京を訪問した時のみ実現可能であり、
出会いの連続性が失われるのはもちろん、出会い自体も非常に
短くならざるを得ない限界点があった。しかし、たとえその出会いが
限定的であったとしても、その影響までが軽微だったわけではない。18世紀
当時、中国はイエズス会宣教師たちの知的な交流に助けられ、科学、数学、
天文学などの分野で大きな発展を遂げた。西洋宣教師たちの助けを得て
3. ハラーシュタインとホン・デヨン(洪大容)の出会い_高観象台
発展していく中国を見て、朝鮮の知識人たちも西洋学問に多くの
関心を寄せるようになり、北京を訪問する際には、耳でしか聞いたことのない西洋の文物
を直接体験できる絶好の機会としていたのである。そのため、北京を
訪問する朝鮮の使節団は、儀礼的に天主堂を訪問し、イエズス会
宣教師との出会いを持ち、その出会いの中で西洋の芸術、宗教、科学などの
文物に触れた。年に数回しかない燕行(北京への使節派遣)を通じて出会いがあったため、
出会いは非常に限定的であったが、出会いに対する期待する気持ちと姿勢が
格別であったため、北京における西洋と朝鮮の出会いは、朝鮮の科学と天文学に
少なくない影響を与えることができたのである。
日本と中国の学界は、自国とイエズス会宣教師たちとの接点
について活発な研究を進めてきた。もちろん、先の二カ国の場合、イエズス会
宣教師団と長期間直接的な出会いを持ったため、韓国と比較して研究
テーマが多く多様であるのは事実である。しかし、韓国もまた北京という
媒介を通してイエズス会宣教師たちと特別な出会いを持ち、それは当時の
朝鮮に少なくない影響を及ぼしたため、両者の出会いも詳細に研究される
必要性がある。したがって、本稿では18世紀の北京で
行われたイエズス会宣教師団と朝鮮使節団との出会い、その中でも
イエズス会の宣教師ハラーシュタインと朝鮮の実学者ホン・デヨンの出会いを考察する
その出会いの意味を考察したい。
二人の故人の出会いを詳しく見る前に、我が国18世紀
の歴史において、ハラーシュタインという西洋宣教師が持つ重要性について
少し触れたい。彼は天文学と数学に優れた学識を持っていたポルトガル出身のイエズス会宣教師で、その能力を中国皇帝から
認められ、中国皇室で長年仕えた。彼は中国の科学に計り知れない
影響を与えただけでなく、隣国朝鮮にまでその影響を及ぼし、朝鮮
科学の発展にも寄与した。彼の科学と天文学に対する学識が
並外れていたため、朝鮮の実学者たちはもちろん、朝鮮王である英祖(ヨンジョ)も彼の名前を知って
おり、英祖は朝鮮使節団が北京から帰還する際には、ハラーシュタインとの
出会いについて直接尋ねたという。しかし、このような彼の貢献に
比して、彼の名前は現代の韓国ではあまり知られていない。たとえ韓国の地に
足を踏み入れたことは一度もなく、北京を訪問した朝鮮使節団以外に韓国人と会って
交流したこともない人物であるが、隣国中国で韓国の先祖たちに
会い、彼らを通じて海を越えて韓国にまで影響を及ぼしたという点で
ハラーシュタインは、我々が知るべき韓国の歴史の一部であると言える
であろう。
両歴史的人物との出会いを再現するにあたり、ハラーシュタインとホン・デヨン(洪大容)の
二人の出会いについて直接記述した文献を一次史料とし、それに
加えて、二人の出会いに関連して既に行われた研究を参考にしたいと
思う。18世紀の北京で互いに出会うまで、ハラーシュタインとホン・デヨン(洪大容)は
どのような人生を歩んだのか、互いに異なる二つの人生の北京での出会いは
どのようなものであったのか、そして最後に、このような過去の出会いが現代の
我々に示唆するものは何かについて考察したいと思う。
3. ハラーシュタインとホン・デヨン(洪大容)の出会い_高観象台
出会い以前:中国・北京で互いに出会うまで
ハラーシュタイン
ハラーシュタインは1703年8月27日、スロベニアの首都
リュブリャナ(Ljubljana)で生まれた。彼はリュブリャナ・イエズス会大学を卒業した
後、1721年10月26日にウィーンでイエズス会に入会する。その後
彼は一方では人文学(Humaniora)、数学、神学などを学び、
他方では学生に文法と修辞学を教えながら20代を
過ごす。学びと教えを繰り返しながら20代を過ごしていた彼は1727年
10月8日、新大陸宣教活動に志願し、彼の願いは8年後
1735年になってようやく実現することになる。しかし、ついに宣教地へ
旅立つことができるという喜びも束の間、中国への旅は困難と
逆境に満ちていた。ハラーシュタインが乗船しなければならなかった船は、通常、旅客船
であった。
それは専用の貨物船ではなく、貨客船であった。船には多くの荷物が
積まれており、荷物が占めるスペースを除いた狭い空間を多くの
人々が共有しなければならなかったため、船上での生活は非常に不便であった。
さらに、船上では常に病気が流行し安全ではなく、
通過しなければならない航路の近くで戦争が起こる際には、進路を止め、ただ
状況が好転するのを待つしかなかった。しかし、これらの困難と
逆境も、ハラーシュタインの НОВЫЙ МИР への宣教の意志を挫くことはできなかった。彼は
中国へ向かう過酷な旅の途中でも、ポルトガル語と天文学を学び、
