← 戻る · ← ホーム · ← 一覧に戻る

[NSP Report 73] 米中デタントとソ連:国際情勢認識と対応

カテゴリー
ワーキングペーパー
発行日
2014年8月25日
関連プロジェクト
国家安全パネル

国民大学社会科学大学国際学部ロシア学科教授。ソウル大学校外交学科を卒業し、同大学院で政治学修士号を、英国グラスゴー大学で政治学博士号を取得した。ソウル大学校ロシア研究所特別研究員、高麗大学校世界地域研究所研究委員、ソウル大学校国際問題研究所シニア研究員などを歴任し、主要研究分野はロシア政治及び歴史、女性政治などがある。著書及び共著書に『ロシアの未来と朝鮮半島』(2009年、共著)、『ロシアの選択:脱ソビエト体制転換と国家・市場・社会の変化』(2006年、共著)、『韓露関係史料集 1990-2003』(2005年、共著)、「ロシア体制転換:民主化移行過程における市民社会の役割と限界」(2012年)、 「スターリンの産業化戦略とソ連共産党機能の変化、1928-1932:レニングラードの事例研究」(2002年)などがある。


I. はじめに

1969年、ソ連外交において三つの出来事が起こった。モスクワとワシントン間の秘密外交ルート(back channel)が構築され戦略核兵器制限交渉(SALT)が開始されたこと、西ドイツでブラント(Willy Brandt)首相が執権し西ドイツとの不可侵条約交渉に入ったこと、そしてウスリー川ダマンスキー島で中ソ間の武力衝突が発生したことである。この三つの出来事は、1970年代のソ連外交の方向性を集約的に示している。すなわち、ソ連はアメリカ及び西ヨーロッパで積極的なデタント政策を推進する一方、中国との紛争を解決しないまま放置したのである。問題は、アメリカが中ソ紛争がもたらす機会を逃さず、中国を取り込んで米中和解という劇的な変化を引き出した点にある。

振り返ってみれば、1970年代前半のデタント期に起こった一連の国際情勢の変化は、冷戦に取って代わる新たな国際秩序の構築期とも見ることができる。もちろん、政策としてのデタントはそれほど長くは続かず、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻とともに終焉を迎える。しかし、1970年代のデタント期に実現した米中和解及び国交正常化は、1980~1990年代の中国の改革開放を可能にし、その結果、今日の中国の台頭をもたらしたという点で、究極的には世界秩序再編に重要な礎石を置いた出来事であった。では、1970年代当時、アメリカとともに世界のスーパーパワーとして世界的な影響力を持っていたソ連は、デタントをどのように理解しており、米中和解をどれほど自国にとって脅威的な出来事と認識していたのだろうか。ソ連は中国の台頭の可能性を見誤ったのだろうか。もしそうであれば、なぜそのような誤りを犯したのだろうか。本稿では、これらの問題に対する答えを見つけるため、1970年代前半のソ連指導部の対外認識と外交政策を検討したい。

本論に入る前に、1970年代ソ連指導部の対外認識や外交政策決定過程を示すためには、ロシア内部の一次資料を活用すべきであったにもかかわらず、時間的・財政的制約により、本研究は二次資料に大きく依存せざるを得なかったことを明らかにする。デタント期の国際関係を示す一次資料としては、ロシア連邦大統領公文書館(APRF)、ロシア連邦外交政策公文書館(AVPRF)などが所蔵する会議録及び公式文書、1971年と1976年にそれぞれ開催された第24回、第25回ソ連共産党大会の会議録、ソ連政府及び共産党の公式見解を代弁した『プラウダ』、『イズベスチヤ』などの新聞社説などが存在する。本研究では、このうちソ連共産党大会の会議録のみを参照した。

一方、アメリカのジョージ・ワシントン大学が提供するウェブサイト(The National Security Archive)、アメリカのウッドロウ・ウィルソン・センターの国際冷戦史プロジェクト(CWIPH: Cold War International History Project)などから、ロシア公文書館の一部の資料やアメリカ国務省などの資料を提供してもらうことができた。これ以外にも、アメリカで出版された冷戦史関連の単行本も本研究に主要な資料を提供した。1962年から1986年までソ連駐米大使であったドブリニン(Anatoly Dobrynin)の回顧録(Dobrynin 1995)、アメリカ及びロシア公文書館の資料を活用した冷戦史研究書(Zubok 2009)、キッシンジャー回顧録(Kissinger 1982)及び議事録(Burr 1998)、ガースオフ(R. Garthoff)のデタント及び冷戦史研究(Garthoff 1994)などを通じて、間接的ではあったが本研究に必要な情報を得ることができた。それにもかかわらず、1970年代前半のソ連指導部の国際情勢観や対中認識を把握するには資料が依然として不足しており、多くの部分で推測に頼らざるを得ず、疑問点として残さざるを得なかった。今後の研究がこれを補完してくれることを期待するばかりである。

