毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜 5月13~15日の中朝会談を中心に 毛沢東記念館 チョン・ハミン
サランバン(談話室)の若者たち 北京を抱く
サンクトペテルブルク国立大学
はじめに
分断70年の間、北朝鮮との問題を解決できなかった背景には、北朝鮮との深い
利害関係を持つ中国と、中国が主導する粘り強い中朝関係が
存在している。中国の対北朝鮮政策と中朝関係を様々な視点から
論じられているが、両国の代表的な会談の始まりは毛沢東(Mao
Zedong)と金日成の5月13日の北京での会談から始まる。この時から
始まった中国と北朝鮮の関係は、現在2018年以降の米中覇権競争が
深化し、中朝関係は再び緊密な関係へと変化した。これにより
北朝鮮は中国の支援により自力更生し、「独自の道」を歩んでいる。
中国の対北朝鮮政策は、朝鮮半島の状況と南北関係を規定する最も重要な
変数である。これまで韓米の対北朝鮮政策は、中国の対北朝鮮政策と中朝関係の
変化を常に注視してきた。加えて、国連安全保障理事会の対北朝鮮制裁決議も
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
中国の多くの影響力が作用したと言っても過言ではなく、それによる政策の
成否は中国の協力の有無にかかっている。
一方、ソ連崩壊後、冷戦時代を記録した膨大な量の歴史的
文献が公開され、冷戦時代を文献と照らし合わせながら、その時代の現場を
辿る歴史的現場調査が行われている。その一環として
現在も冷戦の残滓として残っている朝鮮戦争における中朝ソ関係も
再び掘り起こされている。しかし、中国とロシア、米国では朝鮮戦争の
勃発点である金日成、毛沢東、スターリン(Joseph Stalin)の会談を中心にその
現場を辿る研究が盛んに行われているが、韓国だけが持つことのできる韓国的
視点からこの会談に対する多角的な現場調査が行われていないという
点が残念でならない。筆者はこのような問題意識から出発した。
金日成を理解するには、北朝鮮の次に最も近い韓国から、金日成と
毛沢東の会談を5月13~15日の会談を中心に理解しようとする。
加えて、中国の中心である習近平は毛沢東のように絶対権力の座に
就くなど、その歩みには共通点が見られる。これは北朝鮮も同様で、金正恩は
金日成をベンチマーキングし、唯一支配体制の確立と政策面においても
経済建設と核武力建設の並進路線を標榜している。このように、習近平と
金正恩の思想的背景には毛沢東と金日成がいると言っても過言では
ない。したがって、朝鮮半島の状況において非常に重要な現実となった
朝鮮戦争の歴史的出発点である毛沢東と金日成の5月13~15日の会談を
中心に遡り、彼らの歴史的関係を掘り下げることで、朝鮮戦争
における毛沢東と金日成の時代的状況を理解し、ひいては当時の
会談の意義を見出そうとするものである。
スターリンと金日成の会談
1. 朝鮮戦争のための金日成の求愛
1945年、日本帝国主義の敗亡と共に韓国は光復を迎えた。しかし
喜びも束の間、朝鮮半島は北部をソ連、南部を米国という二つの
大国の信託統治を受けることになった。その後、国内的には社会主義と
民主主義の体制的両立と、米国とソ連という二大国の駆け引き
の中で、ついに1948年8月と9月、朝鮮半島には二つの体制が誕生することに
なった。南北朝鮮は互いに統一を強く望んでいるが、それぞれ
自らの体制の下で一つの朝鮮半島が実現されることを主張する。当時、北朝鮮は
武力をもってでも南朝鮮を共産化することを望んでおり、武力侵攻に有利な
条件を備えており、日本の残滓として残っていた重工業地帯を
稼働させ、金日成を筆頭とする独裁体制を構築した状態であった。
また、ソ連という共産主義同盟を背景にしていた北朝鮮は
恐れるものがなかった。この事実を認識していた金日成は1949年
新年の辞で「国土完全」という言葉を実に13回も使用し、
武力南侵の意志を強く表した(大韓民国歴史博物館、6・25戦争)。これに
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
行動に移すため、金日成はスターリンを訪ね、支援の約束を取り付けることを
懇願した。
コミンフォルム設立後、スターリンは世界共産党体制内の
情報交換と行動の統一を非常に重視した。チトーは、バルカン連盟および
ギリシャ内戦問題で見せた独断的な行動によりスターリンの怒りを
買い、コミンフォルムから追放されただけでなく、ソ連国家保安
委員会(KGB)によって暗殺されそうになった。金日成はこれをよく理解しており、
ロシア国内の大量の電報や会談記録に見られるように、金日成の行動
処理は慎重であり、決して自己の権限の限界を超えようとはしなかった(ションズファ)
2017, 265)。
1949年2月から4月にかけて、金日成は武力統一を計画するためにソ連訪問を
敢行した。この訪問は、北朝鮮の多数の政策決定者と共に、戦争に対する
ソ連の承認を得ようとする重要な日程の一つであった。この訪問期間
中の3月7日、金日成はスターリンに南侵の意思を伝達した。スターリンは、
もし韓国側が先に戦争を開始するならば、北朝鮮の開戦には
同意するが、北朝鮮が先に主導的に戦争を開始することについては
反対した(エフゲニー 1998, 44)。しかし、北朝鮮への援助は進めることになった
した。これに基づき、1949年3月17日、北朝鮮とソ連両国間で「経済的
および文化的協力に関する協定が締結された(ションズファ 2017, 265).