今後の宣教活動のために熱心に準備する姿を見せた(Saje
2009, 62-73)。
1735 年 9 月、中国宣教への熱望を抱いてヨーロッパを旅立った
ハラーシュタインは、3 年という過酷な時間の後、1738 年 8 月 25 日になってようやく
中国のマカオに到着した。マカオに到着した後、ハラーシュタインは
中国語の学習に没頭し、中国官吏の要請によりマカオとその周辺
地域を描いた地図を作成した。翌 1739 年 3 月 1 日、
ハラーシュタインは他の 4 人の宣教師と共にマカオを離れ、
北京へ向かった。彼が北京に到着した当時、北京には 3 つの
カトリック教会が存在しており(北天主堂の場合、当初は教会として認識されず
後に北堂と呼ばれるようになり、3 つのカトリック教会と共に教会として
認識された)、合計 34 人のカトリック宣教師が活動していた。そのうち
31 人がヨーロッパ出身であり、毎年年老いた宣教師たちが一人、また一人と
世を去り、彼らに代わって新しい宣教師が入ってくることで、全体の
宣教師の数と構成は毎年変化した。新しく入ってくる宣教師の
数は多くなく、1743 年までヨーロッパ宣教師数は 22 人に減少し、
その後も宣教師の数は増えず、1766 年には北京にハラーシュタインを
含めて 16 人のイエズス会宣教師しか残っていなかった。ヨーロッパ出身
宣教師を除いても、少数の中国人聖職者が宣教活動を行っており、
ロシア正教会団体も 1680 年代から北京で活動していたが
成功しなかったという(Saje 2009, 73-79)。一見したところ、1700 年代の
3. ハラーシュタインと洪大容の出会い_高観象台
中国は西洋宣教師にとって福音を伝えるのが容易ではなかった
環境であった。
ハラーシュタインによれば、当時の中国当局は宣教師たちを
疑っていたという。北京の人々は宣教師に対して警戒心を
抱いており、ごく少数の人々だけがカトリック信者に改宗したという。
キリスト教の慣習は許容されたが、このような宗教的寛容は、北京と
北京から 1 時間程度の距離にある周辺部にのみ適用され、他の地域での
宣教活動は厳しく禁止されていた。しかし、このように劣悪な状況
の中でも宣教活動は中断されず、宣教師たちとカトリック信者として
新たに改宗した人々に対する政府の迫害は日増しに苛烈になった。
宣教師たちは命を懸けなければならず、中国人キリスト教徒は投獄されたり
拷問によってカトリック信仰を否定することを強要された。体罰のほかにも
財産を没収されたり、中国から追放されたりするという脅迫を受けることも
あった。1749 年には中国各地で捕らえられた宣教師が死刑に
処され、ハラーシュタインは別の宣教師フェリックス・ダ・ロシャ(Felix da
Rocha)と共に北京に居住するキリスト教徒に宗教書や
絵画を配布したという容疑で告発された。二人は司法
裁判所に召喚されたが、皇帝の仲裁によりかろうじて罰を免れることができた。
しかし、イエズス会宣教師たちを苦しめたのは、単に宣教活動に
不利な中国の政治的状況だけではなかった。彼らの困難を増大させたのは、ローマ信徒団の不信と非難であった。ローマ信徒団は
実際の中国で起こっていることを十分に理解しないまま、中国に派遣された
イエズス会宣教師たちが宣教活動に消極的に対処していると非難し、
北京でキリスト教の慣習が厳格に守られていないことに対して不満を表明した。ハラーシュタインが北京に到着した当時、
全体的な状況はイエズス会が宣教活動を継続するには非常に劣悪であった。
北京の政治的状況が宣教活動に好意的でなかったことはもちろん、
イエズス会が宣教活動を続けるには、全体的な状況は非常に劣悪だった。
北京の政治的状況が宣教活動に好意的でなかったことはもちろん、
自分たちの頼りになる支援者であってほしいと願ったローマ教皇や信徒団から
支援を受けるどころか非難と叱責を受けたため、18世紀の北京での宣教活動は
困難にならざるを得なかった(Saje 2009, 80-82)。
しかし、このような劣悪な状況の中でも、イエズス会宣教師たちが
北京に残ることができたのは、第一に宣教師たちの優れた科学的素養
のおかげであり、第二にこれを見抜いた中国皇帝の先見の明のお
かげであったと言える。雍正帝の後を継いで王位を継承した乾隆帝は、
ヨーロッパ人が皇宮内では役に立つという父の助言を心に留め、イエズス会
宣教師たちを側近に置こうとした(Saje 2009, 80)。これはイエズス会宣教師たちにとって、中国で宣教活動を継続する
絶好の機会となったのである。17世紀に入り、中国は物理的世界と実用科学に大きな関心を示し始め、その
関心は特に学問的没落が著しかった天文学に集中された。ちょうど
北京に渡ってきたイエズス会宣教師たちは、単に天文学だけでなく、数学、
音楽、美術、機械学、建築、医学など、多様な学問分野に専門知識を
持ち合わせており、これらの彼らの強みは宣教活動のための道具として光を放った
のである(Saje 2009, 83)。中国皇帝はもちろん、高官たちも宗教と
関連してはイエズス会宣教師たちを遠ざけながらも、宣教師たちが持つ
学問的素養には大きな関心を持っていたため、ハラーシュタインを含むイエズス会
