← 戻る · ← ホーム · ← 一覧に戻る

トーマス・グラバーと長州五傑

EAIサロン第11期九州視察記:九州からアジアの未来を夢見て

カテゴリー
EAI サラバン訪ね歩き
発行日
2019年1月24日
sarangbang_11_ch2_cover.png
sarangbang_11_ch2_cover.png

グラバー園、李松隠、延世大学校

グラバー園、日本の近代化の出発点

夕暮れ時に到着したグラバー園( グ ラ バ ー 園 、 Glover park)の眺めは平和で美しかった。グラバー園は16世紀後半、大西洋の波を越えて夢を抱いて長崎に来た外国商人の生活と哀歓が込められた場所である。ヨーロッパや中国から多くの人々が訪れたこの地は、19世紀日本の開港と共に日本の最大の貿易港として発展する起点となった。長崎は、横浜、函館と共に日本の主要な開港地であり、日本の華やかでありながら異国情緒あふれる場所として多くの観光客が訪れる場所でもある。長崎港が見下ろせる丘の上に、日本瓦に覆われた西洋風の建物と並んで長崎外国人居留地が誕生した。その地で新しい歴史を刻んだグラバー園には、スコットランドの貿易商トーマス・ブレイク・グラバー(Thomas Blake Glover, 1838-1911)の邸宅をはじめ、3つの国指定重要文化財の住宅、そして長崎市内の貴重な西洋建築物を見ることができる。3つの国指定重要文化財であるグラバー邸、旧オルト住宅、旧リンガー住宅は、150年以上そのまま保存されている貴重な遺産である。この三つはいずれも国指定重要文化財として、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産に登録されている(グラバー園ホームページ 2018年12月25日)。

グラバー園は日本の

グラバー園入口
グラバー園入口

美しく景色の良い観光地として知られる西洋商人の大邸宅ですが、その歴史と隠された物語を知って眺めると、政治、社会、文化、経済など多様な分野を網羅する壮大な邸宅として見ることができるでしょう。それでは、日本近代化の出発点であるグラバー園を、一歩一歩歩みながら、その壮大な

邸宅の中に隠された物語を探ってみましょう。その起点から、韓国の若い友人たちである「サラバン12期」と日本の若い青年たちである「長州五傑」との出会いを通して、日本の近代化と、その岐路に立つ青年たちの物語を共に聞いていきたいと思います。

武士の国から産業国家へ、明治維新

2018年、日本の明治維新は150周年を迎えました。私たち「サラバン12期」が訪れた長崎の各地で、日本の明治維新150周年記念行事が開催されていました。明治維新は、日本の社会、政治、文化の多様な分野で重要視されている日本の改革であり、政治的根幹として日本社会を理解する上で中心的な役割を果たしています。明治維新とは、実質的な権力を握っていた武家政権である江戸幕府(1603~1867)を倒し、近代国家を樹立した、日本で起こった政治・社会的大変革の過程であり、当時の朝鮮の甲申政変、ベトナムのドンズー運動など、アジアの多くの国々がベンチマーキングしようと努力したほど、東アジア社会に大きな影響を与えた事件として知られています。では、明治維新が日本社会で

明治維新150周年
明治維新150周年

持つ意味は何でしょうか?明治維新当時の時代背景をまず見てみると、17世紀初頭から百余年にわたり鎖国政策を維持してきた江戸幕府が、1853年にアメリカ東インド艦隊のペリー提督が武力誇示をもって開国を要求したことで、幕府の政策は揺らぎ始めました。堅固に維持されると信じられていた幕府政権の揺らぎは、すなわち日本社会の変化の始まりと見ることができます。幕府はこの状況に対し独断的な決定ができず、朝廷と各地方の領主である大名に助言を求めましたが、朝廷と大多数の大名は開国に