当時の会談で、スターリンはまだ北朝鮮の戦力が圧倒的ではないとし、
南侵計画を思いとどまらせ、より徹底した準備を促した。当時の
国際情勢を見ると、ソ連は原子爆弾を保有しておらず、
韓国駐留米軍が北朝鮮への援助に大きな障害となっていた。さらに、第二次
世界大戦後の冷戦初期の気流が流れる当時の状況で、アメリカとの
継続的な対立を生むことは、ソ連にとっても負担にならざるを得ない
状況であった。
1949年4月末、北朝鮮代表が中国を訪問し、スターリンとの協議
結果を伝えると、毛沢東も一時的な戦争の延期を勧めた。当時
中国は国共内戦により国内再編を経験していたため、自国の
安全保障が優先順位となるだけでなく、毛沢東は朝鮮半島での戦争は電撃戦にも
なり得るし、長期戦にもなり得るとして、戦争の長期化は日本を
引き込み、韓国「政府」を支援する結果を招きかねないと
判断した(トルクノフ 1998, 118)。しかし、国共内戦に協力した北朝鮮に
対して、南侵準備のための中国人民解放軍内の朝鮮人2個師団は引き渡され、
戦争の準備が進められる様子が見られる。
ソ連のスターリンと中国の毛沢東から、解決すべき宿題を
与えられた金日成は、内心、独力では成し遂げられないという残念さと
問題の答えを見出すために、引き続き機会をうかがい、
南侵を準備しようとした。1949年6月、米軍が韓国から撤収を
完了すると、これを好機と見た金日成は再びスターリンに
南侵の許可を得ようとしたが、結局全面的な開戦の許可は得られず、
計画を変更し、江原道三陟地域の一部を占領しようとするメッセージと
同時に、韓国におけるパルチザン武装蜂起による革命の可能性に言及する。
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
「現時点で統一を早めるためには、第一に、韓国国内のパルチザンに
対する支援と解放区の設置、反動体制の転覆および南北統一という課題を
成功裏に解決するという目的の下、韓国人民が参加する大規模な
武装蜂起を計画しなければならない。第二に、人民軍を全面的に改編し、
強化しなければならない。」(ロシア連邦大統領文書保管所)。
スターリンは、革命による共産化に支持の意向を表明し、
これは開城、甕津など38度線周辺地域における頻繁な南北間の戦闘に
つながっていく。しかし、スターリンは、こうした小規模な戦闘が大規模に拡大する
ことを懸念し、1949年10月、金日成に38度線戦闘中止の指示を
出した。
2. スターリンの南侵許可
その後、国際情勢は共産陣営に有利な方向に流れていく。
1949年8月、ソ連は核実験に成功し、10月には毛沢東が
蒋介石(Chiang Kai-Shek)を相手に国共内戦で勝利し、中国を
共産化していった。また、中国の国共内戦当時、アメリカが内戦への
民主主義陣営の介入を放棄し、1950年1月12日のアメリカの
アチソン・ライン宣言(Acheson line declaration)は、金日成に、北朝鮮の南侵
時にもアメリカは介入しないだろうという確信を抱かせる契機となった。
なった。
当時、金日成は国際情勢の流れから見て戦争の好機であると判断した。
中国がアジアで共産化された後、1950年1月17日、北朝鮮の外務相
朴憲永は初代駐中大使に任命された李周淵を送別するため、小規模な
昼食会を開催した。この席で金日成は酒の勢いで
ステコフ(Terenti Fomitch Stykov)にモスクワへの不満を打ち明け、
南侵に対するスターリンの許可を改めて要求する。これに対しステコフは
スターリンに電報を送るが、しばらく返信がなかったスターリンは突然
1月30日頃、「金日成同志の気持ちは理解する。南侵の件について
議論する準備ができた」と伝える。
スターリンが考えを変えたきっかけは、現在まで学者たちの間で熱い
議論の的となっており、朝鮮戦争以降多くの主張がなされてきたが、
未だ明確な解釈が出ていないのが現実である。
スターリンの社会主義政策は、第二次世界大戦後、国際情勢の変化
により、特定の時点で完全に変化した。この問題について朴明林教授は
アイザック・ドイッチャー(Isaac Deutscher)の説明を引用する。彼の研究によれば、
スターリンは第二次世界大戦直後、社会主義を拡張するよりも、確保された
地域での社会主義の固め込み戦略を好んだ。「確保された一地域における
社会主義構築」(socialism in one zone)戦略というものである。スターリンは
資本主義と社会主義の間に引かれた境界線を忠実に守った。しかし