3. ハラーシュタインと洪大容の出会い_高官相待
宣教師たちは、福音伝播に先立ち、彼らからまず信頼を得るために
学問活動に積極的に参加したのであった。
実際に1644年から1775年まで清朝の朝廷で天文、暦算を
担当した欽天監の監正は、イエズス会宣教師の間で歴任された(申翊徹
2013, 453)。ハラーシュタインも中国皇室から劉松齢という
中国名を授かり、1743年12月、ポルトガル出身の宣教師アンドレ・
ペレイラが亡くなった後から皇宮の欽天監で働き始めた。その後、1746年5月6日、欽天監の総責任者であった
イグナティウス・コグラーが亡くなると、ハラーシュタインは
彼に代わって官衙の総責任者となった。イエズス会宣教師たちが皇宮
欽天監の総責任者を歴任したことは、一方では宣教師たちに中国
現地の人々から尊敬と信頼を得て、彼らと学問的に深く交流する
機会を提供したが、他方では意図せず現地
官僚たちから嫉妬や警戒心を招くきっかけともなった。
中国人官僚たちは、外国人の宣教師が長期間皇宮の高官を
占めていることに大きな不満を抱いており、宣教師たちの学問的
素養が皇宮の欽天監に大いに貢献しているにもかかわらず、彼らを
支持するどころか、彼らの名誉を失墜させて皇宮の外に追い出そうと
した。ハラーシュタインもまた、中国人官僚たちの嫉妬に満ちた策略に
苦境に陥ることもあったが、イエズス会宣教師たちの存在は単なる
策略によって危うくなるほど軽いものではなかった。彼らが中国学に与えて
いる影響は甚大であり、それゆえ彼らに向けられた皇帝の信頼は厚かった。
ハラーシュタインも他の欽天監責任者を務めた宣教師たちと同様に、中国
皇帝の寵愛の下、中国の天文学と科学の発展のために働き、1774年
10月29日に生涯を終えたという。
洪大容
澹軒(タムホン)洪大容(ホン・デヨン)は、英祖7年(1731年)の春、旧暦3月初めに忠清道天安郡
水信面長山里寿村(スチョン)で、父の洪易(ホン・ヨク)と母の清風金氏(チョンブム・キムシ)
の間に生まれた。権勢ある家柄に生まれた彼は、幼い頃から
不自由なく育ち、1742年、12歳になった年に石室書院に入り、
師の金元行(キム・ウォンヘン)の下で数学を始めた。代々官職に就いてきた
家柄に生まれたため、洪大容も当然、官職に就いて国事を務めるものと
思われていたが、彼は他の両班の子弟とは異なる志を抱いた。
官職を目指して章句(チャンク)を暗唱するような科挙の勉強よりも、四書五経を
研究する経学(キョンハク)の勉強に没頭したかったのである。そうして洪大容は、高学の勉強に
精進し、自身の10代、20代を過ごした後、1759年、29歳になった
年に、韓国歴史に長く残る科学発明品を作り始める。
洪大容は当時羅州牧使(ナジュ・モクサ)を務めていた父を訪問し、
そこで滞在する間に実学者であった羅景績(ナ・ギョンジョク)を知り、彼の
人格と科学知識に大きな感銘を受け、彼と共に渾天儀(コンチョンイ)と自鳴鐘(チャミョンジョン)の製作に
没頭する。父・洪易の財政的支援を基盤に、羅景績と共に
3年後の1762年に、二台の渾天儀と自鳴鐘を完成させた。洪大容は
...
没頭することになる。父ホンヨクの財政的支援を基盤にナギョンジョクと共に
3. ハルシュタインとホン・デヨンの出会い_高観象台
3年後の1762年に2台の渾天儀と自鳴鐘を完成し、ホン・デヨンは
これらを自身の故郷である水村部落に設置した後、農水閣と
名付けた(金兌俊、1988)。
幼い頃から官職を得るための科挙の勉強を避け、自身の
信念に従って独学と科学の勉強に精進した洪大容は、30代半ばで
北京旅行という人生絶好の機会を得る。1765年6月、叔父の
洪億(ホン・オック)が北京への遣清使の書状官に任命されたことで、
洪大容は叔父の補佐官の資格で北京への遣清に同行することができた
のである。早くから自身の確固たる信念に従って科挙の勉強を諦めた
洪大容にとって、北京への遣清とは、おそらく夢にも見ることのできなかった機会であったが、
幼い頃から共に遊び、後に成長してからは学問についての考えを
共有した洪億が自身を子弟軍官に推薦してくれたことで、北京への遣清の機会を
得ることができたのである。そうして使節団に合流した洪大容は、1765年
10月12日に水村を出発し、3日後にソウルに到着した。翌月11月2日
にソウルを出発し、12月27日に北京に到着した。1766年3月1日まで
約60日間北京に滞在し、1766年4月27日にソウルに
帰還した(Kim 2017, 505)。2ヶ月間北京に滞在する間、洪大容は
南堂(南の教会)を何度も訪れ、西洋の宣教師たちと交流し、北京市内を
観光中に窓から厳性、潘庭筠、陸費などの中国の学者たちと出会い、
友情を育んだ。
北京旅行から帰還した洪大容は、旅行記を記録した『談漢燕記』を
著し、中国の学者たちとの交流も継続して続けた。依然として官職には
関心がなかった洪大容は、李徳懋、朴斉家、朴趾源、丁若鏞などの
実学者たちと会って話すことを好み、同時に『医山問答』、『周海受容』などの
哲学小説や数学書を著した。40代後半に近づくと官職を得て
過ごし、1783年、53歳になった年に中風で亡くなったという。
出会いの実現:三度の出会い