II. 中ソ紛争の深化とソ連指導部の対中観

1969年の中ソ国境紛争が発生するずっと以前から、すでにソ連と中国の関係は亀裂し始めていた。1949年の中国共産党の内戦勝利以降、強固に見えた中ソ関係は1950年代末から揺らぎ始めた。1959年のフルシチョフ(Nikita Khrushchev)の中国訪問以降、両国指導者間の個人攻撃が始まり、中国共産党と毛沢東(毛泽东)はフルシチョフのソ連をマルクス・レーニン主義修正主義勢力だと激しく批判した。これに対しソ連は、中国に勤務していた自国専門家を召還することで中国経済に圧力をかけたが、中国は「自力更生」を掲げ、ソ連とは異なる社会主義の道へと進んだ。

このように、中ソ対立初期の両国の対立様相は社会主義イデオロギーを巡る対立として映し出されたが、その内面には現実政治的要因が大きく作用していた(Zang 2010; Radchenko 2010)。何よりも、中国の核兵器開発の試みに対してソ連が否定的に反応したことで、中国のソ連に対する不満と疑惑が大きくなった。ソ連は原子爆弾技術の中国への移転を拒否し、1963年にはアメリカが提案した部分的核実験禁止条約に署名することで中国の不満を買った。これに加えて、フルシチョフのスターリン(Joseph Stalin)非スターリン化運動は、中国国内における毛沢東の地位に否定的な含意を与えるものであったため、毛沢東はこれに対して非常に不快感を持っていた。さらに、1964年のマリノフスキー(Rodion Malinovsky)事件以降、毛沢東はソ連に対して完全に心を閉ざすことになった。一方、1965年のソ連のベトナム・クンミン空軍基地建設計画、1968年のソ連のチェコ侵攻事件などは、中国指導部がソ連の対中軍事介入の可能性を実質的な脅威と見なすようにさせた。まさにこのような状況下で1969年には中ソ国境で武力紛争まで起こったのであり、ソ連と中国の二国間関係は最低点に達したと言える。

では、1960年代当時、ソ連はなぜ中国との対立を解消できず、紛争をエスカレートさせたのだろうか。実は、ソ連が中国指導部の心を変えようと融和的な努力を全くしなかったわけではない。ズボック(Vladislav M. Zubok)の研究によると、フルシチョフ失脚後に成立したソ連集団指導体制期(1964-1968)において、ソ連指導部はソ連外交政策の最優先事項は資本主義西側とのデタントではなく、「兄弟」国である共産主義中国との和解だと考えていたという(Zubok 2009, 197)。しかし、ソ連指導部は中国内部で起こっている政治的激変状況(文化大革命へと突き進んでいる)を正確に理解していなかった。北京のソ連外交官たちが現地状況に関する報告をモスクワに送っていたにもかかわらず、これらの報告書は適切な関心を得られなかったのである。1965年にチェルヴォネンコ(Stepan Chervonenko)に代わって駐中大使となったラピン(Sergey Georgyevich Lapin)は、冷笑的な党官僚出身者であり、現地状況に対する適切な分析さえ送らなかったという(Zubok 2009, 197)。一方、1965年にコスイギン(Alexei Kosygin)首相はハノイ訪問の際に二度にわたり北京を訪問し、それぞれ周恩来と毛沢東に会ったが、会談の結果は失望すべきものであった。中国側代表は非常に頑なで、イデオロギー的に攻撃的であり、ソ連の「修正主義」を批判した。コスイギン首相は、ベトコンへの援助問題を巡っても、中国との政策調整を引き出すことができなかった。

1969年の中ソ国境地域紛争発生初期、ソ連は中国に対し軍事的・外交的手段を全て動員して対応した。3月の最初の交戦発生後、ソ連は中国の軍事行動に対し軍事報復を加える一方、コスイギン首相は中国指導部と電話会談を試みたが、中国指導部は正常な外交チャンネルを通じて連絡するようにと通話を拒否した。ソ連は1964年に中断された中ソ国境問題に関する交渉を提案した。しかし、8月中旬、中国新疆とカザフスタン間の国境地域で突然発生した交戦の後、ソ連の態度は変化を見せ始めた。8月28日、『プラウダ』紙は、中国の冒険主義によって中ソ戦争が勃発した場合、それは核戦争になり得ると言及した。これとともに、極東・シベリア地域のソ連軍増強が本格的に開始された。1969年の25個師団だったソ連軍は1973年には45個師団に増強され、戦術戦闘機は200機から1200機に増加し、この地域にあった50余りのSS-4、SS-5中距離弾道ミサイルは120基の新鋭SS-11に代替された。これに対しガースオフは、ソ連が極東・中央アジア地域内の全ての軍事戦力を増強することで、危機が発生した場合、ヨーロッパとアジアの両方の二つの戦線で同時に戦うことを決定したと解釈した(Garthoff 1994, 231-232)。