その後、スターリンは中国革命の勝利によって大きな変化を迎える。これについてドイッチャーは
「二つの陣営間の危険な対立において、スターリンは中国革命から巨大な
支持を得ることになった。それは勢力関係を根本的に変えてしまった
のである。すなわち、中国革命を契機としてスターリンは短期的な平和共存と
影響力の範囲の相互承認、すなわち『一地域社会主義』から逸脱したのである。」
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
また、スターリンは朝鮮戦争による戦略的利益は少なく、
毛沢東に対する潜在的な競争関係の観点から行動したと見られる。
彼は中国革命の可能性を誤判したため、彼が与えた政治的な
臆病さの印象を払拭し、自身が毛沢東のように革命に対して大胆な
戦略家であることを証明するために苦心したのかもしれないという心理的な要素も
作用したと見ている(朴明林 1996, 193)。
シェン・ズィーファ(Shea Zhihua)は、スターリンが朝鮮戦争への参戦を決定した
条件として、中国との関係変化とアメリカの政策的反応への考慮を挙げた。
しかし、朝鮮戦争はソ連の対外政策変化過程の一部であり、
スターリンがソ連対外政策の変化を触発させた真の要因は、1947年
5月のフランス共産党とイタリア共産党の連立政権からの追放と
1947年6月にアメリカが公表したヨーロッパへの支援計画、すなわちマーシャル
・プラン(Marshall Plan)から始まったと見ている。ヨーロッパの共産党
の追放は、ソ連が戦後実行した各国共産党の連立政権参加政策に
深刻な打撃を与え、マーシャル・プランはソ連に対する共産主義の
封じ込め政策であった。これに対しソ連は全面的に対外政策の変更と共産党の
関係強化を進め、これはヨーロッパで始まり、次第に
アジアへと広がり、対決中心の政策へと転換し、朝鮮戦争を
決定する要因となった(シェン・ズィーファ 2010, 52)。朴明林教授とは対照的な
部分は、スターリンが朝鮮戦争を決定した動機の一つとして、朝鮮半島がソ連の
極東政策において戦略的利益があったと見る点である。
スターリンにとって中ソ同盟の締結は諸刃の剣であり、アジアにおけるソ連の
政治力を強化した一方で、スターリン自身は1945年に蒋介石(Chiang Kai-shek)
の手中から獲得したほとんどの政治経済的利益を返還しなければならなかった。したがって
アジア、特に東アジアにおいてソ連の政治経済的利益を確保し
維持することが肝要であった。スターリンはヤルタ協定および以前に表明した
極東地域における戦略的目標を守るためには、中国領土以外に他の
地域を占有する必要があり、何よりも不凍港の獲得が切実であった。
スターリンが朝鮮問題に対して戦略的地位のための安全保障に重要な
意味を置いていることは、1945年6月29日のソ連外務省第2極東課の
報告書を通じて知ることができる。「日本が朝鮮を経由してアジア大陸へ
拡張することを反対したロシアの闘争は、歴史的に正義の行動である」、
「朝鮮の独立は、必ず朝鮮が将来ソ連侵略の前進基地に
転換することを効果的に防ぐ形式でなされなければならず、このような
侵略が日本からであれ、あるいは極東地域でソ連に圧力を加える
それは、朝鮮半島がアジア大陸への拡張の足がかりとなることを阻止しなければ
ならないという点を非常に鮮明に説明しており、ソ連にとっては重要な領土であることを
ソ連にとって重要な領土であることを非常に明確に説明しており、
利益を保護するための動機から出発し、スターリンは朝鮮半島で軍事的
行動を取ることを決定した。同時に、この地域でアメリカとの直接的な
武力衝突を避けることができるため、この点がまさにスターリンが朝鮮問題で
政策を決定する基本的な出発点となった。
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
ロシアの学者トルクノフは(Anatoly Vasilyevich Torkunov)、中国革命の
勝利を理由に挙げている。スターリンは、アメリカが台湾にある蒋介石
の運命にしか関心がなく、朝鮮での衝突に巻き込まれることを望んでいない
と判断した。彼は当時の会談に参加した人々の
インタビューを通じて、次のような内容を推測した。「中国は全世界に
アジアの革命家たちの力を誇示し、アジアの反動勢力とアメリカおよび
西ヨーロッパの連携が弱まったことを示した。これを受けて、中国とソ連の