このように、西洋と東洋という異なる文化圏で生まれ育った二人の人物は、
北京という接点で互いに出会うことになったのである。1765年12月
に洪大容が北京に到着した後、二人は1766年1月と2月を経て
三度の出会いを果たした。北京から朝鮮に帰還した洪大容は、
ハルシュタインとの三度の出会いを『燕行録』に詳細に記録し、
ハルシュタインはヨーロッパにいる家族に送った手紙に洪大容について
言及していると思われる文章を残した。二人が生前に残した文章を
基に、中国北京で行われたハルシュタインと洪大容の三度の
出会いを再現してみたい。
出会いが実現した場所:北京南堂
洪大容とハルシュタインの出会いが実現した場所は北京南堂であり、
18世紀に朝鮮の遣清使が北京を訪問する際には、儀礼的に立ち寄る場所
の一つであった。南堂は遣清使が滞在した玉河館から最も
近い距離にあった天主堂であり、宿所から近かったこともあって、朝鮮
3. ハルシュタインと洪大容の出会い_高観相待
使節団の訪問が集中したという。洪大容が北京を訪問した
当時、南堂にはハルシュタインとゴカイシュルが住んでおり、そうして
二人の出会いは、客と主人の関係から始まった。
北京南堂は、明の皇帝神宗がイエズス会宣教師マテオ
リッチのために17世紀初頭に建てられたと伝えられている。1610年に北京に
到着したマテオ・リッチは、当時の明の皇帝神宗に様々な西洋
物品を献上した。その中には地図、聖像、オルガン、自動時計などがあったが、
神宗は特に自動時計を気に入ったという。ところが、贈られた
自動時計が故障する事態が発生し、皇帝は自動時計を最初に贈った
西洋宣教師たちを呼び出して修理させたという。その足で皇帝は
再び自動時計が故障した場合に備え、北京に西洋宣教師たちが
滞在できる住居を設け、彼らを近くに置いたという。当時
神宗皇帝がマテオ・リッチと他のイエズス会宣教師たちに下賜した住居が
まさに今日の南堂である。1644年に明が滅亡し清が
成立した後も、南堂は依然としてイエズス会宣教師たちの住居として
使用された。西洋宣教師たちを重んじた清の皇帝は、イエズス会宣教師
アダム・シャールにマテオ・リッチが住んでいた南堂と共にその周辺を下賜し、
アダム・シャール宣教師は空いていた空間を活用して大きな聖堂を建てたという
(Goodnews, 2015)。17世紀から今日に至るまで、北京
南川堂は、毀損され再建される過程を繰り返し経て、昔のままの
姿を維持しているわけではないが、教会を訪れる人々の足は
絶えないという。
図1. 北京南川堂 (出典: Christians in China)
1766年1月9日 初めての出会い
多くの朝鮮使臣が北京に到着するやいなや南川堂を訪れた
ように、洪大容も北京に到着して数日後に南川堂を
見つけた。1766年1月9日、観象監の諏吉官、李徳成が
通訳官の洪明輔と共に南川堂を訪れた洪大容は、まず教会の
3. ハラーシュタインと洪大容の出会い_高観象台
内外の異国的な姿に神秘と奇異を感じた。建物
の中へさらに進むと、南川堂の主人ハラーシュタインと高ガイセルに
会った。彼らは皇室が下賜した中国名を用いて、それぞれ劉松齢と
鮑烏官と名乗った。二人の西洋宣教師に初めて会うのはもちろん、西洋人
そのものに初めて会った洪大容は、自身の燕行録に以下のように記録したが、
これはハラーシュタインの人物に関する唯一の記録であり、ハラーシュタインを
研究するスロベニアの学者たちの間でもよく知られている。
劉松齢は62歳、鮑烏官は64歳であったが、ひげと髪は
白いものの、顔色は若々しく、深く窪んだ目に
宿る瞳の輝きは人を射るようであった。まるで壁画で見た人物のようであった。
皆、頭を剃っており、衣服と帽子は清国の制度に従っており、
劉松齢は藍色の頂を、鮑烏官は暗白色の頂を被っていた。
劉松齢は三品、鮑烏官は六品であり、共に欽天監の
官職にあった。二人は共に中国に来てから既に26年が
経っており、数万里の遠路を航海し、福建に
到着してようやく上陸したという(劉鮑問答、1974)。
34歳の洪大容が62歳の劉松齢を見て、子供のように健康な
顔色と人を射るような輝きを持つ瞳を持っていたと描写したことから
、洪大容の目には劉松齢は、老齢にもかかわらず自己管理に熱心で、
考えや心が澄んでいる人物として映ったことがわかる。劉松齢と
鮑烏官の容貌を見て、教会の壁の至る所に掛けられた壁画の西洋人
たちとそっくりだと言った洪大容の言葉から推測すると、劉松齢と鮑烏官は
西洋風の容貌で、中国皇室の法度に則って清朝廷の衣服を身に
まとっていたと考えられる。
このように洪大容が北京から戻って、ハラーシュタインと高ガイセルの
人物を描写する文章を残したように、ハラーシュタインもまた、ヨーロッパにいる
弟に送る手紙の中に、洪大容や李徳成、洪明輔を描写したと思われる
文章を残した。
… They are strong, muscular, well-built people, and good soldiers.
They dress according to ancient Chinese customs, now in robes of
peace, now in those of war(Saje 2009, 347).