反対していました。しかし、当時の幕府最高実権者である井伊直弼は、1858年に「長崎幕末

維新史」

開国反対派を弾圧し、孝明天皇の勅許なしに西洋列強と通商条約を締結しました。

危機に際して強圧的に政策を進める政府には反発が生じるのは当然でしょう。このような幕府の動きに反発し、天皇を尊び外国勢力を排斥する「尊王攘夷」運動が長州藩(藩:江戸時代に一般的に使われた行政単位)を中心に起こり始めます。幕府はこれに対し、尊王攘夷派を弾圧するために死刑や流刑などの処罰を強行しましたが、幕府政府に対する敵意を高めるだけでした。このような状況で井伊直弼が尊王攘夷派に暗殺されると、政局は混乱に陥り、朝廷と志を同じくする尊王攘夷派と幕府との間の意見対立はさらに激化しました。これに対し幕府は、朝廷と幕府に二元化された政治構造を一つに統合する「公武合体論」を提示することもありました。それにもかかわらず、孝明天皇は「幕府が攘夷策を放棄するならば、その時は天皇自らが攘夷のための親政を行う」と表明し、幕府の攘夷実行を強く要求しました。結局、幕府は1863年5月10日、すでに通商条約を結んでいた西洋各国までも排斥する攘夷を実行することを約束しました(大学新聞2018年4月8日付)。

実際、幕府は実際に攘夷を実行する計画はなく、長州藩は単独で開国に反対しました。このような過程で薩英戦争、下関戦争などの日本の大きな戦争が起こりますが、結局すべて敗北しました。

このような観点から、日本はなぜ近代化が必要だったのでしょうか。半世紀で国家を変革させ、産業国家としての基礎を築いたことは、世界史上、地理的にも時代的にも非常に稀なことです。このように、日本が武士の国から産業国家へと進んだ理由は何か?日本は「強国の脅威から日本を守らねばならない」という思いが近代化の原動力となることで、急速に近代化が加速し、明治維新が施行されるに至りました。また、1840年に起こったアヘン戦争で清国が敗戦したという知らせは、日本にも早く伝わり、大きな衝撃を与えたため、このことを契機に

「海を自由に駆ける蒸気船と、遠くからでも攻撃できる大砲を

持ち、大国である清国でさえ勝てない相手ならば、日本は一刻も

早く滅びるだろう。」(長崎観光推進課2018, 2)

という強い危機感を感じるようになりました。また、アヘン戦争後に書かれた清国の学者である魏源の『海国図志』(中国と西洋の地図、歴史、西洋の技術などを解説した書)が日本に伝わると、日本の各藩にも強い危機感と改革の動きが一層大きくなりました。これらの出来事は、江戸時代末期に活躍した吉田松陰、佐久間象山、勝海舟、坂本龍馬などの志士たちにも多大な影響を与えたと知られており、この時代を起点として日本の近代化が急速に加速しました。

この中心には、イギリスの技術を日本に導入したトーマス・ブレイク・グラバーがいます。蘭学書などを頼りに産業化を目指して努力していた武士たちにとって、強力な支援者が現れたのです。グラバーは21歳という若さでしたが、生まれ持った商人としての才能のおかげで、23歳でグラバー商会を設立しました。船舶の往来や、すぐ目の前に建設された長崎製鉄所を見ることができるこの場所は、多くの外国人が訪れ、産業化を目指す武士たちにとっても最新技術の情報を得られる重要な場所となりました。

グラバー邸から見た長崎港
グラバー邸から見た長崎港

混乱期の日本におけるグラバーの洞察:「見聞覚知」の

重要性

1859年、日本は神奈川、長崎、箱館の3港を開港しました。これは1858年の日英修好通商条約の結果でした。日英修好通商条約は、イギリスと江戸幕府の間で締結された、イギリスと日本の両国間の通商に関する条約です。この条約は、日本が結んだ不平等条約の一つであり、これを機にこの年の9月、グラバーはマッケンジーの部下商人として長崎に到着します。

グラバー園に展示されていた漫画 日本訪問2年後、ジャディン・マセソン
グラバー園に展示されていた漫画 日本訪問2年後、ジャディン・マセソン

イギリス青年グラバーが到着した日本はどのような状況だったのでしょうか?すでに開港期の長崎は巨大な貿易市場へと変貌しており、この時期には約150人の外国人が居住していました。外国人の大多数はイギリス人であり、グラバーはこの当時、貿易商人として経験を積んでいきました。グラバーは