同盟条約締結により、アメリカはアジアの共産主義者を刺激する立場になく、
ソ連が核を保有している以上、アメリカは朝鮮半島に介入しないだろう
という判断のもと、この会談で初めて中国が同意するという条件で
北朝鮮の先制南侵戦争を承認した。」と述べている(トルクノフ 1998,
113)。そして、もう一つの重要な要因は、ソ連がアメリカの核独占を
打破したため、アメリカが核を使用してソ連を脅かすことができなくなった
点に注目した。
著者の見識不足により、スターリンの心を動かした正確な理由を
推測するには、文献へのアクセスと少ない研究経験によって
能力の範囲を超えるテーマであるため、断定を下すには著しく不足している点がある。
しかし、注目したいのは、一国社会主義の限定的な
いる。しかし、注目すべき点は、一国社会主義の限定された
後のNATO設立を含め、外部からの社会主義への攻撃は、彼らに
さらなる圧力をかけ、これは結局ソ連の安全保障を保障するための
本能的な政策変化と、中国の国共内戦勝利から来る
心理的要因、ソ連の核開発成功、アメリカのアイゼンハワー・ドクトリンにより
アメリカが戦争に参加しないという信念など、複合的な国際情勢の
変化が組み合わさり、朝鮮半島における領土的膨張にまで影響を与えた。
1950年5月13日~15日、その現場へ
1. 毛沢東と金日成の密室デート
金日成が毛沢東と、北朝鮮と中国の共産党代表として正式な会談を
持つようになったのは、事実上1950年5月13日から15日まで中国で
行われた会談である。この会談で、ついにスターリンの宿題を片付け、
南侵に対する毛沢東の支持を得て、ソ連と中国を後ろ盾にした
金日成は、朝鮮戦争を起こすのに十分な支援を約束された、歴史的に
重要な瞬間である。毛沢東は当時、金日成とスターリンとの開戦決心に
関する事前通知がなく、国共内戦が終わって間もない
状況であったため、これについて負担を感じていたにもかかわらず、朝鮮戦争の
支援を約束した。
金日成は、ソ連と中国が同盟を結んだ以上、アメリカが戦争に介入する
ことはなく、毛沢東も中国革命が達成される次第、軍隊を含む
様々な手段で北朝鮮を支援することを何度も約束したと明らかにした(朴明林
1996, 96)。これは、金日成とスターリンが読み取る国際情勢が、先に述べた
いくつかの
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
理由によって相互理解が通じ、南侵に関する決定を下すことが
できた決定的な理由であった。
スターリンは金日成との会談を終え、彼に中国を訪問し
毛沢東と具体的な内容を協議するよう指示した。スターリンが南侵に
先立ち中国の許可を得るように指示した理由は、スターリンと金日成の4月10日
会談から知ることができる。当時スターリンは、もしアメリカが参戦し、北朝鮮が
持ちこたえられない状況になることも明確に考慮した。金日成が南朝鮮を占領でき
ないことよりも、アメリカが北朝鮮を占領してソ連の極東地域を脅かすこと
を恐れた。そのため、中国に防衛させるために毛沢東の許可を
強く要求した。当時金日成は、中国に支援を要請する考えだった
なかった。これは、すべての要求がモスクワで満たされ、必要なものは
モスクワから支援されるからであった(トルクノフ 1998, 128)。しかし
スターリンの要請通り、金日成は朴憲永と共に5月13日に北京を
訪問し、毛沢東と会談した。
5月13日、金日成一行は北京に到着し、その日から中国
指導者らと会談を行った。会談の具体的な内容に関する資料は
現在まで発見されていない。しかし、ソ連大使ワシーリィ・ロシン(Nikolai
Vasilievich Rosin)がモスクワに送った報告によると、会談の序盤
毛沢東は金日成が伝えたスターリンの意見に疑問を呈した。13日の当日
夜23時30分、周恩来はソ連大使館に来て、次のような
内容をスターリンに直ちに報告するよう要求した。「朝鮮の同志たちが
スターリン同志の以下の指示を伝達した。『現在の情勢は過去と
異なり、北朝鮮は行動を開始できるようになった。しかし、この問題は必ず
中国の同志と毛沢東本人と議論しなければならない』したがって、毛沢東同志は
スターリン同志本人にこの問題について直接説明してほしいと
希望している」(トルクノフ 1998, 293)。
これに対するスターリンの返信である。
「朝鮮の同志との会談中、スターリン同志とその友人たちは、国際情勢の
変化を考慮し、朝鮮の統一実現に関する提案に同意した。同時に