洪大容がハラーシュタインと高ガイセルの人物について比較的長い文章を
残したのに対し、ハラーシュタインは朝鮮の人々について上記のような短い二文を
残した。彼の目には、朝鮮の人々は筋肉質で体格が頑健な良い
兵士たちに映った。
洪大容が教会の内部を見てみたいと言うと、劉松齢は自ら
案内役を務め、教会の内部を見せてくれた。妙堂や教会の壁の至る所に
貼られた絵や、ヨーロッパから渡来した様々な品々を見て、
洪大容は西洋文物の奇異さと神秘さに心を奪われた。見学の途中、
ハラーシュタインは洪大容に、机の上に置かれていた書物一冊を
3. ハラーシュタインと洪大容の出会い_高観象台
開いてみるようにと手渡したが、そこには皇帝と后妃の福禄を祈願する文が
書かれていた。洪大容はこれをへつらいの行為と考え、道理に反する
恥ずかしい行為をむしろ自慢するハラーシュタインの姿に、大きな失望感を
隠せなかった。
劉松齢は、たとえ高齢で天文学や暦学に深い見識があったとしても、このように
道理に反しへつらう行為を自ら示し、外国の人に
自慢しようとするのは、極めて卑しく愚かで、遠い異国の風俗から
抜け出せていないことである(洪大容 2020, 352)。
洪大容は、ハラーシュタインが天文学に優れた見識を備えているだけでなく
自分たちに親切に接し、天主堂のあちこちを見物させてくれる
様子に、明らかに良い印象を得たことであろう。しかし、ハラーシュタインがこのように
好感の持てる姿を見せたにもかかわらず、道理に合わないへつらいの姿を
見せた時、洪大容は彼に大きな失望を感じずにはいられなかった。
誰でも、学びたいと訪ねてきた人が期待とは異なり、恥ずべき
姿を見せれば失望せずにはいられないように、洪大容も同様の
気持ちであったのだ。しかし、ここにはハラーシュタインに対する洪大容の
失望感とは別に、さらに注目すべきことがある。洪大容は
ハラーシュタインのへつらうような態度を見て、それを単に彼の
個人的な性向として解釈するのではなく、当時の風俗と結びつけて
批判した。これは洪大容自身の個人的な考えであったと言うよりも
当時の東アジアに蔓延していた時代的思想と関連があると言える。
朝鮮は過去から長きにわたり中国の天下秩序に隷属し、中国と
君臣関係を維持してきた。臣下の国家として中国に忠誠を尽くし
中華思想を深く受け入れ、中国を世界の中心とし、それ以外の
周辺部は蛮夷と見なし、中国の先進文明を伝え教え
啓蒙すべき対象と考えた。長きにわたり朝鮮の地に深く染み込んだ
中華思想は、16世紀に明の助けを得て倭軍を撃退して以来、その色がさらに
濃くなった。洪大容が、自ら見て好ましくないと感じたハラーシュタインの特定の
姿を個人的な性向ではなく西洋全体と結びつけたのは、まさにこのような
中華思想に起因すると見ることができる。ハラーシュタインを見る
洪大容の内心は、一言で言えば、彼の学問的素養は認め、敬服し
ながらも、彼が根を下ろしている西洋の文化はやはり蛮夷の文化として
劣等だと考えていたのである。
初日、洪大容は廟堂と壁に掛けられた数々の絵画を除いても
パイプオルガンと置時計を見物した。洪大容と他の二人の朝鮮使節は
一つを見たら、また別のものを見せてほしいと要求した。ハラーシュタインは
見せるのが難しいものもあるとして使節たちの要求を断ることもあったが
彼らは断りの意思表示にも容易に諦めず、さらに多くのものを
見せてほしいと絶えず請い続けた。これに対しハラーシュタインは不快な
色合いを見せたが、それでもなお最後まで頼み続ける洪大容と二人の
使節の頑固さに、お手上げの状態を見せることもあった。しかし
自分たちの寝室を見せてほしいという朝鮮使節たちの願いは、最後まで聞き入れられ
3. ハラーシュタインと洪大容の出会い_高官相待
なかった。洪大容と二人の朝鮮使節の度重なる要求と、時には無礼な
お願いに不快で気分を害することもあっただろうが、ハラーシュタインは最後まで礼儀正しく
彼らを丁重にもてなしたようである。洪大容の燕行録にも記されているように、
ハラーシュタインとゴカイゼルは初対面の後、宿舎へ戻る洪大容と二人の
使節を最後まで礼儀正しく見送ったという。
図2. ドイツ出身のイエズス会宣教師ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall
von Bell)(出典:Wikimedia Commons)
図3. 洪大容の肖像画(出典:NAVER知識百科)
3. ハラーシュタインと洪大容の出会い_高官相待
上記の図2と図3は、18世紀のハラーシュタインと洪大容の姿を想像する
のに参考となるよう挿入した人物肖像画である。ハラーシュタインの肖像画として
知られている絵画は見当たらないため、彼の肖像画の代わりにドイツ出身のイエズス会
宣教師ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベルの肖像画を挿入した。ハラーシュタインとアダム・シャール
の二人は共に中国滞在中、欽天監で働いたイエズス会宣教師であり、
詳細な顔立ちは異なっていただろうが、中国皇室の衣服をまとった姿は
似ていたと予想される。図3は洪大容の肖像画で、清の士人である厳聖が
描いたと伝えられている。
1766年1月19日 二度目の出会い
ハラーシュタインと洪大容の二度目の出会いは、初回の出会いから10日余り経った
19日に行われた。実は洪大容は初回の出会いから一週間も経たない
13日に、李徳成と共に南天主堂を再訪した。しかしその日
ハラーシュタインは仕事のため欽天監に出かけて不在であり、