「1859年のグラバー」

商会の長崎支店長としてトーマス・グラバー商会を設立しました。続いて、デント商会、サッソン商会などの大手商社ともエージェント契約を結び、1862年にはアーノルド商会、ブレインテート商会ともパートナー契約を結びました。その後、グラバー商会と名称を変え、茶の再生工場を運営し、茶の輸出を主な業務としました。1863年から1865年頃、グラバー商会は長崎からの茶輸出量の20~30%を占めるまでになり、発展の基盤を築きました。グラバーが日本に来た時には、すでにいくつかのメーソン系商社が存在していました。いずれも幕府と緊密な取引をしていたため、グラバー商会が入る余地はなく、民間事業として茶の輸出から商売に着手しました。この当時、グラバーの立場としては、事業を実行する上で様々な障害があり、多くの苦難と逆境を経験したと言われています。しかし後に、このようなグラバーの政治的結託が、その後の人生を変える決定的な契機となります。やがて江戸幕府末期の志士たちとの関わりで、反幕府的な他の藩への武器・弾薬、艦船の販売へと事業内容を変更していきました。武器商人として活躍するようになったグラバーは、積極的な貿易で莫大な富を築きながら、フリーメイソンの思想である自由、平等、博愛を、勤王の志士たちに育んでいきました。このような思想を最も深く共有したのは坂本龍馬でした。

グラバー園に展示されていた漫画
グラバー園に展示されていた漫画
グラバー園に展示されていた漫画
グラバー園に展示されていた漫画

グラバー商会とグラバー邸の設立 グラバーの人間関係図また、グラバーは1866年、日本人の妻ツルと結婚しました。ツルはオペラ『蝶々夫人』のモデルとしてもよく知られています。着物姿の日本女性として、夫グラバーのために生涯を捧げたと言われています。この良き妻がいたからこそ、スコットランド出身のグラバーは日本の近代化に驚くほど多様な功績を残すことができたと評価されています。

このような背景のもと、グラバーは日記を通して、日本の若い青年たちが西洋の文物を積極的に受け入れる必要性を説きました。

Glover believed in the importance of getting the brightest young

Japanese to the West to see for themselves the technical and other

advances; it is clear that he felt this the best way forward, that on their

return the rebels would be the best advocates of change and be listened

to more than any foreigner(Alexander Mckay 2014, 48)

このような信念のもと、グラバーは後に広く知られることになる日本の若い青年「長州五傑」をイギリスへ留学させる上で、大きな役割を果たしました。

グラバーの策略:複雑な現実の中での青年たちとの交流

では、グラバーはどのようにして日本の若い青年たち、すなわち長州五傑をイギリスへ留学させたのでしょうか?また、この五傑はどのような人物なのでしょうか?

長州五傑。上段左から遠藤
長州五傑。上段左から遠藤

まず、長州五傑(ちょうしゅうごけつ)とは、長州藩が1863年にイギリスのユニバーシティ・カレッジ・ロンドンへ留学させた遠藤謹助、井上勝、伊藤博文、井上馨、山尾庸三の五人を指します。当時の日本は鎖国令により、日本を離れて海外へ旅行することが禁じられていました。彼らはイギリスで

アレクサンダー・ウィリアムソンの指導のもと

謹助、井上勝、勉強しましたが、このうち二名は日本の

伊藤博文。前列左から

有力な政治家となりました。井上

井上馨、山尾庸三

馨と伊藤博文です。その

当時日本は鎖国令により

日本を離れて海外へ旅行することは禁じられていました。彼らはイギリスでアレクサンダー・ウィリアムソンの指導のもとで学び、そのうち二名は日本の有力な政治家となりました。井上馨と伊藤博文です。長崎港を見下ろすグラバーの邸宅は、勤王志士たちの隠れ家ともなりました。特にグラバーは、このような長州五傑士や後の実業家たちを支援し、彼らはその後の日本を動かす重要な人物となり、明治政府実現の陰で功労者ともなりました。彼ら全員がグラバー邸に深く出入りしていたことが明らかになっています。