補足するならば、この問題は最終的に中国と朝鮮の同志たちが共に
解決しなければならず、もし中国の同志が同意しないならば、これをどう
解決するか再議論されなければならない。詳細な会談内容は、朝鮮の同志が
あなたに説明するだろう」(トルクノフ 1998, 293)。
最終的に「中国の同志が同意しないならば、これをどう解決するか
再議論されなければならない」という言及を通じて、結局スターリンは南侵において
中国に決定を委譲し、自身の徹底的な隠蔽のために中国を
意図的に引き込んだ。つまり実質的には最高の決定権を持っていたにもかかわらず、
同意という形をとって全体的な方向性を示しながらも、委譲を通じて一歩
退くことで毛沢東に役割を付与し、スターリンは「隠れたボス」として
ソ連の参加と行動を隠し、中国を利用して朝鮮半島内で利益を
追求しようとした意図が明白であった。
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
2. 毛沢東の胸の内
スターリンは5月3日、毛沢東に金日成のモスクワ訪問と協議事項の
結果を知らせるために電報を送った。「朝鮮の同志が我々のもとに来た。
彼らとの会談結果は、近いうちにあなたに通知されるだろう」(ロシア
連邦大統領文書保管所)。
しかし、数日経っても通知は来なかった。その後、5月12日
金日成は毛沢東に会うために秘密裏に北京入りし、会談が
行われた。当時、毛沢東はスターリンの南侵許可に関する事前通知を
受けておらず、スターリンの許可を得た金日成は毛沢東に会い、南侵
許可に関する内容を伝えた。
毛沢東は北朝鮮の南侵を支援する前に、台湾との統一を
望んでいた。しかし、彼はスターリンの決定に反対する立場ではなかったため、
金日成を支援することに同意した。毛沢東は経済改革や中国
国内の問題を解決するためには、必ずソ連の支援が
経済支援あるいは軍事支援が切実であったため、やむを得ず同意せざるを得なかった
しかない状況であった。また、すでにソ連と北朝鮮が事前に協議して
合意した内容であったため、返信を受けた後、毛沢東はモスクワの
見解に賛成の意を示すしかなかった。毛沢東は不満を抱いたが
どうすることもできなかった(ションズファ 2017, 136).
5月15日、金日成との会談で毛沢東は、元々は自身は台湾を
先に攻撃して占領した後、北朝鮮が韓国を攻撃することを計画しており、
その時には中国は北朝鮮に十分な支援を提供できると
説明した。しかし、北朝鮮は今攻撃することをすでに決定しており、この
件も中朝共同の課題であるため同意すると述べ、必要な協力を
提供する準備を約束した。毛沢東はソ連の直接参戦は不可能だと
予測しており、ソ連はアメリカとの直接衝突で起こりうる第三次
世界大戦を懸念していることを把握していた(イリヤゾワ 2014)。そこで
毛沢東は、もしアメリカが参戦すれば中国は分遣隊を送って北朝鮮を助ける
と述べ、中国軍の一部を北朝鮮国境に配置する必要性について
武器と弾薬の提供の必要性について問うた。金日成はこの提案に
感謝の意を示したが、断った。毛沢東の決定において、沈志華は
毛沢東は共産主義陣営の長兄であるスターリンの決定に従い、自身の
地位を確立する目的と、国共内戦当時北朝鮮の支援を受けただけでなく
金日成に支援することを約束したことを守るために、朝鮮半島の共産主義化
計画を後押しする判断をしたと主張する。
しかし、毛沢東は乗り気になれない気持ちを捨てきれなかった。まず、朝鮮
半島戦争を支持することで、台湾統一を諦めなければならない状況であった。加えて
アジアを自国の勢力圏に収めるためには、北朝鮮を引き入れて自身の
側につけようとして支援を約束したが、金日成が自分よりもスターリンの
支援のみで動こうとする姿勢が気に入らなかったのである。これは
スターリンがロシンに送った手紙を見ると、その気持ちが分かる。
「毛沢東に、北朝鮮に中国の代表がいないと不満を言っていると伝えてください。
毛沢東が朝鮮半島の問題を迅速に解決するために、できるだけ早く代表を
派遣することが望ましい。」(ロシア連邦大統領文書保管所)。
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
会談後も、金日成は南侵に関する具体的な状況について
協議せず、6月25日、毛沢東は午後になってからフランス
通信社を通じて北朝鮮軍の南侵のニュースを聞いた。金日成の正式な通告は
3日後、しかも北京駐在の北朝鮮武官を通じてであった。毛沢東は協議
なしに戦争を進めた北朝鮮に非常に腹を立て、通訳のサチョルに「彼らは