ゴカイゼルは南天主堂を訪れた宰相級の大人たちをもてなしていた。
数えきれないほど、洪大容と李德成は次の会合の約束だけを取り付けたまま足早に
天主堂を後にした。
その後、19日に実現したハルシュタインと洪大容の二度目の会合は
最初の会合とは全く異なる雰囲気であった。最初に洪大容と李徳成、
洪明福が南天主堂を訪れた際、ハルシュタインは彼らを温かく
迎えてくれた。しかし、二度目の会見では、事前に約束されていた
にもかかわらず、会見を拒否する様子を見せた。
門番から19日に朝鮮の使臣たちが再訪する予定であることを
伝え聞いていたにもかかわらず、ハルシュタインとコガイセルは当日
南泉酒堂を訪れた洪大容と李徳成との会合を拒否した。洪大容と
イ・ドクソンが二度目の会見のために南天主堂を訪れた際、門番は
ハルシュタインとコガイセルが昨夜一晩中天を観測し、朝になって
ようやく就寝したため、まだ眠りから覚めていないと伝えた。
洪大容と李徳成は仕方なく、大人たちが寝室から出てくるのを
待ったが、しばらく待っても何の連絡もないため、貢物の目録を作成し、
門番に託して届けることにした。しかし、大人たちは以前受け取った貢物に対する
返礼もできていないため、これ以上受け取ることはできず、今日は疲れているため
疲れているので会えないので、また後日訪れることを頼んだ。洪大容が
門番を通じてもう一度面会を要請したが、返ってきたのは今日は
会えないという返事ばかりだった。最後に洪大容は次のような短い
文章を書いて門番に大人たちに届けるよう依頼した。
我々は高い徳を慕い、学ぶことへの熱意があるにもかかわらず、
二度目の訪問にもかかわらずお会いできず、どのような罪を
得てしまったのか、恥ずかしさを抑えきれません。どうか、長き別れを告げ、
お伺いしないことをお許しください(洪大容 2020, 446)。
3. ハルシュタインと洪大容の会見_天文台
メモを受け取ったハルシュタインは心を変え、洪大容とイ・ドクソンに
会うために急いで外に出てきた。ついに内室で向かい合った洪大容と
ハルシュタインは、二人とも中国語が堪能でなかったため、天主堂に滞在していたある
学者に助けを借りて、筆談で話すことにした。二人は天主教と
天文学について語り合った。洪大容は天主教が崇拝するものを
尋ねたところ、ハルシュタインはこれに対し「天主の学問は人を教え、
天主を愛し、人を我が身のように愛させる
ものです」と答えた(洪大容 2020, 447)。続いて洪大容は自身の
主な関心事である天文学についての話を始めた。彼は
自身が渾天儀を模倣して作ったものの問題点が多かったとし、
北京にある儀器を見学できるか尋ねた。
ハルシュタインは、天文台には様々な儀器があるが、出入りが厳しく
統制されているため、外部の者は立ち入れないと述べた。代わりに、彼は天主堂に
ある渾天儀と望遠鏡を見せ、一つでも多く学んでいこうとする
洪大容の熱意に応えた。日が暮れ、洪大容とイ・ドクソンは持参した
貢物を残し、去る前にハルシュタインと次の会見を再度
約束しようとした。ハルシュタインは今月1月にはこれ以上余裕のある日が
ないため、来月訪問するようにと頼んだ。そうして南天主堂を
後にし、イ・ドクソンは洪大容に、西洋の宣教師たちから歓待されなかった
残念な気持ちを以下のように表現した。
以前は天主堂の人々が我が国の人々を見ると、最も歓迎し、
もてなす料理は極めて豊かで、時には西洋の産物を惜しみなく贈る贈り物も
少なくなかったが、最近では我が国の人々のしつこさを迷惑に思い、
もてなしがこのように疎かになったのは、憤慨に堪えない(洪大容 2020, 453)。
1766年2月2日 三度目の会見
イ・ドクソンと共に再び南天主堂を訪れた洪大容は、ハルシュタインと再び
内室で向かい合った。今回もやはり、仲介役を務める学者を
呼び、彼が内室に到着するのを待つ間、ハルシュタインは
洪大容に朝鮮について尋ねた。対馬と釜山の位置について
尋ね、朝鮮と日本にもゼンマイ仕掛けの時計があるか尋ねた。学者が
内室に到着した後、イ・ドクソンと暦の作り方について短い議論を
交わした。その後、洪大容はハルシュタインに頼んで西洋の
数学書や筆、ゼンマイ仕掛けの時計、羅針盤を見学した。日が暮れ、洪大容と
イ・ドクソンは帰る準備をしながら、まもなく帰国するため、今日が最後の会見になると
と伝えた。ハラーシュタインは少しの寂しさも見せず、
先日受けた接待への返礼として、西洋から渡来した品々を
洪大容(ホン・デヨン)と李德成(イ・ドクソン)に分け与えた。最近、西洋との往来が少なく、
ささやかではあるが返礼であると付け加えた。李德成は王命を受け、
暦法を詳しく学び、儀器と書冊を入手して朝鮮に持ち帰ろうと
3. ハラーシュタインと洪大容の出会い_渾天儀
したが、協力的でないハラーシュタインの態度に、やむを得ず手ぶらで
帰るしかないと考えた。
図4. 17世紀ベルギー出身のイエズス会宣教師フェルディナント・
フェルビースト(Ferdinand Verbiest)が描いた渾天儀(出典:UNESCO
Astronomy and World Heritage Webportal)
出会いについての評価
先に、ハラーシュタインとの三度の出会いを詳細に記録した洪大容の
『燕行録(ヨンヘンロク)』を基に、二人の出会いを考察した。では、二人の
出会いはどのような出会いと評価できるだろうか。洪大容の記述から、難なく
見て取れるように、二人の出会いは愉快な出会いというよりは、