グラバー邸内の隠し部屋
グラバー邸内の隠し部屋

史料によると、1863年9月、生麦事件の報復としてイギリス艦隊が鹿児島湾に侵入し、薩英戦争が勃発した際、長州五傑士はグラバー邸に潜伏していたとも伝えられています。この時、長州五傑士は松木弘庵(寺島宗則)と共に指揮していた蒸気船3隻を拿捕され、船を焼却され、捕虜となっていました。その状況に激怒した東藩士の命を狙い、長州五傑士は一時的に新築されたグラバー邸の屋根裏に隠れていたと伝えられています。

このような状況の中、グラバーは幕末の開国運動を推進する志士たちを支援し始め、明日の日本を担う逸材と交流を始めます。グラバーは、長州藩の若いエリートであった伊藤博文(当時23歳)、井上馨(29歳)ら5名にイギリス留学を斡旋しました。陸奥宗光、黒田清隆らとも交流していました。長州五傑士を中心とした薩摩藩の19名の視察団を密航させ、その資金援助を行っていました。アレクサンダー・マッケイによれば、若い薩摩藩士を密かに出国させるための手配をするために上海へ向かい、五代は薩摩藩の家老である大久保利通に続いて藩に上申書を提出します。小松はグラバーと親しい間柄であり、藩は海外留学生派遣を即決しました。

1863年、「明日の日本のために」旅立つ若い青年たち

このように留学を決意した日本の青年たちの心境はいかなるものだったのでしょうか。長州五傑士の中でも井上勝之助(井上勝)は、自身のの日記にイギリス留学当時の経験と過程を記していました。井上勝之助は1843年に生まれ、幼少期に野村家の養子となり、野村弥吉と名乗っていました。彼は16歳で藩命により長崎へ行き、オランダ人から洋学を学び始め、翌年には江戸城へ出て砲術と西洋学を学びました。1年半ほど経った後、再び故郷へ戻りますが、江戸での勉学を希望し再び江戸へ向かいます。また、横浜の外国人居留地で英語を学びました。したがって、外国に対する関心は他の藩士以上であったことがうかがえます。

井上勝之助(井上勝)の夢

後に日本の鉄道の父となる井上勝之助(井上勝)は、長州五傑士の一人でした。明治政府の中枢として政界一筋であった井上勝之助は、青年時代どのような夢を抱いていたのでしょうか。1863年3月、長州藩が横浜のマーソン商会から購入した帆船などが兵庫に入港しました。この時、藩から船長を命じられたのは勝之助であり、測量法を担当したのは山尾庸三でした。二人は洋学者である武田斐三郎の学塾に通っていました。この期間中、二人は西洋の学問、技術を本格的に学びたいと考えるようになり、偶然にも桂小五郎と井上聞多も同じ考えを持っていることを知りました。結局、四人は国禁を犯してイギリスへの留学を決意しました。彼らは外遊許可を藩に申請する際、改革派の商人である周布政之助に実現に向けた尽力を依頼しました。しかし、藩の要職にあった桂小五郎は重要な外交を担当していたため許可を得られず、代わりに伊藤俊輔と遠藤謹助が加わることになりました。

1863年5月12日、彼らの留学の夢が実現しました。長州五傑士の野村、山尾、伊藤、井上、遠藤の5名を乗せたマーソン商会の蒸気船チェルシク号は、横浜から上海へ向けて出港しました。当時、勝之助は5名の中で最年少の20歳だったと言われています。上海では船2隻に分乗してイギリスへ向かいました。勝之助、山尾、遠藤の3名を乗せた「ホワイトアダー」号がドーバー海峡に入ると、ついにロンドン南部へと広がる白い断崖が白く輝く雄大な景色が見えたと勝之助は後に回想します。異国の風景、人々の姿、生活や習慣も含め、初めての海外留学は驚きの連続であったと彼は述べています。