我々の隣人なのに、戦争勃発の問題も我々と議論もせずに、ようやく今になって
通告してきた」と述べた(朴明林 1996)。中共総書記であった胡耀邦(Hu
yaobang)は、当時の毛沢東の衝撃の大きさを回顧録に記した。
「主席はしばらく口を開かず、髭も剃らなかった。一週間
経ってからようやく髭を剃った。」(金明浩 2011)。
3. 金日成の胸の内
1950年3月30日、モスクワに到着した金日成はスターリンに、米軍は
介入しないだろうし、攻撃は3日で勝利できると述べ、
南侵すれば韓国国内の20万の南労党員が主導する蜂起が起こるだろう
と述べた(Weathersby 1993, 433)。スターリンもこれに同意し、
中国はソ連と中ソ友好同盟を締結しており、アジアでアメリカが
共産主義に挑戦することを躊躇するだろうし、ソ連の核保有がアメリカを
抑止するだろうと述べた。スターリンは会談で中国の支援を要請するように
言うことも忘れず、それに対する返答として金日成は毛沢東は
中国革命が完了した後、北朝鮮を支援でき、必要であれば兵力も提供する
だろうと何度も言及したと重ねて強調した。また、北朝鮮自身の
力に頼りたいし、そうできると信じていると主張した。
しかし、スターリンはソ連は西側で挑戦に直面しているため、
北朝鮮はソ連が戦争に直接参加してくれると期待してはならないと
述べ、改めて毛沢東と相談するように促し、特にアメリカが朝鮮半島に
軍隊を派遣するような冒険をすれば、ソ連は直接介入する準備ができていない
と繰り返した(エフゲニー 1998, 52)。しかし、金日成はこの会談を通じて
ソ連の直接介入は困難であっても、朝鮮半島戦争で許可を得た
だけでなく、支援の約束まで取り付けたため、非常に満足のいく会談であった
と推測される。
5月12日、金日成が北京を秘密裏に訪問した際、彼の目的は
中国に、自分たちが武力で祖国を統一させる意思と、この問題に関する
モスクワ会談の結果を通知することであった。金日成は
毛沢東に会いたがらなかった。彼はスターリンに「自身の
要求は既にモスクワで十分に達成されたため、朝鮮半島はもはや
中国の支援を必要としない」と述べた(ロシア連邦外交政策記録保管所)。
これにより、当時の金日成が朝鮮半島戦争における勝利に自信を
満ちており、筆者はその背景としてモスクワの許可と共に、国共内戦で
アメリカの介入撤回と、アチソン宣言で朝鮮半島をアメリカの防衛線から除外
させた部分にあると見た。また、毛沢東の国共内戦勝利を通じて
国際的な雰囲気が少なくともアジア内では共産主義陣営に肯定的な
風を吹き起こしたため、自信が空を突くほどになったと判断される。
加えて、南侵を開始すれば、韓国にいる数十万の共産主義者の助けで
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
戦争が早く終わるという判断を下した。しかし、これは金日成の
誤判断であり、台湾を放棄したアメリカにとって朝鮮半島は防衛線であった
のである。金日成は会談が終わると直ちに毛沢東の前で、会談で
全ての議題について完全な意見の一致を見た、とソ連大使に
宣言した(ションズファ 2010)。得意満面の金日成の姿から毛沢東が直面した
苦境は推察できる。
金日成が毛沢東に不満を感じるのにはそれなりの理由があった。
金日成の側面から見れば、北朝鮮は中国革命の勝利のために大きな貢献を
したが、毛沢東は勝利を得た後、朝鮮半島の統一と解放のために
全力で支援しなかった。事実、毛沢東は北朝鮮が武力で国家を
統一することについて、原則的に反対しなかった。金日成が計画する
朝鮮半島の武力統一による共産化は、中国革命の後に続くものであったからだ。
しかし、毛沢東の計画によれば、朝鮮半島の問題は中国の統一大業を
完成した後に改めて解決されるべき問題であった。しかし、性急な
金日成はモスクワに支援を要請せざるを得ず、スターリンが1950年
1月に朝鮮半島に対する政策を修正した際には、アジア革命の主導権が
中国に委ねられた。
毛沢東のこのような立場は、金日成に中国への不信と不満を
抱かせ、帰国後、毛沢東と戦争準備や開戦に関連する
具体的な情報は協議しなかった。北朝鮮の元高官(軍需担当)の回顧によれば
れば、戦争勃発前、ソ連の武器は中国の鉄道を通じて北朝鮮に
運搬されず、全て海を通じて北朝鮮に搬入された。このような特別な
目的は、朝鮮半島の戦争準備作業を中国に知らせないことに
ものであった(ションズファ 2017, 295).