残念さと気まずさで満ちた出会いであった。南泉寺(ナムチョンジュダン)という一つの空間に
共にいながらも、互いの心は全く別の場所を向いており、
互いの気持ちを慮ることができなかった二人の出会いは、終盤になるにつれて
楽しさは失われ、気まずさと残念さでいっぱいになった。そもそも南泉寺を
訪問した洪大容の一行は、イエズス会宣教師を通じて西洋について
可能な限り多くのことを聞き、学びたいと考えていた。特に、彼らは天文学に多くの
関心を寄せていたため、当時の清朝の欽天監(きんてんかん)で総責任者を
務めていたハラーシュタインと、可能な限り頻繁な面会を希望していたのである。
しかし、残念ながらハラーシュタインの気持ちは彼らと同じではなかった。
彼らに良い師となって多くの教えを伝えるには、ハラーシュタインは
清朝の政務と南泉寺を訪れる絶え間ない訪問客の足で、忙しい
日々を送っていた。しかし、ハラーシュタインがそもそも洪大容と
他の朝鮮使節との面会を避け、敬遠していたわけではなかった。彼が
ヨーロッパにいる弟に送った手紙を見ると、彼も一度も
訪れたことのない朝鮮と日本に多くの関心を寄せており、洪大容
一行に朝鮮と日本について少なくない質問を投げかけていたことがわかる。
しかし、これはハラーシュタイン個人の関心事であったに過ぎず、洪大容と
3. ハラーシュタインと洪大容の出会い_渾天儀
残りの使節団と共有していた関心事では当然なかった。朝鮮と
日本について知りたがるハラーシュタインの気持ちを慮り、自国と
隣国について親切に詳しく説明することもできたはずだが、洪大容と
その一行は、相手の気持ちを慮るどころか、自分たちの疑問を
解消することに汲々としていた。以下は、ハラーシュタインが北京からヨーロッパの
弟に送った手紙の一部で、洪大容を含む朝鮮使節と推定される朝鮮人たちに対する
彼の考えが記されている。
Your Eminence also asks what news we have from Japan of the
Christian faith. I answer that we have none at all. Although Japan is
very close, here there reigns such silence about it as if it did not even
exist. Delegates arrive from Siam, Cochinchina, Vietnam, and from
Liuqiu (or Riukiu), that is, islands between the Philipines and Japan.
Koreans arrive each year, but no one has ever come here from Japan.
The Koreans say that on a clear day they can see the Japanese
mountains, though they know nothing about Japan; nearer to the truth
is that they do not wish to say anything, as they are the craftiest people
under the sun. Though they will pose questions for an entire hour, they
never answer a single one. When they visit our house, and they always
visit it immediately when they come to Peking, they first demand ink
and a writing instrument. Because none among them knows how to
speak Chinese, they communicate in writing. We answer them through
a servant. They often pose well-founded questions about astronomy. If
I tell them to leave their questions that I will respond to them via
express courier, they do not want to leave a single written character,
and often prefer to return. They are strong, muscular, well-built
people, and good soldiers. They dress according to ancient Chinese
customs, now in robes of peace, now in those of war. It was never
possible to subjugate them, yet neither could they unburden
themselves of yearly taxes. I would write more if I did not fear
interruption by the courier demanding the letter. In Peking, October 6,
1757, at midnight(Saje 2009, 347).