日本を出発してから約4ヶ月後、ホワイトアダー号はロンドンに到着しました。この若い青年3人はウィリアムソン博士(化学教授)の家に下宿し、UCLに通うことになりました。勝之助はそこで分析化学、後に地質鉱物学、さらには数理物理学を専攻しました。勝之助はイギリス留学中に日本の鉄道改革の必要性を感じました。彼はロンドンの交通手段の発達に感嘆し、日本にも鉄道が必要だと感じるようになったと述べています。大学で学ぶだけでなく、直接体験するために鉄道や鉱山の現場を視察し、実際に機関士を学びながら働くこともしました。

1864年4月、長州藩が外国船を砲撃し報復されるという知らせを新聞で知った伊藤と井上は、藩を救うために急遽帰国しました。翌年には遠藤が体調不良のため帰国しましたが、やがて山尾も造船技術を学ぶためにグラスゴーへ移りました。ロンドンに残された勝之助は3年が経過し、留学資金は底をつきましたが、彼はウィリアムソン教授の助けを借りてなんとか生活費を稼ぎながら勉強を続けました。

最後に、井上は当時のことを回想して次のように語ったとされています。

「国家への心配は、国内にいる時よりもむしろ海外にいる時

の方が切実に感じられた。例えば、領主は今頃どれほど心配されて

いるだろうか?同志の藩士たちはどのように行動しているだろうか、彼らが攘夷派に

討たれたのではないだろうか、あるいは敗戦の結果、領土を割譲する窮地に陥った

のではないか?」 (Sidney DeVere Brown, 1994)

国の存亡は青年の胸に、

グラバーが日本の若い青年たちである長州五傑士をイギリスへ密航させた理由は、グラバーが貿易商人としてイギリスの外交政策の実現を活性化させようとした彼の経済的利点などが一次的な目標であったと推測できます。

「 ... owing to the political trobues Trade is almost completely

stopped...” (Alexander Mckay 2014, 46)

実際に彼は、自身の書簡を通じて、生麦事件に始まり薩英戦争に至るまで、日本国内の幕府と反幕府勢力間の対立の中で、イギリス公使パークと共にフランスを排し、日本国内で強力な影響力を行使することを希望していました。しかし、グラバー個人の希望の実現もありましたが、彼は若い青年たちの夢を誰よりも応援したかったのでしょう。

この時イギリスから帰国した日本の若い青年たちは、日本最高の改革である明治維新の中枢的な人物へと急成長します。それだけでなく、日本の初代外務大臣、盲聾教育の父、初代内閣総理大臣、そして日本の鉄道の父として生まれ変わります。この当時の日本社会を左右していた人物たちは皆20代の青年でした。私たちの「愛の広場」の仲間たちも、未来を夢見る20代の青年たちです。その地点から、長崎にいる青年たちの夢と希望を胸に、輝かしい未来を夢見ることができました。参考文献 長崎観光推進課. 2018. 「明治時代(1868年~1912年)日本の

産業革命と長崎の近代化遺産。」 https://travel.at-

nagasaki.jp/resources/ko/main/industrial.pdf (検索日: 2018.12.

22.)

大学新聞. 2018. 「150年前の明治、現代日本の灯台となれるか。」http://www.snunews.com/news/articleView.html?idx

no=18091 (検索日: 2018.12.22.)

no=18091 (検索日: 2018.12.22.)

McKay, Alexander. 1993. Scottish Samurai: Thomas Blake Glover

1838-1911, Edinburgh: Canongate.

Sidney Devere Brown. 1993. “Nagasaki in the Meiji Restoration:

Choshu Loyalists and British Arms Merchants,” Accessed

December 22, 2018. http://www.uwosh.edu/home_pages/f

aculty_staff/earns/meiji.html.

杉山 伸也.1993. 『明治維新とイギリス商人:トマス・グラバー

の生涯』(岩波書店)

*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。

← 戻る · ← ホーム · ← 一覧に戻る