その後、1950年6月25日に戦争が始まり、6月28日に北朝鮮軍が
ソウルを占領した際、毛沢東は金日成が基盤なしに南下し続けると、米軍が西側から上陸して北朝鮮軍の腰が切られる
ことを懸念した。そこで毛沢東は金日成に「我々の経験によれば
しばらく休んでから再び攻撃するのが賢明だ」と、一時息を
整えるよう進言した。金日成は毛沢東の言葉を聞くように見えたが、結局は
無視した。北朝鮮軍が南下し続けると、毛沢東も次第に
無視した。北朝鮮軍が南下を続けると、毛沢東も徐々に
参戦の準備に着手した(金明浩 2011)。
結び
朝鮮戦争を前にしたスターリン、毛沢東、金日成の三者会談は
彼らに開戦準備の土台を与え、金日成の1950年3月、
4月のモスクワ訪問と1950年5月13日~15日の北京訪問は、戦争
のための最後の関門であり鍵であった。歴史に「もし」はないが、当時の
毛沢東の許可がなければ、1950年6月25日午前4時30分の時間は
無意味に過ぎ去っていたかもしれない。ならば、再び報告書の目的
に戻り、5月13日から15日まで3日間にわたって行われた会談の意義と
結果を整理したい。
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
第一に、この会談を通じてソ連は中国に朝鮮戦争の
責任転嫁をすると同時に、戦略的利益を得ようとした点である。当時
アメリカとの直接衝突を懸念した、極めて慎重なスターリンの譲歩的な
責任回避の側面としても見ることができるが、中国の共産主義成功において
アジアの共産化を中国に委ねたのである。すなわち、アジア内での共産主義
陣営の勢力拡大という任務を中国に与えることで、ソ連の立場からは国際的
舞台での理念的両立という大きな枠組みを主導すると同時に、ヨーロッパと
他の地域の共産化により力を注ぐ方向へと進む、勢力拡大
分業の基盤を整えたものである。
第二に、金日成にとってこの会談が重要である理由は、毛沢東が
李周淵に、韓国の統一は武力によってのみ可能であり、アメリカは介入しない
ないだろうとしたという証言である(朴明林 1996, 154)。これは李周淵
を通じて金日成を経てモスクワに報告された二重の伝言である。毛沢東が米軍の
参戦の可能性を低く評価したため、金日成自身が持っていた
アメリカの戦争不参加の可能性にさらに力を与え、それは直ちに
戦争の実行へと帰結しうる心理的要因として作用したであろう。
金日成はアメリカの不介入意見を提起したが、毛沢東は「我々は彼らの
参謀長ではない。どうして彼らの心を知ることができようか」と、これに対する
準備の必要性を強調した。「アメリカはまともに戦いもせずに中国から
撤退し、韓国でも同様に慎重な立場を維持するだろう」と
述べた(朴明林 1996, 158)。こうした当時の時代的誤りが戦争を引き起こす
上で大きな影響を与えた。
三つ目には、金日成は戦争に先立ち最も重要な同盟国間の
相互協力と支援の約束という宿題を完璧に解決した時点である。会談
当時、毛沢東と周恩来をはじめとする中国指導部は金日成との会議を
中断し、駐中ソ連大使ロッシンを訪ねて直ちにスターリンに電報を打ち、
金日成の発言を確認してほしいと要求した。ロッシンは5月13日、直ちに
スターリンに釈明電報を送ることを望んだ。これに対しスターリンは、金日成との
会談決定内容を確認することで、北朝鮮の武力侵入に対する中国と
ロシアの最終確認を得た決定的な瞬間であった。ロッシンがこの日
モスクワに打電した電報によれば、当時の毛沢東は迅速な軍事的手段で
朝鮮問題を解決することを支持し、勝利を確信していると強調した。
四つ目には、毛沢東は朝鮮戦争において優先順位は置いていなかった
ものの、原則的に反対はしておらず、むしろ朝鮮半島の共産化を
中国革命の連続性として見ていた。朝鮮戦争において毛沢東が当時
会談内容を見ると、中国軍の追加配置や武器・弾薬の供給が
必要か否かを問うと、金日成はこれに感謝の意を示したものの、提案は
辞退した。もちろん金日成の立場からはスターリンから全ての支援を
受けていたため辞退したが、これにより毛沢東が朝鮮戦争に積極的な熱意を
抱いていたことがわかる。「もし米軍が参戦するならば、中国は兵力を派遣して北朝鮮を
支援する」とし、「ソ連は米国側と38度線分割に関する合意があるため
戦闘行為に参加することは不便だが、中国にはそのような義務がないため、北朝鮮を
支援することができる」と述べた(朴明林 1996, 158)。すでに
スターリンと金日成の戦争妥結には毛沢東の不満があったものの、
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
戦争を進めることにした以上、朝鮮半島の戦争を簡潔かつ迅速に進めて
完璧な共産国家を作りたいと内心願っていた毛沢東の姿を見ることができる。