洪大容(ホン・デヨン)とその一団がハルシュタインから西洋の進んだ天文学の知識を
学ぼうとしたのであれば、ハルシュタインは彼らを通じて日本に関する状況を
少しでも知りたいと願ったであろう。書簡抜粋の冒頭部分から推測できるように、
当時イエズス会の宣教事業は中国だけでなく日本でも
行われていた。しかし、日本の場合は17世紀初頭に徳川幕府が
成立して以来、キリスト教に対する過酷な弾圧が始まり、徹底した
監視により、全ての宗教儀式と布教活動は秘密裏に行われなければならなかった。
さらに、1635年には外部との断絶を宣言する
鎖国令が下され、日本と西洋との往来はほぼ断絶し、
その結果、外部からは日本の宣教事業について伝え聞く術がなかった
のである。当時の中国での宣教事業も順調であったとは言えないが、
3. ハルシュタインと洪大容の出会い_観象台
日本の宣教状況と比較して比較的自由であり、西洋との
往来も依然として維持されていたため、ヨーロッパのイエズス会は、北京にいるイエズス会
宣教師を通じて日本の宣教状況に関する小さな便りでも聞くことができることを
希望したであろう。こうした理由だけではなかった。
ハルシュタインもまた、新大陸での伝道事業に深い関心を持っていた人物であり、日本の
状況に関する便りが気にならないはずはなかった。そこで洪大容や他の
朝鮮使節に会った際、日本に関する便りを尋ねて伝え聞こうとしたが、
書簡にあるように、彼らはまともな返答をしなかったという。
自分が知りたいことについては、一時間も絶えず質問を
投げかけていたにもかかわらず、ハルシュタインが尋ねる質問には、一つとしてまともに
答えることができなかったのである。ハルシュタインは、こうした朝鮮使節の
態度に気分を害したのか、彼らを「天の下で最も狡猾な
人々」と表現することさえあった。
洪大容とその一団がハルシュタインの質問にまともに答えなかった
理由は、おそらく故意の意図があってのことではなく、
西洋の文物について可能な限り多く聞き、学んでいこうとする気持ちが
先行したためと思われる。李徳成(イ・ドクソン)の場合、観象監の役人として西洋の進んだ
天文学について学んで帰る任務があり、洪大容はたとえ観象監の
官職にあったわけではないが、個人的に天文学に深い関心を寄せていたため、
二人とも学ぼうとする意欲が先行したのである。そうして
ハルシュタインの気持ちは顧みられることなく、自分たちの疑問の解決にのみ
集中した結果、ついにハルシュタインの気持ちを害し、ハルシュタインの
ぶっきらぼうな態度に自分たちの気持ちも害されたまま、会見を終えることになった
のである。
洪大容の文章を見ると、ハルシュタインは会見中、絶え間ない朝鮮
使節の要求に不快な色を隠さなかったが、それでもなお、
彼らの要求を断固として拒否する姿勢は最後まで見せなかった。それどころか、
彼は弟に送る書簡の中で、洪大容と李徳成が持つ
天文学的知識を称賛する様子を見せているが、洪大容と
李徳成がハルシュタインの気持ちを少しでも汲み取り共感してくれていれば、
この三度の会見は全く異なる様相を呈していなかっただろうか。清朝の
朝務で忙しいとは言え、洪大容とその一団が気に入ったのであれば、忙しい
合間を縫って彼らに自身の天文学的知識を伝えようと
努力しなかっただろうか。ハルシュタインと洪大容の出会いは、互いに異なるものに
関心を寄せていただけでなく、その違いを互いに汲み取り共感することができなかった
という点で、残念な出会いであったと評価できるだろう。
おわりに
「驚異的」という形容詞よりも、ハルシュタインと洪大容の北京での出会いを
より良く表現できる形容詞はないだろう。遥か遠いスロベニアの
地で生まれ、海を越え山を越えて北京に到着したハルシュタインと、早くから
科挙の勉強を諦め、自分だけの勉強をしていたが、叔父のおかげで北京への赴任が
3. ハルシュタインと洪大容の出会い_観象台
現れたホン・デヨン、この二人の出会いは奇異である。あらゆる交通手段が
発達した今日であればともかく、遠い昔18世紀にスロベニア人と
韓国人が第三国である中国で出会ったということは、深く考えると
ますます奇異と言わざるを得ない。決して容易に実現し得ない出会いであったため、
二人の出会いは非常に貴重であったが、惜しい点が数多く残った。同じ空間に
いたにもかかわらず、一方は宣教に、他方は天文学に関心を向けたため、二人の
間には共感や喜びよりも、不快感や残念な気持ちの方が多かった。ホン・デヨンが
玉泉寺で気の合う中国の学者たちと出会い、朝鮮に帰ってからも彼らと
縁を繋いでいったように、もしハルシュタインとも互いに気が合って
天主堂で楽しい時間を過ごすことはもちろん、朝鮮に帰ってからもその
縁が継続されたとしたら、二人の出会いは我が国にどのような影響を
与えただろうか。もしかしたら18世紀の我が国の歴史にも、西洋宣教師たちの
直接的な痕跡が残されたのではないだろうか。
一人の人生が無数の出会いの連続によって作られるように、
今日私たちが生きている国際社会もまた、無数の出会いの
連続によって形成された。過去から今日に至るまで国際社会で
行われた数多くの出会いの中には、協力と平和をもたらした出会いもあれば、
一方で憎しみや戦争を煽る出会いもあった。私と異なる他者に出会い、コミュニケーションを
とるという点で共通点を持ちながらも、無数の出会いが最終的に全く異なる結実を
結ぶのはなぜだろうか。その違いを生み出す核心は、おそらく出会いに参加した私と
他者の存在を認め、さらにそこから踏み込んで、二人の調和的な
共存のために努力しようとする意志の有無であろう。18世紀に行われた
ハルシュタインとホン・デヨンの出会いには、様々な点で惜しい点が多かったが、この
出会いを参考に、今後韓国は西洋はもちろん、国際社会内の他の
他者たちとも、より良い出会いと縁を築いていくために絶えず努力しなければならない
だろう。相手が私と異なることを認め、その心を推し量ることを
少し集中すれば、彼らとより一層良い関係を築いていけると
考えられる。
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『清朝宮廷におけるイエズス会士の知恵と敬虔の多文化的遺産』. マリボル;リュブリャナ:文化・教育協会キブラ;スロベニア共和国記録保管所.
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「北京のカトリック教会訪問の経験と、北京旅行記に反映された西学の認識」. 『韓国学レビュー』 9
『韓国学レビュー』 9 (4), 11-31.
『韓国学レビュー』 9 (4), 11-31.
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3. ハルシュタインと洪大容の出会い_高観象台
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「アジア哲学・宗教」 25 (1), 38-42.
「アジア哲学・宗教」 25 (1), 38-42.
*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。