このように、ソ連は外交的努力を放棄し、軍事的圧力を行使する方向へと対中外交政策の方向性を決定した。この決定には、国境紛争後、ソ連指導部が抱いていた中国の非合理的な攻撃性に対する恐怖が主要に作用した。ズボックによれば、当時モスクワでは次のような冗談が回っていたという。「極東のソ連司令官が急いでクレムリンに電話をかけ尋ねた。『5万人の中国人が今、国境を越えて降伏してきました!どうすればいいですか?』」(Zubok 2009, 210)総合国力においても、核戦力においても全く比較にならない中国がソ連を相手に軍事紛争を起こしたという事実は、ソ連人にとっては理解不能な「非合理的な決定」であったのだ。したがって、ソ連人が中国を恐れたとすれば、それは攻撃性(あるいは攻撃能力)そのものに対するものではなく、「非合理性」に重点があったのである。

結局、1969年の国境紛争に対するソ連側の態度は、中国を威嚇し、中国人が二度とソ連国境で挑発できないように抑止することであった。1969年、コスイギンが北京空港で周恩来と会った際、周恩来はソ連の先制核攻撃に関する「噂」に言及し、当時同席していたソ連外交官はこれを、中国がソ連の核攻撃の可能性について非常に怯えていると解釈した。周恩来は、中国がソ連に対して戦争を計画したり開始したりする意図がないことを明確に伝えた。この対話の後、ソ連指導部は中国に威嚇的なシグナルを再び送り、中国はソ連との秘密不可侵条約を提案するに至った。

しかし、核の脅威を通じて中国を抑止しようとするソ連の戦術は、せいぜい半分の成功であった。ソ連の核の脅威は、結局、中国指導部にアメリカとの和解を追求させ、北の北極熊に共同で対処することを追求させることになったからである。すなわち、古典的な意味での安全保障のジレンマ効果が現れたのである。米中和解を主導したキッシンジャー(Henry Kissinger)の議事録を見ると、ソ連の軍事的脅威によって引き起こされる中国の安全保障上の不安感は相当なものであり、アメリカはこれを中国をアメリカ側に引き寄せるカードとして使用した。

一方、ソ連側の中国との関係改善努力が1969年の中ソ国境紛争発生後にも全くなかったわけではない。1969年のコスイギン首相と周恩来会談当時、両国は大使級外交官の交換で合意し、1970年にはトルスティコフ(V. S. Tolstikov)ソ連大使が北京に、李振権(Li Xinguan)中国大使がモスクワに到着した。両国間の貿易も漸進的に増加し、1972年には2億9千万ドル規模に達することもある(Garthoff 1994, 241)。しかし、両国関係は相互不信と敵対感が支配的であり、決して米中和解ほど電撃的に改善されることはなかった。1972年の米中和解直後、ブレジネフ(Leonid Brezhnev)は三角外交におけるソ連の立場を強化するため、中国に不可侵及び国境問題解決のための「建設的」提案を行ったが、中国はすでにそれ以上ソ連との不可侵条約を必要としていなかった(Garthoff 1994, 242)。その結果、デタント期を通じてソ連は三角外交において不利な一方の軸として残ることになった。

III. 米中和解とソ連指導部の国際情勢認識

では、ソ連指導部は、中国がソ連に対抗してアメリカと結びつく可能性について、なぜ懸念しなかったのだろうか。いくつかの仮説を立ててみよう。第一に、中国がイデオロギー的な要因のためにアメリカと結びつくことはないだろうと判断した可能性。第二に、中国がアメリカと和解したとしても、両国間に存在する現実政治的な問題のために米中和解の実質的な効果は大きくないだろうと判断した可能性。第三に、米中和解がソ連を敵視する軍事同盟にならない限り、ソ連に対する脅威要因は大きくないだろうと判断した可能性。第四に、中国及びアメリカの外交現況に関する情報不足による誤判の可能性などを想定することができる。(続く)

*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。

← 戻る · ← ホーム · ← 一覧に戻る