これは、毛沢東が金日成とスターリンの合意にやむを得ず戦争に
参加することになったという、シェン・ズーファ(沈志華)を含む中国の一部学者たちの主張とは
相反する姿を見ることができる。むしろ中国の朝鮮戦争参戦は5月
13日から15日の会談で、すでに毛沢東の主張を通じて決定されたと見ることができる。
五つ目には、この会談で台湾統一が成し遂げられなかった発端となった。
5つ目に、この会談で台湾統一を成し遂げられなかった出発点
会談で中国の台湾解放構想は、金日成の朝鮮戦争を
支援することを約束した以上、全ての計画が狂い、それ以上進まなくなった。
これは台湾の蒋介石をして内戦の敗北で疲弊した内部状況を顧みる
良い機会として作用し、現在に至るまで中国は台湾の問題で頭を悩ませる
最も大きな問題として残っている。これは当時の会談で毛沢東の
朝鮮半島戦争支持という決定が大きな役割を果たしたことであり、中国の改革派雑誌
「炎黄春秋」(炎黃春秋)2013年第12号によれば、毛沢東は1956年9月24日
北京を訪問したアナスタス・イワノヴィチ・ミコヤン(Anastas Ivanovich Mikoyan)
ソ連副首相と会談で、「朝鮮戦争は根本的に間違っていた。スターリンが
当然責任を負うべきだ」と後悔する姿を見ることができる。また、「私が
見る限り、この件は中国にも責任がある」(聯合ニュース 2015)と言い、
朝鮮戦争を防げなかった中国の責任について言及する。このため、
毛沢東の誤った戦争支援により、戦争初期に中国で共産党
政権が揺らぐほど深刻だった混乱だけでなく、中国の一生に一度の
宿願となってしまった台湾との「一つの中国」を成し遂げられなかった
決定的な役割を果たしたと言っても過言ではない。
朝鮮戦争は、北朝鮮の金日成の執拗な働きかけと武力を行使して
南北朝鮮を統一しようとする意志から構想され、これを
スターリンに提案して同意を得て、中国の毛沢東の許可を経て
最終的な決定に至った。この事実が筆者が報告書を作成する上で下した
結論である。当時の過程で最も重要な部分は、金日成は武力統一を
主張し、統一に対して過度に急進主義的であり、勝利を確信していた。
彼の野心のゆえに朝鮮半島を再び戦争という破滅的な結果に
を招き、当時の国際情勢を正確に読み込めなかった誤りであった。これは
これはスターリンと毛沢東にも同様に適用される。スターリンは朝鮮半島の戦争を
指揮はするものの、表向きは退くような姿勢を見せたが、結局
金日成の南進を許した張本人である。また、中国にアジアの共産化に
対する大業を委ねることで、朝鮮半島の戦争における毛沢東の許可を重要視
し、毛沢東の決定に委ねる姿も見られる。これは構造的に
金日成が毛沢東の許可を得なければならない状況であり、当時の毛沢東の
選択は、中国の内戦勝利に起因する楽観主義的な雰囲気と、アメリカが
朝鮮半島に介入しないという誤算、そして革命の延長線として
朝鮮半島の戦争を進めようとした姿を見ることができる。結局、この戦争の
最終的な合意決定会談である金日成と毛沢東の会談が決定的な要因であった。
残念ながら、本報告書を通じて5月13日から15日にかけての会談
当事者の当時の時代的状況を正確に理解しようと試みたが、会談の
5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
記録が文書として存在しないため、周辺人物のインタビュー内容やソ連の
秘密文書などから最大限解き明かそうとした。これはロシアと中国、さらには
北朝鮮が保有する会談記録が公開されるならば、それを参考に再度
研究する価値があるだろう。しかし、現在公開されている文書のみで
垣間見たこの会談は、朝鮮戦争勃発における主要な主人公たちの努力によって
会談は構造的に行われるべくして行われたものであり、これは朝鮮戦争の最終的な
合意点であるというだけでも、少なくない含意があると言える。
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5. 毛沢東と金日成の朝鮮戦争前夜_毛沢東記念館
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2011.04.03 https://www.joongang.co.kr/article/5290302 (検索日:
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聯合ニュース. 6.25 65周年 毛沢東「戦争は間違っていた」参戦後悔 2015.06.02
https://www.yna.co.kr/view/AKR20150622001500083
(検索日: 2022.06.14).
*この本文は韓国語で書かれた原文を AI で翻訳したものです。一部の翻訳やニュアンスに誤りがある場合があります。